2020-01-12

【句集を読む】夢の本棚 中尾寿美子『舞童台』を読む 中田美子

【句集を読む】
夢の本棚
中尾寿美子『舞童台』を読む

中田美子


七月や深井戸に水起ちあがり   『舞童台』

さらさらと水遠ざかる夏蒲団

眼帯の中は海なり桜桃忌

鰯雲しづかに塔の動く日よ



俳人中尾寿美子は一九一四年生まれ。一九八九年に亡くなるまでに、『天沼』『狩立』『草の花』『舞童台』『老虎灘』『新座』という六冊の句集を残した。掲出の四句はいずれも第四句集『舞童台』のもので、どれも水やら布団やら眼帯やら、目の前のありふれたものたちがある瞬間、とんでもなく遠いところへ飛躍していくような、不思議な違和感に満ちた作品たちである。

句集『舞童台』は一九八一年刊。秋元不死男「氷海」、鷹羽狩行「狩」同人であった彼女が永田耕衣「琴座」へ転じた直後の句集である。秋元不死男門から永田耕衣門へ、というのは俳人の経歴としては異例の振幅であるが、そのことがそのまま作品にも反映されていて、俳句そのもののダイナミックな世界観が読者を圧倒する。それまでの作品がいわば「序・破・急」の「序」であるとすれば、この句集はまさに「破」、そして第五句集『老虎灘』で中尾寿美子は「急」へ、と進んでゆく。私が知る限り、こんなことはめったに起こらない。稀有な俳人なのだ。

そんな俳人中尾寿美子のたぐいまれな感性は、処女句集『天沼』で、すでに忘れがたい印象を読者に与えている。


ガラス植ゑし塀の月光猫あゆむ   『天沼』

金魚玉仮縫の針全身に

猫が吐くまみどりの草遠枯野


私がこの三句を目にした時、中尾寿美子はすでに亡くなっていたが、その新鮮で独特な感覚に強い印象を受けたことをはっきりと覚えている。変り映えのしない毎日、おだやかであるはずの日常にありながら、いつも見てはいけないものを見てしまう作家のまなざし。美しさややさしさのただなかにある時ですら、全身で感じずにはいられない痛み、というようなものが十七文字の中にあふれ出す。

その後の作品を知った今、はっきりと思うのは、最初に書いたことと矛盾するようだが、一見大きく変容したように見える中尾寿美子の世界は、実は最初から全く変わってはいない、ということだ。俳人としての修練や磨き上げられた感性は、彼女の作品に自由とより大きな世界を支える力を与えた。そうして彼女は彼女のまま、より高く、より大きく飛翔したというだけなのだった。

興味深く思ったのは、師秋元不死男が、『天沼』の序文で、彼女の作品の変化についてすでに述べていることだ。秋元は、「彼女のこれからの、まだ長い句作生活を思うと、その変化に対して私は大いに期待と興味をかける」と書き、さらに「作家は変貌しなくてはならない。いや、変貌すべきものだ。」と続けている。師として、彼女の資質が、どこか遠いところ、別のなにものかを志向していることを、うっすらと見通していたのではないだろうか。

余談になるが、同じ序文の中には秋元の、女流俳人についての実に痛快な一説がある。いわく「女流俳人―わけても主婦―といえば、今も家庭的な俳句をつくるのが特質のように云われている」が、これは「私に云わせれば、家庭的女性を好む男性が俳壇に多いからだ。」そして「これは詩の問題とは、直接、何のかかわりはない」。

その後、第ニ句集『狩立』の序文に、秋元は中尾について「このひとの作には、どこか資質的なうまさをおもわせるものがある」と書いている。皮肉ないい方になるが、私から見れば、秋元は、それだけではなかったにしても、結局、「うまい」作品を書く作家を好む俳人であった。中尾寿美子が秋元の死後、「破」を求めて、永田耕衣を師に選んだ理由も、そのあたりにあったのではないだろうか。


走るのが好きで走れば芒かな    『舞童台』

はればれと水のむ吾れは芹の類

こころねの深きところに龍の玉



中尾寿美子はまた、自身が変容する作家だ。走っているうちに芒になり、水をのんで芹になる。心というものがどこにあるのかは知らないが、胸だか頭だかのどこかには龍の玉。書きようによっては猟奇的になるような鋭い感覚も、彼女の作品の中ではいつも明るい。『舞童台』を上梓するまでには大きな病気もしたということだが、そういうこととはかかわりなく、健康で力強いところがある。この強さはやがて、第五句集『老虎灘』で、さらに彼女を豊かで、大きな世界に導くことになる。


奥の間に坐れば桜咲きにけり   『舞童台』

次の間にときどき滝をかけておく 『老虎灘』


『舞童台』の後、中尾家の奥の間は目を閉じて夢みる場所から、どうやら天地創造の実験室になったかのようだ。でもあれこれ騒ぎ立ててはいけない。当の本人は、あれは滝の絵ですよ、あなた何言っているの、なんて涼しい顔をするに違いないのだから。


余生とは菜の花に手がとどくなり 『舞童台』


俳人は、すぐ目の前にあって、でも決して手の届かない菜の花を、いつも追い求めている。ささやかな日常の風景を切り取るところから始まって前に進み、五感を研ぎ澄まし、夢みることを怠らなかった中尾寿美子。いつも自分自身であり続け、なお変容し続けた俳人の余生には、輝かしいまでに健康的な菜の花が咲き誇っている。 


『舞童台』 五十句

山彦の相逢ひにけり栗の花

血を流す幹のありけり松の花

七月や深井戸に水起ちあがり

さらさらと水遠ざかる夏蒲団

樫鳥やたなごころなど晴れわたり

夜は海が近くまでくる仏の座

冬の山一の鳥居をくぐりけり


蝶々のあしあと残る山の空

暮の春ひとさし指に指されける

おぼろ夜の柱の茂ることあらむ

春の杉唄の途中を忘れけり

押入に泣きごゑしまふ花祭

蓑虫の逆立ちあゆむ都かな

びしょ濡れのたましひ一つ草市に

海夕焼そよぐ三人四人かな

眼帯の中は海なり桜桃忌

忽然と炎昼になる鏡かな

階段の途中にて寒明けにけり

夕顔は月よりすこし明るけれ

雨あしのみるみる真葛原となり

鰯雲しづかに塔の動く日よ

走るのが好きで走れば芒かな

風呂敷の中は晴れたり実山椒

たましひに偏りにけり青蜜柑

眼の中も暮れてしまへば葱畑

寒玉子朝のはじめを泪ぐみ

余生とは菜の花に手がとどくなり

いちまいの若葉で見えぬ父のこと

蟻として転倒したり夢の中

炎昼のまんなかに猫笑ひおり

七十にならば見ゆべし牡丹の根

白髪にいますれすれの晩夏かな

あさがほの種になりたる媼かな

一っ家は秋の蛾を入れ遊ぶなり

かりがねや眼の玉ふたつ傷もなし

老人もときには走る石蕗の花

はればれと水のむ吾れは芹の類

葉桜や家出をおもひ家にゐる

愛はいま冬の菫にさしかかり

こころねの深きところに龍の玉

奥の間に坐れば桜咲きにけり

骨壺のときどき動く松の芯

桃ひとつ吾が前にある漫(すずろ)かな

蟬鳴くや吾が体内に海は在り

老人のそよそよとゐる鳥居かな

一人なら走つて通る紫蘇畑

末黒野をたぐりよすれば男かな

魂にぶつかりし虻忘れめや

うつぶせに倒れて春を愉しまむ

目は眉のあたりに在りぬ早苗月





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