【2019落選展を読む.4】
「新しい」と「深い」
橋本小たか「凄い坂」とクズウジュンイチ「水路」を読む
上田信治
今回の「落選展を読む」は、編集部による一次予選通過作であるクズウジュンイチさんの「水路」と、同じく予選通過作、橋本小たかさんの「凄い坂」(「俳句」2019年11月号掲載)を読みます。
合わせて、俳句の「新しさ」と「深さ」について、考えたことを書けたらと思っています。
橋本小たか「凄い坂」
2019角川俳句賞一次予選通過(本誌に50句掲載)
「俳句」2019年11月号 >> https://amzn.to/2yqQ4dG
「凄い坂」は小澤實さんの◎で、受賞2作に続く評価を得た作品。
橋本さんは「円座」「秋草」所属。「円座」の武藤紀子さんが、新しい感覚をもっていると橋本さんを、「秋草」の山口昭男さんに預ける格好で、二誌所属となったそうだ。橋本さんは『たてがみの掴み方 俳人・武藤紀子に迫る』という武藤さんが俳句人生と作品を語り尽くす、メチャクチャ面白い本の、聞き役まとめ役でもある。
1句目から7句目まで、略さずに引く。
飼つてゐる羊に梅の咲きにけり
南座に今灯のともる田螺かな
夏燕道路標識青と赤
見てゐれば家の人くる幟かな
棕櫚一本花さく家へ凄い坂
大皿の鰹にサランラップかな
門あけてすぐに玄関蝉丸忌
ここまで読んで、この人は「新しい」と思った。「新しい」に「 」(かっこ)をつけたのは、何を新しいとするかは、意見の分かれるところだからだけれど、そのことに同意してもらえるかどうか、一句ずつ検討していきたい。
飼つてゐる羊に梅の咲きにけり
一見ふつうの句に見えるけれど「飼つてゐる」という導入から「咲きにけり」への展開には異様なものがある。通常の構文意識であればこうは続けない。日常の意識のあり方から断絶した、と言って大げさなら、数センチの浮遊。よく見ると地に足が着いていないのが自分の俳句だということを、巻頭の1句めから表明しているのだ。
南座に今灯のともる田螺かな
芭蕉の「田一枚」あるいは、岸本尚毅「手をつけて」と同じ取り合わせの「かな」という型。そのことはいいとして、その場所に田螺がいる? すぐ近くに川はありますけど、鴨川が。田螺が「蛙の女郎買い」のように、夕暮れの田んぼから町の灯を遠望しているのか、あるいは屋根の形からの連想か(だとしたら、ずいぶん豪勢な田螺)。ともかく一見ふつうに見えて、大きくデフォルメされた取り合わせだ。
夏燕道路標識青と赤
虚子の「線と丸電信棒と田植笠」を連想させる、写生の行きすぎた(やりすぎの)純粋主義の再現。「夏燕」の空への広がりがいい。
大皿の鰹にサランラップかな
冗談のような「かな」といい、素材といい、きわめて意識的にモダナイズされている。
「見てゐれば」の句には「家の人」というずいぶんな口語がすべり込ませてあるし「蝉丸忌」から連想される交通のイメージと「門開けて」の取り合わせも、まったく伝統的ではない。
棕櫚一本花さく家へ凄い坂
「凄い」は活用も口語「坂」に接続することも口語的。これが表題句なのだから、ますます作者のスタンスは明らかで、この人は「新しい」ことをやって、賞を獲る気なのだ(その気持ちはすごく分かる)。
下から見上げる人の目に、高く伸びた棕櫚が見えているのだろう。それだけ伸びる時間が経過した家は(自分の生家ではなくても)誰かにとっての懐かしい家だ。そして、そこに到る道がめちゃくちゃな急坂だというw なんで、この家の人はこんなとこに住んじゃったか、という可笑しさ。棕櫚の花は初夏なので、その坂は気持ちよく登れるというものだけれど。
50句通して読んでみて、この人はまず「作り方」を意識して書く人だ、と思った。
1句目の「飼つてゐる」のような、すーっと入る導入(素十がよく使う型だ)の句は、今作に「見てゐれば家の人くる幟かな」「まづひとつ螢袋になってをり」「やってきて芋の葉ほめる漁師かな」「そのなかにアロエの猛る片かげり」「つよく吹く風の鳥籠昼寝覚」がある。
2句目の「田螺かな」のような、取り合わせの「かな」は「青田より帰りてひらく金庫かな」「バスケットシューズのきしむ菖蒲かな」「にはか雨軒に切りこむ牡丹かな」「菜の花の一列咲きし年賀かな」「道ばたに喪服かたまる青葉かな」と並ぶ。
冒頭の何句かのような、いい意味で頭のおかしい句ばかりではないし、特定の型の句が目だって多くなるのは、この人の使える「手」が、まだ、そこまで多くないということかもしれない。
とはいえ、面白い句、心惹かれる句がいくつもある。
玉葱を吊りさげてある脚立かな
取り合わせを現物でやっているような、さっぱりとしたオブジェ感。言葉は歌わず状態の説明につとめているのに、ものが季語だというだけで俳句に見える(「寝かしある庭梯子にもげんげかな」「衝立に子供の水着掛けてあり」という同形同想の句があるのは惜しい)。
農村に近い郊外の風景という俳句に親しい範囲に、道具立ては収めつつ、文体やモチーフがバレない程度に「動かして」ある。人があまりやらないやり方で、俳句を、自分の側に引きつけているのだ。
法然忌脚立の足を包む布
また脚立w 法然といえば、念仏を民衆に広めた人。その忌日がなぜ「脚立の足を包む布」なのかと問うても、説明の言葉が追いつくような取り合わせではない。
緑蔭のバターナイフとフォークかな
緑蔭の洋食器に意外性はないけれど、あの小さなバターナイフと普通のフォークの並びは、バランスをかすかに乱していて可笑しく、その間抜けさが不穏でもある。
ところで。
私たちは、いろいろな書き手がいろいろな価値基準で書いている俳句を読み、やろうとしていること自体が違う作品の、それぞれの価値を考えるわけだけれど、そのとき、芸術作品のプリミティブな実用性(なぐさめとか気晴らしとしての効用)を除いて、共通に使用可能な物差しがあるとすれば、それは「新しさ」と「深さ」ではないかと考えるようになった。
「新しい」というのは、通時的な蓄積の総体(と現時点で見えるそれ)から見て「外れ値」でありながら成立しているということで(だから、昔の人の句も、思い思いに新しい)。「深い」というのは、古い新しいは関係なく、見えないところで成立しているということだ。この「成立」は、単純に心が動くということと、俳句になっているということの両方だ(そして俳句になっていることの定義はむずかしい)。
橋本小たか「凄い坂」50句のいくつかの句は、間違いなくとても「新しい」。俳句にとってまだ例外的な方法を試み、成功していると思う。
その方法は、近年、若手作家を中心に多く試されているものにも連続していて(後半でとりあげるクズウジュンイチさんとも共通する部分がある)、方法自体で突出したオリジナリティや革新性を主張するものではない。
けれど、それらの句が穏当な「ふつう」の俳句としても読めることが、かえって、橋本さんのアプローチの私有性を目立たせている。わずかだけ違っていることが、その人の「わがまま」さの質をよくあらわすのだ、とも言えようか。
50句の半数を超える句は「ふつう」にかつてあった俳句を志向する俳句だけれど(「ライターの火の立つ匂ひ竹落葉」「さかさまに傘干す泰山木の花」「つよく吹く風の鳥籠昼寝覚」など)、自分には「棕櫚一本」のような新しみのある句が、叙景としても興趣深く読めた。
飼つてゐる羊に梅の咲きにけり
羊と梅の取り合わせは(ちょっと意外ではあるけれど)自然に近い暮らしの、日常の範囲内のモチーフだ。しかし、その羊について「(自分が)飼つている羊だ」と認識することと「梅が咲いた」と認識することは、どうにも食い合わせが悪い。
もし上五が「ひとの飼ふ」なら「羊に梅の咲きにけり」で何の問題もない。「飼ひ山羊に」「飼ひ犬に」なら「梅の咲いたる藁家かな」とでも何とでも言える。
だから、たぶん「飼つている」に隠れた「(自分が)」が邪魔なのだ。羊も梅もそれぞれ無関係に世界の側に属していて、「羊」を「飼つてゐる」などと思っている自己意識は、その世界に置きどころがないということに気づかされる。
俳句が書いたことのない、しかも俳句でしか書けないような「深さ」に触れる、驚きがあった。
クズウジュンイチ「水路」
2. クズウジュンイチ「水路」≫読む
クズウジュンイチさんを、橋本小たかさんと合わせて読もうと思ったのは、クズウさんもまた「新しさ」を追求している書き手だ、と思ったからだ。
春泥や次次と来て頭数
ほほじろや橋は架かつてゐる水路
みつばちの外働きの終ひかな
稲刈の機械に親が乗つてゐる
これはという句を、4句引いた。「頭数」。「橋は」の「は」。「外働き」。「親」という語の、軽い乱暴さに、おどろき呆れつつ、味読してほしい。
たとえば、この「橋は」の「は」のような助詞のずらしなどのことを、前半で「近年、若手作家を中心に多く試されているもの」と呼んだ。いまどき、その助詞を「を」にするか「は」にするかなどを意識せずに書く俳人は少数派だと思うけれど、そこを、さらに一歩も二歩も踏み外してみせるというやり方である(見たことあるでしょう?)。
仮に言語の恣意的運用と呼んでおくけれど、それは坪内稔典さんの言う「片言性」を、わざとらしいほどに加速し押し進めたものでもある。
古くは西鶴の阿蘭陀流や芭蕉の漢文調、子規や虚子にもあったけれど、数奇とバサラの滅茶苦茶流みたいなものが現れるのは、俳句形式のどこかに必然性のある、先祖返りなのではないかと思う。
春泥や次次と来て頭数
「頭数(になってゆく)」とうしろを省略し、わざと舌っ足らずにしていることが、この句にドラマとして発生している馬鹿馬鹿しさと虚無感によく釣り合っている。次々きては単なる員数にされていく、影のような男たち(だよね)が、春光に包まれた泥人形のようにイメージされる。
ほほじろや橋は架かつてゐる水路
「橋は」の「は」は、わがままが過ぎる。橋「は」架かっている……じゃあ、この人はなにが不満なんだwと。
頬白が鳴くような郊外を、水路(用水路かもしれない)に沿って歩きながら「橋は架かっている」と思うことは可能だけれど、どうしてそう思ったかは確定しない。渡ろうと思えば渡れると思ったのか、この水路を渡る人などいまい、と思ったのか。感情移入を誘いながら、それを完了させないこの句は、じつは言い終えられていないのだ。
読む人は、その謎とともに、郊外風景のなかをいつまでも歩いて行かされる。これは、読む体験として新しい。
「みつばち」の句は「外働き」の語がおもしろいのだけれど「終ひ」と言ってその蜂がつぎつぎと巣に帰ってくる絵を見せるところが上手い。「稲刈の」の句、父とか母というかわりに「親」という現代の若者語(いまの50代は若者)を出されて、まんまと驚かされた。この「親」の言い方は、あまりに内面語に近いので、まるで、自分の親が、そして親のことを言っている自分が、俳句内に現れたようだったからだ。
この作者は、言葉をああしてみたりこうしてみたり、俳句としてぎりぎりアウトなものを、せっせと持ち込んでくる。
成功しているものも、失敗と思われるものもあるのだけれど、その失敗が返って信頼に足る。新しい何かを自前で開拓することに、価値を置いていることが、分かるからだ。
そして、もう一つ気づいたのは、クズウさんが、自前の現実をつかんでくる人だということだ。
しやわしやわと夜通し食んで夏蚕かな
鳴かずとも振る鈴虫の髭白し
駅前のカンナは錆びて話し声
秋鯖の大きな顔を落としけり
消えぎはの焚火の芯を蹴り出しぬ
横薙ぎの鳥が返してくる枯野
たとえば、動植物の登場する句に顕著だけれど、なにより、はじめに挙げた「春泥」から「稲刈」の4句。それぞれが、感情的実質と、それをはみ出す人のたたずまいのようなものを含んだ叙景になっていることは見逃せない。
その言うに言われぬものは、あらかじめどこかにあったのではなく、言葉が言葉として生まれる時に「俳句として新しいものになれ」という、無理極まる珍妙ともいえる負荷をかけられて、ねじれにねじれた末に現れたものだ。だから新しくあろうとすることこそ詩としての「王道」なのだし、そのような句を作る人は(前言をひるがえすようだけれど)やはり前もって、世界を「深く」感じているのだろうと思う。
春風の抜けて素焼の耳飾り
ひばりごと空の流れてゆきにけり
レモンふふむ大きなバスは遠くまで
小春日にいくらか笑ひ合つてゐる
このような、ひどくやさしい抒情があり、
うぐひすは北にひらけてゐる敷地
夏薊目玉に膜のあるくらし
光沢のシャツがめじろの木の根元
短くて猿のしつぽや山椒の実
このような(ときに失敗もしているけれど)軽口に近い言葉の自由がある。
今回、この50句を予選通過させたのは、編集部のヒットではないでしょうか。
舟底に寒鮒生きてゐて静か
舟底も平ら、鮒も平ら。この句の視点は、真上だろう。鮒も静か、水も静か。すべてを見下ろす神のような視点に移入する私たちも、しーんとした心持ちになる。
落選展を読む.1
https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/03/20191.html
落選展を読む.2
https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/04/20192.html
落選展を読む.3
https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/04/20193.html
>> 2019「角川俳句賞」落選展
http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/655-2019-11-10-2019-1.html
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