2020-05-10

【週俳4月の俳句を読む】雑読雑考6 瀬戸正洋

【週俳4月の俳句を読む】
雑読雑考6

瀬戸正洋


富樫鉄火のブログ「グル新」を、愛読しています。「同じような話題をグルグルめぐるけれど、基本は新しい話題」であるということなのだそうです。彼は、音楽ライターですが、句会を同じにする俳人でもあります。

第278回(2020.04.06)は、「余分なきマスクの余聞」でした。この回は、昭和10年(1935)の、川端康成の「浅草の姉妹」を原作とした映画「乙女ごころ三人娘」(監督、成瀬巳喜男)から書きはじめています。芝居小屋や音楽小屋の場面があり、「黒いマスク」をしている観客がちらほらいることに気づき、驚いたと書いてありました。それから、本題に入り、仮面、仮面劇、ヴェルレーヌの詩集「艶なる宴」、ドビッシーの「月の光」などに移っていきます。

日本人がマスクの色を「黒」としたことに興味を覚えました。黒色を見るということは、叡智に触れることを意味するのだそうです。



さて、ふたりの作品を読んでいきたいと思います。

片栗の花に屈むと踵浮く  黒岩徳将

踵を浮かせようとしたのではありません。片栗の花を近くで見ようとしただけなのです。このようなことは、からだのメカニズムというよりも、私たちの暮しのなかのメカニズムといってもいいのかも知れません。

まづレタス敷いて始めんサラダバー  黒岩徳将

野菜不足解消には、サラダバーは最適だと思っていました。家族で出かけると、よくわかるのですが、子どもたちは、毎回、同じ野菜を皿に取って戻ってきます。非常事態宣言発令後のことは、よくわかりません。トングの使いまわしは、接触感染となるので、中止となっているのでしょう。あらかじめ、皿に盛ってある野菜を取ってくるシステムになっているのかも知れません。

花屑が手羽先用の紙皿へ  黒岩徳将

どこにでもあるような、雑木林の名もなき桜が好きです。有名な桜の名所、桜並木は苦手です。気を使うことが嫌いなので、誰もいないところが好きです。コンビニエンスストアーで、缶ビールと弁当を買い、桜の木のしたに腰かける。晴れた日であっても、風は、すこし、冷たく感じます。それで、楽しい時間を過ごすことができます。

水に茶に蕎麦の半券濡れて春  黒岩徳将

注文すれば、あとは、待つだけです。せっかちな私は、半券を渡すまでの時間にこだわります。考えてみればどうでもいいことなのかも知れません。片方の半券は自分が持っています。その半券は、注文した蕎麦と引き換えるためのものです。順番を待っているあいだ、引き渡し口に並べてある蕎麦の半券が濡れていることに気づきます。濡れていることで、春を感じたのかも知れません。「水に茶に」とありますので、駅前の立喰い蕎麦屋の風景なのだと思いました。

遠足のペンギン音もなく水へ  黒岩徳将

ペンギンも遠足をします。遠足とありますので一列に歩いているのでしょう。順番に海に飛びこむさまを音もなく水にと表現しました。感情もなく機械的な動作のようにも見えます。考えてみれば、教師に連れられた小学生の遠足も、音もなく水に飛びこむペンギンのようなものなのかも知れません。

花菫月謝忘れしこともあり  黒岩徳将

忘れることはたいせつなことだと思います。ただ、月謝とあるので微妙です。月謝を受け取る側にも、忘れた側にも、それなりの感情は生まれます。菫の花は、可憐な姿とは裏腹に、たいへん強健な植物なのだそうです。「花菫」とした理由もわかるような気がします。

まんさくの花や拳の中の指  黒岩徳将

最も原始的な闘争手段、武器のひとつであり、抵抗の意志を示すものが「拳」なのだそうです。 まんさくの花からは、闘争、抵抗の意志などということばは浮かびません。それよりも、か細い、女性の指を思いうかべました。考えてみれば、か細さの中に強靭なエネルギーが蓄えられているということなのかも知れません。女性は、怖いと思います。気を付けなければなりません。

百千鳥ウインドブレーカーの張り  黒岩徳将

散歩、あるいは、軽いジョギングのときになど着る。まさに、ウインドブレーカーとは、風を壊すため、防寒のためのものです。何種類もの鳥が集まってきて囀ります。生命の躍動とは、うらやましいかぎりです。ウインドブレーカーも「張る」ことで、その意思を示したのかも知れません。張るとは、遠い過去のことのような気がしています。

三月の萌黄の混じる竹箒  黒岩徳将

竹箒であろうと何であろうと、新しいものを使うときは、こころが弾みます。嫌なことでも、楽しくなってきます。三月とは、そんな感情をもつに相応しい季節なのかも知れません。老人には、この程度の幸せでじゅうぶんなのであると考えています。欲は浅くなくてはならないのです。

犬よりも丸まつて寝る朧かな  黒岩徳将

丸まって寝るひとは、他人への警戒心が強く、依存心も強いとありました。「胎児型」なのだそうです。「朧」とは、ものの姿がかすんで、はっきりしないさまとありました。なるほど、はっきりしないことには、警戒心がわきます。理に適っている寝かただと思いました。また、仰向けに寝るひとは、自信があり、社交的で考えも柔軟であるとありました。

海灼くる無風を蝶のひた歩く  安里琉太

海は夏の太陽の直射を受けています。海がやけどをすることはないでしょうが、そんな触覚的暑さです。風はありません。砂浜なのか、海の見える丘なのかは、わかりませんが、ひたすら歩いている蝶を見つけました。蝶のすがたを見つけて、自分のことのようだと思ったのかも知れません。

日をおいて夜汽車のとほる田螺桶  安里琉太

夜汽車というものは、毎日、通るものだとばかり思っていました。日をおいて通る夜汽車には、ドラマがあるような気がします。私の暮らす、神奈川県の西部の山村でも、子どものころは、田螺を食べていました。畦造りも、田起こしも、代かきも機械でやってしまう近ごろでは、そのようなことはないようです。田螺は、どこへいってしまったのでしょうか。

暮春の母屋あぶらゑのぐの饐えてゐし  安里琉太

あぶらゑのぐが饐えていることに驚きました。暮春とありましたので、あるのかも知れないと思いなおしました。母屋とは、少年期、青年期に生活した場所なのだと思います。あぶらゑのぐだけではなく、思い出も饐えてしまっていたのかも知れません。

卯の花や天金の書の束ね売り  安里琉太

装幀の高そうな本を束ねて売るとあります。古書店へ持ち込んだのでしょうか。それとも、古書店から引き取ったのでしょうか。批判のようなものが感じられます。白い卯の花が初夏の風に揺れながら笑っているような気がします。

鳥沼の玉葱畑に寝てしまふ  安里琉太

富良野は、玉葱の発祥の地だそうです。鳥沼には、玉葱畑が広がっていたのでしょう。富良野へ旅して、はじめて、そのことを知ったのかも知れません。ひとり旅に、昼寝はつきものです。夕食は、玉葱料理と日本酒ということになるのかも知れません。

先生や牡丹瘦せて月瘦せて  安里琉太

牡丹が痩せていくのには、何らかの理由があるのだと思います。月が痩せたり、太ったりするということは、月の満ち欠けですから自然の摂理です。さて、先生とありますが、いろいろあり過ぎて困ります。教師、政治家、医師、弁護士、宗教家、用心棒...。牡丹も、月も痩せていくとありますので、「センセ」とよばれるひとということでいいのかも知れません。

かはほりに雲の扉の展きある  安里琉太

かはほりにとっては、スタンダードな去り方だと思います。だが、かはほりは、雲の向こうに逃げたのではありません。ただ、上に向かって逃げたとうことなのです。ところで、今、蔓延している感染症は、蝙蝠が持っているコロナウイルスが野生動物を通じてひとにうつしたといわれています。

この感染症が終息したのちに、今までの、生活がもどってくるとは思ってはいません。無力な老人ですので、何もできませんが、山の上から、どう変わっていくのか、ながめていこうと思っています。

ひらかれへ馬上の風雲倦む耕  安里琉太

この作品のタイトルは、「追憶と鉈」です。過去のことを思い出すことと鉈ということになります。鉈とは、山林ではたらくことに適した刃物の類であるそうです。私の住む集落では、腰に、鉈や鋸をぶら下げて庭の手入れをするひとを、よく見かけます。

ところで、この作品の「ひらかれへ」が、どうしても解りませんでした。何かをはじめるということなのでしょうか。はたらいて生活の資を得ることが厭になるということなのでしょうか。

何かが起こるとき、おとなしく、妻子のために、金儲けに勤しむことに疑問をもつことは、あたりまえのことだと思います。私たちは、いくらでも「道」を、選ぶことができます。しかし、今、歩いている「道」だけしか選ぶことができなかったということが現実であることを忘れてはいけないと思います。

みしはせを奇想の蒜へふり分ける  安里琉太

古墳時代、日本海を越えて交流していた北方の異民族のことを「みしはせ」というのだそうです。散文として読めば、この北方の異民族を、奇想の蒜に振り分けるとなります。「奇想の蒜」とは何なんでしょうか。振り分けるのは誰なのでしょうか。そのことを考えればいいのかも知れません。だが、その先に、何があるのかは私にはわかりません。ただ、作者は「みしはせ」に興味があるのだということはわかりました。このことが、作者を知るための、第一歩になるのかも知れません。

吊るし倦む百丈雛の黄の総体  安里琉太

「吊るし雛」とは、ひとつひとつ想いを込めて作ったものを集めて、ひとつの大きな形にしたものなのだそうです。百丈とありますので、非常に長い吊るし雛ということなのでしょうか。倦むとは、いやになった、そのことに飽きてしまったということです。ものごとの全体のことを「総体」といいます。つまり、吊るすことに飽きた長い吊るし雛の黄色い全体となります。

「みしはせ」「吊るし倦む」の作品から、「本心など、見せない。自分のことを、簡単に、理解したなどとはいわせない。むしろ、理解して欲しくない」といっているように感じました。


第676号 2020年4月5日
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