2020-03-08

【句集を読む】生駒大祐の行方 句集『水界園丁』の一句 西原天気

【句集を読む】
生駒大祐の行方
句集『水界園丁』の一句

西原天気


マルグリット・ユルスナールの短篇集『東方奇譚』〔*〕、冒頭の一篇は脱俗の老絵師・汪佛(かんふお)と弟子・玲(りん)の旅を描く「老絵師の行方」。

絵筆、顔料と墨を容れる壺、絹の巻物、通草紙(とうし)の画箋紙、それ以外のものはこの世で手に入れるに値するとは思えなかった。彼らは貧しかった。汪佛は金銭をいやしみ、自分の画を一碗の粟の粥ととりかえるのだった。弟子の玲は、画の下書きのつまった重い袋をかついで、あたかも蒼穹の天蓋を背負っているかのようにうやうやしく身をかがめていた。それというのも玲の眼からみれば、この袋は、雪を頂く山々や、春の江河や、夏の月の面輪などに満ちみちていたからである。
物語の終盤、二人は、若い統治者(皇帝)の命によって捕らえられます(その理由はここでは割愛します。興味のある方はぜひご一読を。美しい訳文が伝える極上の短篇、珠玉の短篇集です)。皇帝の前に引き立てられ、画筆を無理強いに振るわされ、残酷極まる仕打ちがくだされんとするその寸前(ここが「老絵師の行方」のクライマックス)、二人は、汪佛がそこで描く海原へと漕ぎ出し、消えていくのです。

現実の世界から、汪佛の絵の世界へと旅立つというわけで、こうした虚実の境を通り抜けるモチーフはめずらしいものではありませんが、この物語の美しさは、筆致や話の運びとは別に、現実と虚構(芸術作品)が対照対峙するのではなく、ざっくりといえば、優れた芸術作品は、現実に増して現実(の美醜)を現前せしむるといった転倒、虚実の交錯にあります。

さて、ここで生駒大祐句集『水界園丁』です。

この句集が〈虚〉に満ちみちていると言いたいわけでありません。でも、〈実〉の描写、〈実〉への漸近が企図されているのではなさそうです。

それだから直截に、というのではなく、『水界園丁』を読んだとき、「老絵師の行方」を思いました。

集中2句目の〈よぎるものなきはつふゆの絵一枚〉ほか、「絵」の頻出も理由も一つかもしれません。ことばという枠組(額縁)、俳句という枠組のなかに、さらに絵という枠組を設定する。集中に「絵」が散在するのは、作者の意図のような気がしています。

みずからが到達した画境の中に消えていく老絵師のことを思いながら、『水界園丁』を読むと、例えば、

五月来る甍づたひに靴を手に  生駒大祐

しぐさを想像するとちょっと可笑しみのあるこの句も、趣が一変、甍が海に見え、さらには大空が彼と私たちと五月の頭上にひろがります。「靴を手に」したなにものかが、彼方に消えていくようにも思えてきます(「来る」の二文字があるにもかかわらず)。

で、この句のほかにも、消え入るような句が多いように思いました。それがこの句集の美しさの重要な部分だと思っています。すこし無理筋な言い方をすれば、句が句の中に消えていく、というか、なんというか(これじゃあ伝わらないなあ。くやしい)。

でも、まあ、作者の生駒大祐はこのさき皇帝に捕まったりしないでしょうから、〈水界〉へと消えてゆくなんてこともないのですが。


〔*〕Marguerite Yourcenar; Nouvelles Orientales, 1938/多田智満子訳/白水社/1980年

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