【七七七五の話】
第6回 思い切る瀬と切らぬ瀬
小池純代
「どどいつ」という呼称についてもうひとつ。都々一坊扇歌の「都々一」はどこから来たのか、という話である。扇歌より以前に「そいつはどいつだ どどいつどいどい」という囃子文句があって「どどいつ」はそこから生まれた名称なのだそうだ。
お囃子というのだから話は音曲の分野に及んでゆく。和楽器の女王、三味線と手を携えた都々逸は音声の文芸へと歩を進める。道をはずしたのではなく「うた」の王道に戻ったのだ。
「そいつはどいつだ」は尾張の遊里で遊女を買う「そいつ」は「どいつ」だという歌意がそもそもらしい。卑俗な出自は裏返せば即、洗練の極みとなる。たとえば本條秀太郎『三味線語り』に神戸節の紹介がある。
そいつはどいつだどどいつどいどい浮世はサクサク 神戸伝馬町に二瀬がござる 思い切る瀬と切らぬ瀬と そいつはどいつだどどいつどいどい浮世はサクサク「神戸」は名古屋の地名で「ごうど」と読む。付録のCDで聴いてみるとおそろしく淡い。淡いが勁い。恋情をうたっておよそ甘さがない。
八音三句のお囃子のクッションに挟まれた二十六音の機知の詩句。言わばご当地ソングだが、川のある町だったら名前を差し替えてどこの唄にもなる。なにさまでもなにものでもない。しかし、なにものにもなる。こういったフレキシブルなふところの深さ、変化に対するカジュアルな腰の軽さは、都々逸の特質のひとつだろう。
「思い切る瀬と切らぬ瀬と」は切るか切らぬか白黒つけたいわけではなく、思いの川にあるさまざまな瀬から二つの瀬を掬ってみたというに過ぎない。切る瀬と切らぬ瀬の逢瀬の発生だって考えられる。
白だ黒だとけんかはおよし白という字も墨で書く
あきらめましたよどうあきらめたあきらめきれぬとあきらめたまるで自問自答する禅問答のようだ。のほほんとした小理屈に救われる思いがする。
都々逸には「冠付け」という形式がある。二十六音の頭に五音を載っける。合計三十一音になるが短歌とは違う。「あんこ入り」というものもあって、これは「上七中七」と「下七座五」の間に漢詩の一節を入れる。お腹を割ると漢詩のあんこが出てくるという次第。
この変幻自在ぶりは宴席や高座といった空間と空気がもたらしたものかもしれない。虚無に満ち、その奥に諦観が漲り、底ではすべての種類の笑いが波立つ。声をあげていくらでも笑っていていい場所。ほぼ極楽ではあるまいか。そこから眺める浮世の音はサクサク。
世間はちろりに過ぐる ちろりちろり
世間は霰よなう 笹の葉の上(え)のさらさらさっと 降るよなう「世間」は「よのなか」と読む。どちらも『閑吟集』の小歌。ちろりちろり、さらさらさっと、サクサク。この世はなんと可憐にして爽やかな音を立てているのだろう。
0 comments:
コメントを投稿