2019-09-29

【歩けば異界】⑦別海(べっかい) 柴田千晶

【歩けば異界】⑦
別海(べっかい)

柴田千晶
初出:『俳壇』2017年9月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

広大な湿地帯に立ち枯れたトドマツの林が見える。これがトドワラか。白骨が散乱しているような風景に言葉を失う。この世の果てと呼ばれる地に立つと死がひたひたと爪先を濡らしてくる。

トドワラは北海道東部に位置する日本最大の砂嘴(さし)、野付半島の中ほど、別海町の飛び地にある。かつては原生林だったが、地盤沈下による海水浸水や海面上昇によりトドマツは枯死し始め、樹齢百年を超えるトドマツは今も腐食し続けている。しだいに風化消滅し、いずれは何もない湿原と化してしまうという。

湿原の地平線に一本離れて立つ電信柱のようなトドマツ。

あれは死んだ父かもしれない。

父は昔、北海道に小さな土地を買ったらしいのだが、その土地がどこにあるのか私は知らない。家も建てられない湿原みたいな土地を騙されて買ったのだと、母は父を詰っていたが、二人の死後にその土地の権利書が見つかることはなかった。父が買ったという幻の土地が荒涼とした風景と重なる。

別海という地名に、私はなぜ呼ばれたのか。

江戸時代、野付半島には鰊漁の番屋が六十軒ほど立ち並び、国後島への渡航拠点として幕府が設置した野付通行屋の辺りには、キラクという幻の歓楽街があったと言い伝えられている。一晩中明かりが点っていたという遊郭は、鰊漁の男たちや商人たちで賑わっていたのだろう。

呼んだのは父だろうか、それともキラクの遊女たちだろうか。

ハマナス、クロユリ、エゾカンゾウが地を這うように咲く半島に、父が買った幻の土地がきっとある。湿地帯に敷かれた竜骨に似た木道を行けば、半島の果てにキラクが蘇り、一夜限りの遊郭の赤い灯が点る。

別海は別界か——。

婚活サイトで知り合った男たちが、次々と不審な死を遂げた「首都圏連続不審死事件」の容疑者として逮捕され、死刑囚となった木嶋佳苗が育ったのも別海町だ。別海はキジカナ(木嶋佳苗)という怪物(モンスター)を生んだ町。

性と死が、白く立ち枯れたトドマツの姿をして、やがて湿原に沈んでゆく。

 野の涯へ鴉のような受話器置く  西川徹郎

0 comments: