【句集を読む】
頻発するカタストロフ
樋口由紀子『めるくまーる』を読む
西原天気
中近東(The Near and Middle East)の語についてかねがね思っている不思議は、ヨーロッパ視点のこの用語が、極東(The Far East)でも日本語としてしかり定着していること。訳語なんだからべつに不思議でもなんでもないとも向きもありましょうが、ちょっと気にかかってきたのですよ。
で、すこし調べてみると、中近東に含まれる地域や国ははっきり決まっているわけではなくて、文脈によって多少変化するらしいが、ともかく、それは、日本を中心に据えた世界地図上では、左手のほうに、ヨーロッパやアフリカまでは行かない左手にほうにひろがる地域であることにはまちがいなく、つまり、そうしたぼんやりとした認識。もちろんニュースで伝わることもたくさんあるが。
前転で近づいてくる中近東 樋口由紀子
句は、川柳にせよ俳句にせよ、書いてあることをそのまま受け取り、イメージするのが、読者たる私の流儀なので、中近東が前転をするところをイメージする、像にする。地図上の二次元のイメージしかなかった中近東を「前転」させるのは簡単ではないが、できないことはない。
(前転というからには肉体が欲しいが、中近東の肉体というもん、きわけて想像しにくい)
(それでも一所懸命、アタマのなかに、その図を展開させる。読者たる私のつとめとして)
スケール的には壮大で、それこそ地球規模。前転で、私のいる場所に近づいてくれば、インドや東南アジア、さらには中国南部が押しつぶされる。これはカタストロフ以外のなにものでもない。
見たことのない、かつてなかったような(それこそ未曾有)景色が、この句によってもたらされるわけで、それこそが、この句の本分と思ってまちがいない。
ところで、この句に限ったことではなく、樋口由紀子『めるくまーる』においては、しばしばカタストロフが起こる。前述の前転中近東的なたぐいとは限らない。それまでの秩序、世の中の秩序、認識の秩序、ことばの秩序が破壊されるという意味で、カタストロフ。
《ゆっくりと春の小川がでたらめに 同》といった天変地異に限らず、ざまざまな様態と機序をもちつつ、例えば、
一晩だけ預かっている大きな足 同
…もまた、読者たる私のなかの、なんらかの部分を破壊・崩落させ、大変動をもたらす。
(現実として読めば、これはもう、刑事事件のたぐいです。ですが、そういうことではないだろう、きっと。しかしながら、では、なんなのだ?)
このような、この句集においては、例えば、
なにもない部屋に卵を置いてくる 同
この「卵」は、時限装置、とんでもないことが起こる仕掛けのようににも思えてくる。
なお、念のために、いまさら言えば、この種の破壊・崩壊は、悪いことではぜんぜんない。っつうか、素晴らしいことですよね。既存の認識や感情、感慨に上塗りするような句とは遠い、つまり、私たちのそれまでの状態に寄り添って、慰安してくれるような句(おなじみの共感に類する句の働き)では味わえないような体験こそが、『めるくまーる』を読むということ。
結論。ちょっともとに戻ると、中近東はめったに前転しない。今回が世界初の前転だろう。
(つづくかもしれない)
樋口由紀子『めるくまーる』2018年11月/ふらんす堂
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