2019-10-27

【空へゆく階段】№20 活写のスピード 田中裕明

【空へゆく階段】№20
活写のスピード

田中裕明

「俳句朝日」2004年6月号掲載/「ゆう」2004年6月号に転載

波多野爽波は、俳句を授かるスピードということを強調した俳人だった。

「瞬時の詩」という文章を残している。

かの有名な芭蕉のことば、即ち、「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」。長年に亘って俳句を「瞬時の詩」と考えてきた私はこの言葉に長くこだわり続けてきたし、大方の俳壇諸氏のその解釈なり、実作への適用の仕方なりにかねがね疑問を持ち続けてきた。一口にしていえば、「いまだ心にきえざる中に」がいかにもまどろっこしくてならぬ。「ひかり」とあるからには、見えたと思ったその時には既に消え失せている性質のものの筈だから、「ひかり」に瞬時に且つ反射的に対応せよとの物言いである筈だというのが、この言葉に対する私の受け止めである。

俳論などというものをあまり書かなかった爽波だけに、俳句は瞬時の詩だという主張は
どうしても書いておきたかったことであろう。

作品について第二句集『湯呑』の句から、その描写のスピードについてみていきたい。

  本あけしほどのまぶしさ花八つ手  爽波

八つ手の花の、なんともいえないまぶしさを的確な比喩で捉えている。瞬間的に、天空
から得た比喩だろう。

  鶴凍てて花の如きを糞りにけり  爽波

この比喩も考えて出てくるものではない。感じたままを素直に言葉にしたようすがうか
がわれる。

  帚木が帚木を押し傾けて  爽波

句集では「帚木のつぶさに枝の岐れをり」という作品と並んでいる。つぶさにという措
辞が、ややまどろっこしいのに比べて、掲出句はスピード感がある。

  蓑虫にうすうす目鼻ありにけり  爽波

うすうす目鼻ありにけりという表現に、たくまざるユーモアが漂う。これも瞬間的に得
たものか。

  ぼんやりと晩秋蚕に灯しあり  爽波

夏蚕、秋蚕と蚕をそだて、さらに、その年の最後の蚕飼を晩秋蚕と呼ぶ。冬を迎える頃、蚕に暗い明かりが灯されている。しみじみとした感興がある。

  虚子の鴨立子の鴨と見てありぬ  爽波

琵琶湖堅田での作品。かつて高濱虚子、星野立子らと句作りを楽しんだ堅田の湖畔に立
って思わず口をついて生まれた。

言葉の生まれるスピードが詩の純度である。。

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