高山れおな『切字と切れ』を読む
ネタバレが嫌な方は読まないでください
相子智恵
高山れおなの初評論集『切字と切れ』(邑書林・2019年8月)が出た。(何冊目の評論集だっけ?と奥付を見てみたら、意外にも初めてだった。氏が運営していた伝説の俳句評論ブログ「俳句空間―豈Weekly」の切れ味鋭い評論の印象が強くて、勝手に本を出している気になっていたのだ。あのブログで何冊分になるのだろう……)
ということで、書評を書こうと思ったのだけれど、これが案外難しい。いや、内容が難しいのではなく(むしろ、かなり読みやすく工夫されている)いかに「ネタバレ」をせずに書けるかということが難しいのだ。というのも、本書は本格的な評論集でありながら、切字の誕生から現代へと続く「壮大な歴史ミステリー」のような面白さがあって、ぐいぐい引き込まれてしまう。ネタバレしたらもったいないのである。
そんな本なので、まだ読んでおらず、ネタバレせずに楽しみたい方は、ここから先は読まないことを強くおすすめします。
●なぜ、今「切字と切れ」なのか?
そもそも、なぜ高山は「切字と切れ」をテーマに本を書こうと考えたのだろうか。長くなるが「はじめに」から引いてみたい。
平成年間の俳句の世界の特徴とは、とかんがえてみる。
すぐに思いつくのは、しばしばいわれてきた「平成無風」のフレーズである。「無風」の語にこめられたニュアンスにはいくつかの側面があるとして、昭和、特にその中期までの俳句界にあったような論作両面にわたる展開のダイナミズムが、昭和末年、さらに平成に入ってからは失われてしまったという認識がその大きな部分を占めるのはたしかだろう。
一方で、俳句研究者の青木亮人はこの時代には、〈俳句史上、最も「平均値」の高い句が詠まれ続けているかに感じられます〉と述べている。まとめれば、波風たたずいまひとつ面白くないが、作品を作る技術はそれなりの高さでたもたれているということになるだろうか。(中略)私としてはそこに、平成とは人びとがなぜか「切れ」に過大な夢を見た時代であった、という一項をつけくわえておきたいと思う。
(『切字と切れ』(以下同)P10)
「切れに過大な夢?」私はここで、疑問符がついた。私にとって「切れ」は夢も何も、「最初からそこにある当たり前のもの」だったからだ。藤田湘子の『20週俳句入門』(初版:立風書房・1993年)が(これ、名著です)俳句人生のスタートだった私にとっては「定型、季語、切字」はワンセットであり、特段「過大」に感じたことはなかったのだ。しかし、高山はこう書く。
若い人たち、あるいは若くなくても俳句歴の比較的浅い人たちの中には、切字/切れが、俳句の世界において一貫して季語や五七五定型と同様に重視され、議論され続けてきたと思っている向きがあるかもしれないが、少なくとも近現代の俳句史にあっては決してそんなことはなかった。(中略)切れだけをテーマにした大規模な入門特集がくりかえし組まれるなどという切れの前景化は、あくまで二〇〇〇年前後からこちら、元号でいえば平成中後期に特有の現象なのだ。私が俳句を始めたのが一九九六年だから、まさに「切れの前景化」の時代に俳句を始めたことになる。だからワンセットが当たり前だったのだ。これには目から鱗だった。ちなみにこの本を読んでいるところに届いた今月の角川「俳句」10月号の大特集は「名句の『切れ』に学ぶ作句法」で、「おー、本当に切字じゃなくて『切れ』って言ってるじゃん!」と妙に感動した。
特有といえばもう一つ、この時期に用語が「切字」優勢から「切れ」優勢にきりかわったのも見逃せない変化である。九〇年代前半までの雑誌記事では、本文中では切れという言葉も使われたにせよ、見出し語はほとんどが切字であった。ところが先の記事タイトルの列挙を見ればわかるとおり、二〇〇〇年代には見出し語においても、切れの方が主流となったのである。(P195・196)
切字に人びとが込めた「夢」とは何か、「切字」が「切れ」に変わっていったのはなぜか、そのミステリーは本書をお読みください。
●切字は一句の完結か?それとも修辞か?
切字の発生から現代まで、あらゆる角度から切字を俯瞰して、切字とは何かを読み解いていく本書は、平安・鎌倉の連歌における切字の誕生から芭蕉の俳諧までの「第一部 切字の歴史」と、子規から兜太に至るまで、また国語学者の切字・切れ論を読み解く「第二部 切字から切れへ」の二部構成になっている。第二部の方が今に近いぶん、当然馴染みも深いのだけれど、逆に芭蕉以前の連歌にまで遡る切字論を読む機会は少ないからこそ、第一部が新鮮で面白かった。
短連歌時代におけるその意義(切字の意義:筆者注)は曖昧といえば曖昧で、どこまでも感覚的な“なんとなくその方が連歌っぽい”といった程度のものだった。この曖昧さの感触は、内容を変えながらも、意識と形式の両面で「切れ/切字」にのちのちまで(平成まで!)付きまとうことになる。しかしともかく、前句は必ず言い切るというスタイルが定着した結果、短歌の合作ではない連歌というジャンルが自立したにはちがいない。(P30)古人の切字論の曖昧さは、まさに高山のいう〈古拙愛すべし〉なのだが、それが現代にまで付きまとうことになると思うと、遠い目をするほかはない。
中世から近世にかけて、注目すべきは、芭蕉をもって完成をみた初五末に置かれる「や」の切字である。
中世から近世にかけて、切字をめぐって現実の作品の上に生じた最大の出来事は何かと言えば、それは結局、一句の途中(とりわけ初五末)に「や」を置き、句末を体言で留めるという、こんにちに至るまで俳句の典型とみなされている表現形態が確立し、もっとも自然発生的・根源的な句末の「かな」留めによる表現形態を凌駕する勢力へと成長したことであった。(P108)そもそも切字とは、何から何を切るのかと言えば、俳諧の「発句」から「脇句」を切るためにシステム化されていったものであった。それが芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」に見られるような初五末の「や」の使用が、句末の「かな」の使用を凌駕していく過程で、切字は〈発句完結の要件〉と同時に、〈発句表現に及ぼす修辞的効果〉が意識されるようになる。これが今日の切字の論争や人々が切れに夢を抱くことにまでつながっていくのだが……スリリングで面白いので、ここから先は本書を(以下略)。
●「古池や」の句の面白さがわからない人、必読!
私が本書の白眉だと思うのが、第一部第四章の「古池句精読」だ。芭蕉の
古池や蛙飛び込む水の音
を、文字通り精緻に読み解いていくのであるが、それは、以下のような疑問に端を発する。
俳句にさして興味のない人にとっては、この句のとりつくしまのなさはそれがそのまま俳句との距離を意味するだろうし、それでなんの問題もない。しかし、俳句に多少以上の興味をもつものには、よりによってなぜこの句がいちばん有名な芭蕉作品なのかは一つの違和感としてのこる。(P131・132)私もこの古池句のよさが、実はまったくピンときていなかった一人だったので(そういう人、多いのでは?)、この章は本当に面白かった。
違和感をそのままにしないのが高山である。膨大な論考を読みあさり、この句が「蕉風開眼」と言われる必然性を探ってゆく。その過程は見事で、まるで古池句の謎を一つ一つ解いていくミステリー小説を読んでいるかのようだった。この一句のために出てくる参考文献は、注釈によれば44(一冊の中の別ページも含む)にものぼる。それを経て書かれる「古池句読解の要旨」はもう、まるで名探偵の最後の語りみたいだ。目から鱗が何枚剥がれ落ちたことか。ネタバレしてしまうので、これ以上は書けないけれど、とにかく痺れます。
●切字は「賢者の石」なのか?
近現代の切字・切れに関する各人の論考を読んでいく第二部「切字から切れへ」にも少し触れておくと、新興俳句の中で切字はどう扱われたかについて、加藤楸邨の切字に対する態度を紹介したうえで語られた部分が、耳が痛かった。
こうした実証的な根拠と、みずから制作にしたがう者としての実感に立って書かれたのが、先に引いた楸邨の(切字:筆者注)分析であった。そこには自分(たち)が俳句作者として何をしたいのかの理想と意欲があり、それを前提として実践と理論を結びつける反省がなされている。平成の俳句界における切字/切れの言説においてもっとも遺憾な点は、歴史的な知識の不足には目をつぶるとしても、自分たちが現時点でどのような俳句を書きたいのかという理想とほとんど結びついていないことだろう。(中略)そこでは切字/切れが、錬金術における「賢者の石」のごとき効能をもった神秘的な何ものかとして期待されており、切字説(切れ説)はおおむねその効能書きとして存在している(P219)●これはトリックスター的かつ王道の評論集だ(歴史に残る本だと思う、本当に)。
本書は帯に〈総合的切字論 57年ぶりの登場〉とある通り、本格的な「評論」であるが、同時に「ブックガイド」でもあり「切字の入門書」でもあると思う。
ブックガイドというのは、本書には参考文献として膨大な数の論考が出てくるのだが、参考文献の註釈が巻末にまとめてではなく、各章の末尾に置かれており、思い立ったらすぐに一次資料に当たれるように工夫されている。そのうえ〈註二 『俳諧提要』は、国会図書館の所蔵本がインターネットに公開されている。〉(P251)など、文献名だけではなく、読者がその本に出合いやすい情報を提示してくれているのだ。しかし、ここまでびっしり参考文献を読んで書かれた労作はそうはないので、後代の実作者、研究者が「切字・切れ」について述べる際は、必ずこの評論集を通過することになるのではないか。そういう意味でも本書は歴史に残る一書である。
次に入門書と書いたのは、難しい内容を読みやすく説明することに、高山が心を砕いているからである。例えば近代以前の論考における「古文」の本文とその現代語訳の置き方ひとつとっても、通常は古文を先に出して、現代語訳を後にすることが多いが、現代語訳から先に書く。ちょっとしたことなのだが、(切字を使う割には)古文にそれほど明るくなく、さらに評論もあまり読まない私たち怠惰な俳句実作者でも、読む勢いが削がれないで一気に読めてしまう。
また、〈『八雲御抄』は、順徳天皇が当時の歌論を修正した大著で、承久三年(一二二一)以前に大綱が成り(つまり二十四歳くらいまでに書いたことになる。超秀才!)〉(P18)のような随所にある突っ込みで、妙に先人が身近に感じられてくる。そうした高山ならではの語り口で、裾野を歩き始めたと思ったら、読み終わった頃には、いきなり富士山頂に連れて行かれるのだ。
これらの工夫は、実は同じく帯に〈「切れ」が俳句の本質でもなければ伝統でもなく、1960~70年代に切字説から派生した一種の虚妄であることをあきらかにする。平成俳壇を覆った脅迫観念を打破する画期的論考!〉とあるように、「そろそろ、本当の切字の話をしよう。そして切れに対する不毛な夢に決着をつけて、次に行こう」という、我々同時代の怠惰な実作者に対する苛立ちであり、呼びかけでもあるのだろう。この綿密に織り上げられた、壮大な「ちゃぶ台返し」の後から、令和俳壇は始まらなければならない。なかなかハードではあるが。
それから、評論集を読むことに慣れた人なら、参考文献が多い分、高山自身の論が少ないと感じる向きもあるかもしれない。しかしそれは間違っている。だってこの本、全編に渡って高山そのものではないか。この本のあり方そのものが、彼の「論」だ。
つまり本書は、古今の文学、芸術の世界に潜っていって先人たちと遊びつつ、それでいてメタ的な視点も決して失わず、古今の世界を往還するように俳句を作ってきた高山の俳句作品と、全く同じ態度と手法で書かれているのである。まさに、〈自分(たち)が俳句作者として何をしたいのかの理想と意欲があり、それを前提として実践と理論を結びつけ〉た評論である。
本書は、現代俳句界のトリックスター、高山にしか書けないユニークで歴史に残る一書であると同時に、どこまでも怠惰な実作者である一読者の私は、単純にこういう本、もっと出してほしいなあ(あ、個人的には「季語と季感」とか読みたいです)とか、思ってしまうのである。
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