【句集を読む】
わが既住症の記
眞矢ひろみ『箱庭の夜』の一句
岡村知昭
既住症に春昼そそと立ちゐたり 眞矢ひろみ
この一句において、自らが抱え込んでいる病は、「持病」ではなく「既住症」と認識されている。この書き方の違いは、抱え込んでいる病に対する自分の感情の表れと見るべきだろう。持病を持っているのは誰にとってもいい気持ちとはならないものだが、「既住症」と書くとき、自分の病がもたらす心身への危機感は、より一層深いものとなっているはずだ。いかなる病なのかは、この一句からはわからないが、かなり長い期間、「持病」以上の「既住病」となってしまった病と向かい合っているのは間違いないだろう。今日はいまのところ症状は何とかもっているな、今日はいつもより症状が出ているな、と自分自身の体で感じ取りながらの毎日である。
さて、春の昼に「既住症」を意識しているというのは、本日の体調、どうやらあまりよろしくなさそうな気配である。せっかくの春の穏やかな光と空気も、心ゆくまで味わうどころではないようだ。今現在の自分の体の不調を反映しているかのように、春の昼は「そそ」と他人行儀な存在となって、この方の目の前に立っている。今の自分の苦しみ、痛みとはかけ離れた存在となってしまっている「春昼」。だがかけ離れてしまっているがゆえに「春昼」の眩しさと穏やかさは「そそ」と自分自身の体に迫り、さらなる不調をもたらしてしまうのである。「ゐたり」とそっけなく書かれていながら、その向こう側には自らと「春昼」との関係のよろしくなさに対する大きな嘆息が、病める体を通じて聞こえてくるかのようである。
では、いったい「既住症」の正体はいったい何か。いくつもありそうではあるが、そのうちのひとつについては、この方には自覚があるらしい。
既住症に愛国とあり油照 同
うつそみの愛国亡国そぞろ寒 同
愛国を語るJK夢違え 同
自分は長らく「愛国」を病んでいる、との自覚。それは「愛国」という言葉をもてあそんで他を貶める道具にしてしまっているとの思いなのか、それとも自らの心の中に「愛国」への感情が潜んでいることへの驚き、恐れ、おののきなのか。そもそも「愛国」とは病と呼んでいいものなのか。
さまざまな感情の入り混じる中、そして穏やかな春の昼の真っただ中で、「愛国」という病におびえ、いまだわかっていない「既住症」を恐れながら、この方の感情はなかなか「そそ」と穏やかにはならないみたいなのである。
眞矢ひろみ句集『箱庭の夜』2020年3月/ふらんす堂
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