2019-12-15

【空へゆく階段】№21 俳句探訪 竹中宏「饕餮」 田中裕明

【空へゆく階段】№21
俳句探訪 竹中宏「饕餮」

田中裕明

「青」1984年8月号掲載
【編註】タイトルのうち〈竹中宏「饕餮」〉部分は
今回の転載に際して加えた

始は忘じぬ終は見えこずと踊り子  竹中 宏

句集「饕餮」より。集名はたつてつと読む。その謂は中国古代の青銅器の文様として刻された怪獣と自跋にある。この石川淳ふうの自跋がたいへんにおもしろい。もちろんおもしろいとか楽しいとか言うのはこのような真率な文章に対して失礼にあたるのかもしれないが読者は楽しめばよいしそれならば書き手も楽しくないはずはない。さてその自跋の中で作者は師故中村草田男の世界を「俳句は、はじめに、生命のよみがへりともいふべき、芳烈な至福の体験とともにあったのであり、そのひとの生と表現とをともに繋ぎとめる錨、ともにささえる礎石が、その場所にすゑられた。その基礎構造は、きはめて堅固で安定したものであって、爾後半世紀にわたる草田男俳句の千変万化の発展過程をとほして、すこしもゆるがなかったといへる」と感じたのちひるがえって次のように言う。
うたふにあたひするなにものを、わたくしはもつものであらふ。かへって、それらをみいだすために、わたくしは俳句をつくりつづける。わたくしのうたが、うたふにあたひするものであるのかどうか、実際にうたつてみるまでは、わからない。うたつてみて、不分明の度ははほもまさらう。一句ののちに、さらに一句をもとめねばならぬなりゆきである。ここに、文学といひ、対して芸といふ。このばあひ、うたふにあたひするものといふ含意を腹中に呑んでゐずには、文学なる概念はなりたたず、他方、うたつてみるといふ実際の動作には、芸がまねかずとも来つて、まつはる。けだし、文学は、これを芸の渦中にするほかなきものか。しかも、啓示はどこからもきこえず、象徴の構造はほぼ荒廃に帰した。(後略)
散文というのはおかしなものでたとえば詩は無内容であってもかまわなくてたとえば韻律がととのっていればそれでよくても散文ではそうはゆかない。詩がことばの伝達生をできうるかぎりおさえたものであるのに対して散文はそれを十全にはたらかせてはじめて散文である。あるいは無意味な散文など考えられない。ところが実際にはそうとばかりも言えなくて(はじめての散文というのはおかしなものでというくだりはこのあたりにかかります)散文で韻律がととのっているといえば間違いにきまっているけれどもまぁそういうほか言いようのないような文章もあるにはあってそのような文章なら伝達すべき内容などなくてもよいのではなかろうか。こうは言ってみても無意味な散文などないという前提は厳然としてあるからこの句集の自跋にしてもたとえばさきほど引用したところの最後の一文はやや気にかかる。象徴の構造はほぼ荒廃に帰した、はたしてそうなのだろうか。あきらかに間違っているというのではなくてたしかに心のそこからうべなう声が聞えるような気もする。しかしながら象徴の構造がいまだ存在するというような作り方で俳句をつくってゆくのもひとつのいきかたであるとも思えてどうせならあると考えていたほうがかえって別のことが言える。

  廃工場のギリシア風柱頭まひるの藤

  降車して芯なき人波懸崖菊

  滝行場へ足あと小さくしだいに密

  軽き死もあるか噴水はさらに脱ぐ

  虚無と名づけあと揺ぎをり野の日傘

  下肢は木のやさしさ佛月浴びて

  鯉おさへ切ると餅花へも目くばり

  帰り花生れて遊ぶもの短袴

  ほととぎす火の舌失せて朝の蠟

  箱庭や遊びをせんとしつくしてか

  マラルメて誰梨は木に灼け響き

  ピカソ春に死し夏はての船首の牛頭

  午睡界より朱の祠率てもどる

  頭韻法、蟻地獄消え蟻生きのこる

  凍鶴や鐘楼に継ぐ素木の脚

  餓鬼忌から十日餘りやこの半世紀や

最後の句は中村草田男を悼むという前書きのある四句のうちの一句。この句集は中村草田男にささげられているけれどもその集尾に師を悼む四句が屹立している姿はかなしいものである。しかしながらこの弔句には感傷はみじんもない。「先人の経験は、おほきなはげましである。とはいへ、かなしいことに、それがすぐに、わたくし自身のうへの事実とはならない」と言いきった作者の哀切はあってもセンチメンタルなひびきのないのと同様である。とくにこの一句昨年の真夏になくなった中村草田男の長い俳句とのかかわりあいを鳥瞰してあますところがない。しかして頭韻法の句、これはアリテラシオンとルビが振られている。つまり頭韻法という言葉で韻がふんであるという趣向である。作者によれば「小歌には小歌なりのなぐさみがある。だが俳句形式には、もっと強靱な弾性がひそむとみてあやまつまい」ということだけれどもこの句などはちょいと小唄ぶりとみてかまわない。もともと詩を純粋詩と小唄ぶりに分けて考えたときにかならずしも純粋詩にくみするほうではない。どちらかと言えばライトヴァースとして俳句をとらえるのが性にあってはいるのでこういう句はおもしろい。たとえば現代詩ではライトヴァースに見せかけたディフィカルトポエトリーを書くということがあるけれども俳句ではそんな芸のこまかいことはできない。あるいはもっと芸がこまかいのでそういうつくりにはならなくてたとえば脇をさそうということがある。もちろん純粋詩と小唄ぶりの両方をそなえていることが大切なのであってどうやら中村草田男は純粋詩としての俳句の作者ととらえられているけれどもそしてまたしんじつそうにちがいないがやはり小唄ぶりの作品もあってそれが草田男の名をおとしめるということはない。そして草田男のディフィカルトポエトリーの部分だけをまなぶということはないからこの句集の作者もまたライトヴァースの味を知っている。それをこの句集でややかくしたきらいがあるのは作者一流の照れであろう。踊り子の草田男はまさしく純粋詩のようだがずいぶんまわりくどい方法で脇をさそってはいないか。

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