【空へゆく階段】№22
ゆうの言葉
田中裕明
ゆうの言葉
田中裕明
「ゆう」2000年2月号・掲載
年末、雑事にまぎれてこの「ゆうの言葉」を書けないでいるうちに、新年をむかえました。元日の朝、これを書いています。本年もよろしくお願いします。
二〇〇〇年の俳句、と言っても何も新しいところはない、と言えばその通りなのですが、毎年毎年あらたな気持で俳句にむかいあいたいと思います。自然を大切に、自然の中の自分を大切に、俳句を詠みたいものです。
水鳥のしづかに月を震はせて 麻
繊細な作品です。月の光の中で水鳥が何羽か身を寄せあっています。水鳥の存在が月光を震わせているかのように感じられたのでしょう。
逆に月光が水鳥を震わせているようなところもあって、不思議な雰囲気をもった作品となっています。良質のポエジーがあります。
日沈む方へ歩きて日短か 尚毅
季語をいかに新しく用いるか、はたらかせるかというところに、作者は注力しています。それもできるだけ肩に力を入れずにさりげなく。二物衝撃とは違う俳句の作りようも確かにあります。
理屈や意味のない世界が、詩の本来の世界です。
繪も壺もかたみの露の館かな 満喜子
大きな館があって、そこに先人の遺した繪と壺があるという事実を述べたものですが、「かたみの露の館かな」と表現することでふくらみが増しました。
かりがねや手紙を書いて読みかへす 刀根夫
かりがねという季語も、俳句に詠みつくされています。「雁やのこるものみな美しき」「雁の束の間に蕎麦刈られけり」という石田波郷の作品は私の初学のころからの愛唱句です。しかしながら、掲出句もそれらの名句に負けない作者の思いが感じられます。
こういう季語に挑戦してみることも、大切なことだと思いました。
末枯れてなほ花が咲く蝶が来る 定生
こういう句の面白さを説明するのはむずかしい。よく物を見て作られた作品だと言うことはできます。ただ写生がよくできているから面白いのかというと、そうばかりでないようにも思われます。少し古風なかんじがあって面白さが出ているようなところもあります。
しやつくりはさびし綿虫沸く夕べ 啓子
創刊号の「ゆうの言葉」に取り上げた啓子さんの作品は「年棚の下のひとりは淋しかり」でした。この号でもまた淋しい俳句を取り上げ、これが啓子作品への最後の選後評になることが残念でなりません。
もともと明るい、気の晴れるような作品も見せてくれる作者であっただけに、病いがそれを許さなかったのかと悲しい思いです。
掲出句、しずかに己れを見つめているようすが心にしみます。
一扇と共に古りけり枇杷の花 敦子
若いころから心に掛けていた扇も、いまは古扇と呼ぶべきすがたで、それと同じく我もまたという心境でしょうか。枇杷の花が数日のうちに古びたように思われるという読み方あって、そちらも面白く思いました。いずれにしても季語との配合に、句の内容とは別に新鮮なものを感じます。
夕べ訪ひ母茫々と着ぶくれて 青鳥花
言葉は多少舌足らずなところがありますが、作者の気持ちは十分にこめられています。その逆よりすっとよいことです。
ひんやりと赤子のまぶた返り花 文子
ちぢれたような返り花の花びらと、眠る赤ん坊の小さなまぶたに細い糸が通っているようです。
たいへんに感覚的だけれども、読者を納得させるだけの季語のはたらきがあります。こういう作品に触れると、あらためて季語の本意ということを考え直してみたいという誘惑にかられます。
木の国の木のみな濡るる神の留守 雅子
どうも私たちの俳句は小さい景色の中に詩を発見することが多いようです。それはそれで良いところがありますが、ときには大景を詠んでみたいもの。作品も紀州に旅して、そういう思いにかられたのでしょうか。
「木の国の木のみな濡るる」という作者らしからぬ大づかみな描写が、句柄を大きくしました。
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