【七七七五の話】
第5回 涙香と白秋
小池純代
「七七七五の話」ということで進めてきたけれども、二十六音詩の典型である都々逸について何も説明してこなかった。調べればわかることしか知らないからだが、「都々逸とは」と問われて即座に一言で答えられないのはどうなのだろう。二言三言記しておきたい。
「都々逸」の名称は都々一坊扇歌という人名から。扇歌は江戸時代の寄席で勇名を馳せた音曲師。川柳が柄井川柳から来ているのと似ている。すでにある詩型に人名がジャンル名として定着するのはどういった消息なのだろう。
情歌、俚謡、街歌など、モードによって呼び方は変わるが、大きな見出しとしては「都々逸」でほぼ包括できるようだ。
ご案内をもう少し加える。この詩型の来歴、属性、作例を知るには中道風迅洞『二十六音詩 どどいつ入門』(徳間書店)がありがたい。鶴見俊輔「黒岩涙香」(『限界芸術論』講談社学術文庫)ではマスメディアと投稿詩歌の関係が窺えて微笑ましい。涙香は自身の
都々逸観を自作都々逸「俚謡手引」の十首で示していてちょっと洒落ている。こんな感じだ。
歌はどう詠む心の糸を声と言葉で綾に織る 涙香「都々逸」について一言で即座に答えるとしたら、古い時代からの「うた」が、和歌の根っこに、土地の民謡に、宴席の俗謡に、子どもの口遊びに、ときと場を変えて現れたもの。火が器や燃料を変えて燃え継ぎ燃え続くように生き延びてきたもののうちのひとつに七七七五がある、という答え方をいまのところ考えている。
和歌はみやびよ俳句は味よわけて俚謡は心意気
欲を云ふなら情けの艶に時の匂ひを持たせたい
涙香より20年ほど遅れて生まれたのが北原白秋。二人とも57歳で亡くなっているのが不思議といえば不思議。
白秋は『芸術の円光』で「二十六字の俚謡体でどれだけ短歌乃至俳句の境地を歌ひこなせるかを試験して見た」と自作を示す。
遠い山脈、 とほ い やま なみ(2122)
早や雪つけた、 はや ゆき つけ た(2221)
霜の枯桑、 しも の かれ くは(2122)
陽も落ちた。 ひ も おち た (1121)
私の溜息はかういふ風の細かなリズムを含んでゐます、一息の溜息にも四つづつの撓(しを)りがあります。三四・四三・三四・五をここまで分節化したことにも、「溜息」と呼んでいることにも驚く。リズムだけでなく、「主客融合」について、「言葉のにほひ」として音韻について、一音一音の語感について、事を分けて切々と説明は続き、読むほどに胸が詰まる。
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