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2025-10-26

小笠原鳥類 足跡の化石

足跡の化石

小笠原鳥類


詩の雑誌「幻代詩アンソロジー」Vol.5(ライトバース出版、2025年10月)。俳句もあります。岡村知昭「産毛」から、少し読みます

白南風や残念ながら河馬は発つ

始祖鳥が、宇宙から来たイソギンチャクを知っているミミズクに、似合う。

足跡の化石買いたし花氷

知らないワニが多いキツツキもいる公園で蟬が、イグアナだイグアナだ(ピアノ、どこにあるのか)

噴水や蹴るべき缶の見当たらず

泡、ハム(透明なエビのようだと豆腐を歌っている妖怪が、いいリュウグウノツカイだ)

朝凪のふたりの埴輪づくりかな

にわとりシーラカンス(建物を塗る動物が、窓があると思っている鳩の怪獣だ)あると思います

日時計に鱗粉の降る午前かな

思い出した(ピラニアを持っている金属の)畳と笑っているスポーツのボール、ボール

懸垂に戻らなくては昼寝覚

ペンギンと、次のペンギンを(言っているアンモナイトだ)柿。絵の具、俺、取り扱う鰺(と、象)


「幻代詩アンソロジー」Vol.5 ≫amazon

2025-04-27

鳩 小笠原鳥類


小笠原鳥類


詩の雑誌「幻代詩アンソロジー」Vol.4(ライトバース出版、2025年4月)には、いろいろなものを書く人たちがいて、私も書いていて、そして、岡村知昭「鳩狩り」も、ありました(俳句も、ありえる雑誌です)

アンソロジー『俳コレ』(邑書林、2011)の、岡村さんの「カルシウムいっぱいの山桜かな」「折鶴のところどころの砂漠かな」に、粉があったと思います。そして、「幻代詩アンソロジー」Vol.4の「鳩狩り」の句を、いくつか読んで、思ったこと

山狩りを終えてジャムパン山笑う

公園や建物を見て、私もアライグマと同じように布なのだと、置いてあるテレビのように盛り上がって笑います

啓蟄や犬笛あげるのはやめる

ひろがっている場所が、エビや、思い出すシーラカンス(科学)であるのだと、窓から入ってきて象やタラが口を開く

たそがれや卵の殻を粉々に

ひまわり、であるのだと、イソギンチャクの化石のようになって踊りながら言う

花明り木彫りの鳩は啼きたがり

どのようなスポーツのボールが、イグアナのようにアコーディオンであるのかと、ヒレ(魚にあるもの)が透明に探しているでしょう

桜散る孔雀と鳩を間違えず

金魚が映画で、曲がっている(曲がっていない)スプーンを見ながら、グルグル泳いでいたと棚が(ピアノのように)かたく教える。やわらかい


幻代詩アンソロジー Vol.4

2024-11-23

岡村知昭【句集を読む】「究極」に抗うチューリップ 田宮尚樹句集『山櫻』の一句

【句集を読む】
「究極」に抗うチューリップ
田宮尚樹句集『山櫻』の一句

岡村知昭


黒といふ究極の色チューリップ  田宮尚樹

「究極の色」と書かれてある以上、この一句から浮かび上がる像は、ひたすらな「黒」、徹底的な「黒」、どこまでも広く、どこまでも深い「黒といふ究極」である。しかし、いかなる闇よりも深いのであろう「黒といふ究極の色」とのフレーズに取り合わされるのは、赤いのか白いのか、それともピンクなのかはともかくとして、チューリップである。

この一句におけるチューリップは、「究極の色」として立ち現れる「黒」に対して、その存在感を決して失ってはいない。「黒といふ究極」にあっても、ほのかな輪郭、ほのかな色合いを浮かび上がらせ、「黒といふ究極」に染まってはいない。埋没などしていない。確かに、いまこのときを、チューリップとして咲いている。

もし「黒いチューリップ」が現実に存在するのなら、そのままを描いたと言っても構わないだろう。だが実際、映画や小説のタイトルにはあっても、現実の花としては存在していない。ならば、深夜にチューリップを見た瞬間に抱いた印象を、素直に書き留めた一句、そう読むのが順当なのかもしれない。だが、夜の闇を「黒といふ究極」と言い切るのは、やはり厳しいものがある。どんな夜の闇であっても、明るさはどうしても見え隠れしてしまう(夜の闇に明るさを探してしまうのはヒトのみならず生物の常)。夜空の向こうでは、夜の闇を切り裂こうとするかのように、無数(としか表現できない数の)星々がきらめいているのだ。

こうなると、「黒といふ究極の色」と「チューリップ」の対立は決定的であり、もはや修復は困難、とまで言ってしまいたくなる。上五中七と下五の取り合わせで、ここまで対立軸が鮮明になった一句というのは、そう見当たらない。そして、この対立軸こそが、この一句をぎりぎりで成り立たせている最大の、もっと言えば「究極」の要因なのだ。

「究極」として立ちふさがろうとする「黒」に対して、懸命に、徹底的に抗うチューリップ。自分が立っているこの空間に、いまの世情に広がってやまない「黒といふ究極の色」に、自分自身が染まらないよう、懸命に気持ちを奮い立たせて、立ち向かう。そのための、かすかではあっても、確かな希望として、チューリップは「黒といふ究極の色」を切り裂いて、いまこのときを、咲き誇っている。


田宮尚樹句集『山櫻』2024年4月18日/角川書店

2024-06-09

岡村知昭【句集を読む】「を」の練習の成果について 岡田一夫句集『こほろぎ』の一句

【句集を読む】
「を」の練習の成果について
岡田一夫句集『こほろぎ』の一句

岡村知昭


包帯を巻く練習を天の川  岡田一夫

天の川煌めく夜、この人物は、誰かに包帯を巻く。慣れない手つきで、何度も巻いて何度もほどく。自分のためというより、誰かのため、組織のために包帯を巻く役を引き受けはしたのだけれど、実際にやってみたらその難しさがわかって、悩んで、戸惑っている。包帯の巻かれ役にして、指導にあたる人物からは「やり方が違う」「巻き具合がきつすぎる」「それでは緩すぎる」と次々の厳しい言葉が飛ぶ。次々と押し寄せてくる指導の数々に、じゃあ、どうしたらいいのか。そんな思いで頭はいっぱいになって、いい巻き方、正しい巻き方が、ますますわからなくなってきている。悩み、戸惑う姿の向こうで、天の川は煌めく、ただ煌めく。

この一句で注目したいのは、切れの位置にある助詞「を」だ。助詞で切れを作るパターンでは「に」「へ」は見かけるのだが、「を」はなかなか見かけない(私自身の印象では、この一句がはじめてかもしれない)。

「包帯を巻く練習」と「天の川」の取り合わせをつなぐ形として、まず考えるのが「や」だろう。この形だと、包帯を巻く動作と天の川との取り合わせが、近景と遠景とのバランスのよさと相まって、二物衝撃としての立ち上がりが鮮やかになる。

〔例1〕包帯を巻く練習や天の川

つぎに、切字「や」の効果はわかっていても「でも切字は避けておきたい」と考えたときには「に」もしくは「へ」が候補に挙がるだろう。「に」の場合だと、「包帯を巻く練習」が天の川の輝きに照らされる様子は、より鮮やかなものとなる。「へ」の場合では天の川に照らされるのが、「に」と同じとの読みにとどまらず、これから「包帯を巻く練習」への向かう人物の姿でもある、読みも立ち上がる。鮮やかとなるのが、動作なのか、人物なのか、その違いはあっても、一点集中からの二物衝撃は、はっきりと、この一句の軸を形作っている。

〔例2〕包帯を巻く練習に天の川

〔例3〕包帯を巻く練習へ天の川

それでも、この一句で切字の役を与えられた助詞は「を」である。「包帯を巻く練習『を』天の川」。この「を」に含まれる読みは、いくつか考えられる。包帯を巻く練習「を」はじめましょう、との呼びかけ。包帯を巻く練習「を」しています、との提示。しかし、読み返すたびに、「を」での力強い切れが、力強さゆえに、読み手を戸惑わせてしまうのは、避けられないように思われる。「を」のあとに、いろんな読みが含まれている可能性を感じさせるのを、わかりづらさと捉えてしまいかねない要素は、この一句の弱さとして確かにあるのかもしれない。

しかし、この一句での「を」は必然として選び取られた「を」。力強さにあふれて、読み手に迫ってくる「を」である。句会でもし、先に挙げたようなわかりにくさについての評があったとしても、作者はしずかに頷きながら「それが『を』にした狙いなんですよ」と思っていそうなのである。

「包帯を巻く練習」と「天の川」、はっきりとしている近景と遠景の取り合わせであるのだから、そのふたつをさらにくっきりさせなくても伝わってくるはず、むしろ「を」によって、二物衝撃をソフトランディングさせ、一句の奥行きを、より広げてみせたかったのですよ。

もしこんな風に言われたら、読み手としてはどう返していけばいいのだろうか。「それでもこの一句では効果を上げていないのでは」と反論するのか、「切字効果の助詞でこんな使い方ができるんですか」と唸るのか。評価は割れることになるだろうが、それでも、その異論反論を、この一句の作者である岡田一夫氏は、一句ができあがったときから、ずっと心待ちにしていたのかもしれない。次なる一句、新しい一句へ向けての、叩き台となってくれるだろう。そんな気持ちが「を」の選択につながったのは、間違いなくあったはずなのだろうから。
俳句がとても好きな人でした。毎日机に向かい俳句作り。人、物に対する鋭い感性と観察眼、そこから得たものをいかに表現するかを常に模索していたように思います。言葉に対するこだわりには強いものがありました。鋭い感覚と詩情をも併せ持った一夫の俳句が好きでした。
遺句集となった『こほろぎ』のあとがきで、妻の岡田百合子氏はこのように、俳句とともに生きた夫の肖像を描いている。鋭い感性と観察眼、そして表現の模索とこだわり。それがこの一句における「を」に凝縮されているのですね。そう伝えてみたくても、俳人岡田一夫氏の姿は、いまはない。だが、この一句の煌めきに、間違いはない。それだけは、亡き人へ伝えられるはずなのだ。


岡田一夫句集『こほろぎ』2023年9月/現代俳句協会

2023-11-26

岡村知昭 一人は、ここにいる 第60回現代俳句全国大会入選作を読む

一人は、ここにいる
第60回現代俳句全国大会入選作を読む

岡村知昭


【現代俳句全国大会賞】

みんないて一人がいない終戦日  浅野浩利

「終戦日」であり「敗戦日」である8月15日。戦争が終わったあの日、辛うじて「みんな」が生き延びたにもかかわらず、あの「一人」だけはいなくなってしまい、もう姿を見ることも、声を聴くことはない。その現実を突きつけられての、哀しみなのか、憤りなのか、どうにも掴みどころのない感情に襲われてしまった8月15日。時は流れて、「みんな」から戦争の記憶がだんだん遠のいてゆく(自ら消そうとする雰囲気まである!)、そんな中にあっても、この日が来るたびに、古傷が疼くように、あの「一人」の不在を思わずにはいられない。この人物にとっては、いなくなった「一人」の姿が、いまだいる「みんな」よりも鮮やかになってしまっているのだ。戦争をモチーフにした句、日本における8月15日の句としては、毎年詠まれている内容かもしれない。だが致し方ないだろう。戦争とはすなわち、陳腐で、凡庸で、紋切型なのだから。かつての大戦もそう、今現在、世界各地で起こってしまっている戦火もそう。

暗がりを遠き夜汽車のやうに蛇  伊藤孝一

夜汽車が蛇のよう、ではない。「夜汽車のやうに蛇」である。この一句の中でうごめいているのは、まぎれもなく一匹の蛇である。餌を探しているのか、自らのねぐらへ戻ろうとしているのか、とにかくうごめいている、生きている。安易な感傷や抒情を、かき消してしまうかのように、この一匹の蛇は生きている。一方、この蛇に「夜汽車」を感じた人物がいる。この人物は、暗がりで蛇のうごめきを感じた瞬間に、「遠き夜汽車」の灯りが脳裏にひらめいたのである。蛇に対する恐怖心よりも、封じ込めていたはずの感傷と抒情が、蛇をきっかけに、一気にこみあげてきてやまないのである。この人物が、家に戻ろうとしているのか、どこかへ旅立とうとしているのか、それはわからない。だが、「夜汽車のやうに蛇」と蛇の姿を見据えた瞬間に、この人物は自らの手に感情を取り戻して、ひとりのヒトとして生きている自分を再認識したのだ。暗がりでの蛇とヒトとの出会いが「夜汽車」を通じてもたらしてくれたのは、生命のきらめきの再発見だったのかもしれない。


【現代俳句協会会長賞】

包帯は夕日のにほひ八月来  押見げばげば

八月がやってきて、暑さが極まる。体のどこかに巻かれている包帯は、とめどなくあふれ出る汗が沁み込んで、なんとも言えない匂いを醸し出す。「夕日のにほひ」なのは自分の包帯なのか、それとも誰かが巻いている包帯のことなのか、どちらなのかはこの一句には書かれていないので、わからない。しかし、汗が沁み込んでしまった包帯からの「夕日のにほひ」の発見によって、この一句は読み手に、包帯を巻かれている人物を思い起こさせる力を手に入れた。それは、自分自身の姿としても、ほかの誰かの様子としても、うっすらとではあるが、包帯を巻かれている人物の哀しみが、「夕日のにほひ」を通じて、確かに現れてくるからなのだ。登場させる人物は、少年でも少女でもいいし、家族でも親戚でもいい。そんな、さまざまに想像を広げられる楽しみを持ち合わせていながら、その軸となる「夕日のにほひ」にブレはない。さて、八月来たる。汗の沁み込んだ包帯を取り換えるのは、そろそろかもしれない。

2023-07-09

岡村知昭【句集を読む】解くのは言葉 五十嵐秀彦『暗渠の雪』の一句

【句集を読む】
解くのは言葉
五十嵐秀彦暗渠の雪』の一句

岡村知昭


大寒や言葉で幾何を解く男  五十嵐秀彦

数学の授業の一コマ。先生は数式で埋め尽くされた黒板を後ろにしながら、幾何の問題の解法を事細かく説明している。時に黒板に、チョークで数字や文字を書き足してもいる。先生の中にあっては、それほど難しくない問題なのであろう。解法の説明は理路整然、弁舌は明瞭にして熱高し。先生にしてみたら、生徒たちがいったい、この問題の、幾何の解法のどのあたりについて苦労しているのか、どうしてもわからない。

一方、聞いている生徒たちのほうにしてみたら、先生がいったい何を語っているのか、どうしてもわからない。数学のこと、幾何のことらしいのは、なんとなくわかってはいる。でも、いったい幾何の何を自分たちがわかっていないのか、それ自体をさっぱりわかっていない。もともと幾何どころか、算数さえきちんとわかっているのか、おぼつかない生徒たちである。

先生は数学を、英語以上に自分たちに理解できない言葉で、自分たちの存在などそっちのけで、熱く語っているようにしか見えていない。この調子では、今度のテストの成績もおそらくはいいものとはならないだろう。大寒の頃となると、期末試験だけでなく、将来の受験も頭をよぎるのだが、幾何どころか数学そのものがなかなかおぼつかない今のままでは、どうなるのだろうとの不安ばかりが先に立つというもの。幾何の問題の解法は解かれていても、先生と生徒の間に生じているわだかまりは、解けるどころかますます難問となって教室を覆い尽くしてしまっている。先生の弁舌は、ますます冴えわたり、生徒たちはノートを取るでもなく、ぼんやりと先生の姿を眺めているばかりだ。

この一句を読みながら、数学をめぐっての葛藤を描いたもうひとつの一句、西東三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」が浮かんできた。こちらの句では、夏休み、算術の宿題がどうしても解けなくて悩み、それでも懸命に解こうとするひとりの少年の姿を、夏の光を背景に描き、眩しさと痛みを一瞬のうちに把握して、像として定着させている。一方、「幾何を解く男」は算術にも数学にも悩んだ形跡はなさそうだ。だから解く言葉にもよどみはない。算術に悩む少年の姿には、読み手にも「自分もそうだった…」との思いを呼び起こさせ、うなずかせる確かな力がある。片や「幾何を解く男」には、「幾何がすらすら解ける人がこの世にいるのか…」との驚きが一句から透けて見えてくる。読み手に、算術に、数学に苦しめられた思い出が深さを、改めて呼び起こさせる強い力がある。

そんな「幾何を解く男」は幾何を解き明かすとき、言葉を懸命に駆使している。数式も解法の説明も、言葉なくしては決して成立しないのだ。もっというと、一句の舞台は日本であるはずなので、使われているのも日本語になるだろう。数学の解法の説明に、言葉は必要不可欠。言葉で語られ、言葉で解かれているのであれば、この幾何の解法が、相手に届かないはずはない。それでも通じない、届いていない…そのような現実を突きつけられてしまって、算術の問題を解けずに涙するあの少年のように、「幾何を解く男」もしのび泣きたい思いに駆られていたりしているのかもしれない。

そう思い直して読み返すと、「幾何を解く男」の一句は、言葉の存在そのものが、私たちが生きていく上で、常にとてつもない難問であるのを突きつけてくる一句にもなる。俳句もまた然り。詠まれた俳句に向かい合い、読み解こうとするとき、懸命に言葉を尽くして、なんとか解き明かそうとするのだが、その言葉の数々は時に、黒板に書かれた数式の羅列のような、自分たちには到底理解しがたいものとして受け止められたりもする。だが、それでも、同じ言葉なのだからわからないはずはない、との思いを振り絞って、一句を解き明かそうとするのを、決してあきらめたりはしない。わだかまりはわだかまりとして受け取って、それでもなんとか、一歩ずつ前に進むしかできないのである。

大寒の頃のひんやりと、いつ雪が降りだしてもおかしくない空気感は、幾何のみならず、言葉のわからなさに戸惑い、打ちひしがれ、それでも解き明かすのをあきらめられない、そんな姿を描く背景としてふさわしい。毎日の生活は続くのだから、しのび泣いている暇はない。数学の問題は解けなくても、この世にはあまりにも解かなくてはならない物事があふれている。そのすべてを、ヒトという生物は、頼りないのは十分承知の上で、言葉を懸命に駆使して解いていかなくてはならない。あらゆる難問を言葉で解き明かしていく困難さに比べたら、幾何の問題などは思っているよりも案外やさしくて、きっかけさえつかめたら、たちまちに解けてしまうのかもしれない。もちろん、いまになって幾何の問題が解けるようになったところで、褒めてくれる先生はどこにもいないのだが。


五十嵐秀彦『暗渠の雪』2023年6月/書肆アルス

2023-05-07

岡村知昭【句集を読む】嗚呼、なんと涼しきディスタンス 仁平勝『デルボーの人』の一句

【句集を読む】
嗚呼、なんと涼しきディスタンス
仁平勝デルボーの人』の一句

岡村知昭


間を空けて立つデルボーの人涼し  仁平勝

芸術家の名前(ジャンルを問わない)の入っている一句に対して、読み手としてどのように取り扱うのかについては、案外難しいところがある。句会か句集で出会ったとき、一句を読む前にどうしても固有名詞が一体何か、そこに目が向いてしまい、一句そのものへ踏み込むのが遅れてしまいがちになるからだ。

この一句の場合だと、まず「デルボー」とは誰なのかを検索しなくては、となるのだろうが、幸いなことに、この一句が納められた句集が「デルボーの人」であり、一句のモチーフとなったであろうデルボーの絵が表紙を彩っている。そのため、デルボーとは誰か、との知識は乏しくても、読みの手がかりは掴められる。

表紙を彩るデルボーの絵の人物たちは、スレンダーを通り越した痩身の裸婦も、丸眼鏡に黒服をまとった紳士たちも、虚ろなまなざしと表情で、絵の中に立ち尽くしているかのような印象を受ける。「涼し」というよりは「冷たし」のほうが似合っていそうな、そんな立ち姿である。しかしこの一句で選ばれたのは「涼し」である。夏の絵ではないにもかかわらず「涼し」なのである。

この一句は新型コロナパンデミックがモチーフの章に納められている。「片蔭の反対側を歩かうか」「端居して端居の人が来れば退く」と続いてからの、この一句である。「間を空けて立つ」にいわゆる「ソーシャルディスタンス」への冷めたまなざし、一連の全体を通じてはっきりとにじみ出ている。章のはじまりの「二〇二〇年夏、そんなに長引くとは思わなかつた」との前書きが、どこか遠く感じられてしまう(遠ざけてしまいたいとの感情ばかりが先立つ)二〇二三年の初夏ではあるが、読みながら「二〇二〇年夏、確かにそうだった」(東京五輪をいったんは遠ざけたのだ)との記憶を引き出してくる力が、この一句、この章にはある。

そうだ、こんな一句もあった「透明に仕切られてゐる薄暑かな」。表紙を彩るデルボーの絵、デルボーの人たちは適度な距離を保っているというよりは、裸婦も紳士も、透明なパーテーションに仕切られているかのように立ち尽くしている。だが、いくら虚ろに見られようとも、血も感情も封じられているように見えていても、デルボーの絵の中で、デルボーの人たちは確かに生きている。距離を保ちながら、仕切られながら、それでも生きている。決して虚ろでもなく、冷たくもなく。

そして、デルボーの絵の裸婦や紳士から、絵の向こう側にひしめき合う、俗社会を生きる読み手への問いかけが、涼しく、はっきり聞こえてくるのを感じるのだ。あなたたちは、密を求めながら、涼しく仕切られたがっているのではないか。ほんとうに虚ろで冷たいのは、あなたたちではないか、と。


仁平勝『デルボーの人』2023年3月31日/ふらんす堂

2023-02-05

三島ゆかり【句集を読む】岡村知昭句集『然るべく』を読む

【句集を読む】
岡村知昭句集『然るべく』を読む

三島ゆかり

『みしみし』第7号(2020年)より転載

『然るべく』(草原詩社、二〇一六年)は、岡村知昭の第一句集。氏の『みしみし』誌参加は今回で二回目だし、ネットの句会では十五年以上前から名をお見かけしていたのだが、実際にはいまだお目にかかっていない。あとがきによれば一九九六~二〇一四年の句から収められているとのことで、作句当時に時事性があったはずの句は、タイムカプセルを開けるようにして現れる。全体は六章に分かれ季節順で推移するが、一年を単純に二ヶ月ごとに切ったものではない。また、特定の季語ないし単語が続くときは徹底的に続く。では、章ごとに見ていこう。

1.チューリップ

二月~三月頃の句を収めている。巻頭の句は立春前の冬で始まる。

バス停や牡蠣食べてより脈早く

なにやら体調が悪そうである。早退きでバスを待っているのか。青春性が輝く波郷の「バスを待ち大路の春をうたがはず」とはずいぶん様相が違う。巻頭がこれだということは、俺は俳句でかっこつけたり気取ったりはしない、という宣言なのだろう。立春や元旦で句集が始まることさえ、美学として避けているに違いない。


マフラーを外し仮病のおともだち

二句目である。連句の脇のように一句目に付いている。接頭語「お」を含みひらがな表記の「おともだち」のゆるさがこの句集の性格を方向づけている。仮病なのは「おともだち」だけではなく作者自身もであり、これから読む句集全体が擬態ないし韜晦なのかも知れないのだ。


春立ちぬ鱗あろうとなかろうと

三句目である。ここでようやく立春であるが、無関係な仮定構文により結果的に真実を述べている。

以下、目に止まった句について触れたい。


春寒し化石は「さがすよりつくる」

化石とはちょっと違うが、旧石器捏造事件を思い出す。それがスクープされたのは二〇〇〇年のことだった。


三叉路やプロデューサーの春の風邪

時代を創り出す存在として、アーティストやアイドルよりもプロデューサーが注目される時期があった。秋元康やつんく♂が大いに話題となったのは、いつの頃だったか。「三叉路」のどれかこそは指し示すべき明日の流行であり、プロデューサーが風邪を引けば、時代が床に伏せるのだった。


白粥や四月一日には終わる

四月一日になったら「終わりました」と嘘をつくのだろう。いかにも馬力の出なさそうな「白粥」が妙に可笑しい。


年上のすべり台なり夕桜

年上の子どもに占有されているすべり台という読みも可能だが、すべり台そのものが自分より年上だと読みたい。戦後の復興が一段落し、行政が福祉に目を向けた時代が少しだけあった。横断歩道橋があちこちに作られた頃、児童公園もあちこちに作られた。少子高齢化の今、遺構のようにその時代のすべり台が眼前にある。夕桜が切ない。


自転車へたどり着かざる朧かな

自転車に乗ればあとはすっと帰れるのに、その自転車に辿り着かないのである。悪夢のように朧の夜が更けて行く。


本名はいらなくなりて春の海

かりそめの恋の成就のようでもあるし、亡くなって戒名となったようでもある。東日本大震災以後の今、「春の海」は後者を暗示する。


石棺の蓋どこへやら春暑し

古墳をめぐる歴史探訪のロマンのようでもあれば、放射能事故を起こした原子炉がいまだ石棺化されない現状を詠んだもののようでもある。社会批判するならはっきり言えという意見もあろうが、はっきり言えば、ただのスローガンとなってしまう。本来笑いの対象ではないものへのブラックな扱いが曰く言い難い。


2.なんじゃもんじゃ

四月から六月くらいの句群である。

宵闇の揉めることなき断種かな

「宵闇」をここでは季語として使っていない。「断種」は手術によって生殖機能を失わせること。「揉めることなき」とは、円満な断種だったのか。


ヒトラーの忌に頼まれて然るべく

前の句からページをめくるとこの句なのである。優れた漫画のコマ割りのような運びである。ナチス・ドイツでは優生政策として、障害者・病者四〇万人に断種を断行した。前句の「揉めることなき」とは有無を言わせずということだったのだ。ヒトラー忌は四月三十日。本句の「然るべく」は句集タイトルでもあるが、何を頼まれて何をしたのか、じつにそら恐ろしい。


初鰹この人握手会帰り

この人は握手会帰りだとどうして分かるのだろう。一様にある同じ顔つきをしているのか、それと分かるグッズを手にしているのか、会場からわらわらと出てきたのか。同好の士なら分かるしるしがあるのだろう。「初鰹」に切望していた感がある。


純国産せんこうはなび震度三

そういえば純国産のH-Ⅱロケットが一九九八年と九九年に続けて打ち上げ失敗したことがあった。ひらがなの「せんこうはなび」には痛烈な皮肉が感じられる。震度三の揺れに花火の玉は落ちずに耐えられるか。


3.遠浅

七月から八月くらいの句群である。冒頭は「夏来たる」だが、立夏ではなく現代人としての季感によるものだろう。


みどりごの固さの氷菓舐めにけり

氷菓の固さの比喩として「みどりごの固さ」はおよそ尋常ではない。比喩なのにその固さを思い出せず、体温やよだれでどろどろになった名状しがたいものを思い出す。たぶん、それで比喩は成功しているのだ。


八月の雨より国のおびただし

雨と国という比較しようのないはずのものを並べている。六日、九日、十五日がある八月は、語り継ぐべき戦争によって思考も感情も重い。再び戦争ができる国にしようとする勢力が跋扈する昨今、まさに「雨より国のおびただし」は実感なのである。


4.タンク

九月から十月くらいの句群であるが、無季の句も少なからず含む。福島第一原発の「処理水」という名の安全性のさだかでない水を貯蔵するタンクが増設され続ける件や、オリンピック誘致をめぐる「アンダー・コントロール」発言が題材となった句が並ぶ。


寝室や熟柿のごとく麗子像

章の最後の異質な一句である。岸田劉生は短い生涯におびただしい数の麗子像を描いた。素人目には怪奇趣味にも見える作品だが、暗赤色系の色彩のみならず熟柿に通ずる円熟味と安らぎがあったのだろうか。すべての混乱を鎮めるかのように置かれている。


5.雨音

十一月から十二月くらいの句群であるが、ここでも無季の句を少なからず含む。また結婚や出産を題材にした句が続く。

行列の先に階段寒の雨

またしても章の最後の句を拾ってみた。散々待たされた行列の先に試練のように階段があり、折しも寒の雨が降っている。行列は見知らぬ人ばかりで、こんなに人間がたくさんいるのに孤独なのだ。そして階段の先に本当に待ち望んでいたものがあるのかは明かされていない。


6.見物

ここで一月の句群だけがあれば一年を網羅したことになるが、なんと鯉幟の頃まで句は続く。そして卒業式中止、解雇を題材にした句が散見される。が、句集全体が、深刻な病気なのに仮病のふりをするような美学に貫かれているので、作者の伝記的事実はなにも分からない。俳句の「俳」は俳優の俳でもある。

(了)

2022-10-23

岡村知昭【句集を読む】春が来る、春へ行く 歌代美遥句集『月の梯子』の一句

【句集を読む】
春が来る、春へ行く
歌代美遥句集『月の梯子』の一句

岡村知昭


番号が付いた部屋まで春が来る

「番号が付いた部屋」となると、まずは病室が思い浮かび、あとはマンションの部屋とか、ビルのテナントといったところになるだろうか。この一句において「春が来る」との感慨にふけっている人物は、普段は「番号の付いていない部屋」に暮らしているのだろう。自分の持ち家、一軒家だと考えられる。そうでなければ、わざわざ番号の有無にこだわりを見せたりはしない。自分の家とは違う「番号の付いた部屋」にたたずみながら、今年もいつものようにやってきた春を感じ、身をゆだねて、全身で受け止めようとする姿は、まっすぐで、心地よくて、微笑ましい。

一句の中で「番号」が出てくる作品はいくつか見たことがあるのだが、それは「自分には名前があるのに番号で呼ばれて、何か違和感があった」との意味合いのものだったように思われる(自分の虚ろな記憶の賜物なのでご容赦)。確かに「~番さん」と呼ばれるのは、いくら当たり前の日常になってすっかり溶け込んでいるとしても、どこかで「自分には名前がある」との気持ちを呼び起こしても来る。部屋に付けられている番号も、一応は「~号室」と覚えてはいるものの、その部屋の住人であったり、組織であったりと、番号ではないところが大事になっていて、番号では案外覚えていなかったりするのである。住所を書かねばならないときに「そういえば何号室だったかな」とはなるのだが、意識するのはそれぐらいだろうか。

だが、この一句では「番号」によって、自分が、誰かが、部屋が取り扱われている現実に対して、「名前があるのに」といった気持ちは一切出ていないように見受けられる。ただひたすらに「春が来る」との喜びだけを描いている。春が来て、私はここにいる。私は確かに、春を迎えようとしているこの場所で生きている。「番号の付いた部屋」がどのようなところなのかを一切書いていないのも、いまここにいる自分にとって、書く必要がないから書かかい、との姿勢で臨んでいる。手あかがついているのは承知のうえで、「自然体」との言葉が最もふさわしく感じられるほどである。

さらにいうと、この一句の書きぶりもまた「自然体」と呼ぶにふさわしい。推敲してしまえば、たとえば「番号の付きたる部屋や春来たる」といったような形にまとめ上げるのは、そうそう難しくはない。句会で提出されたら、取らなかった理由として挙げる出席者もいそうである。だが、この一句においては「付いた部屋」「春が来る」との書きぶりが選ばれた。それは「自然体」という言葉すらはねのけるぐらいの自然さによって書かれた一句にとっては、あまりにも必然で、当然の選択だったのだろう。ここは「番号の付いている部屋」で、春はもうここにも来ている。ただそれだけ、しかしそれだけを書き切って、隙だらけのように見えて、隙がない。そんな一句の力強さは、読み手に春の訪れを十二分に伝えきっているのである。

奈々奈々と奈々を呼び捨て蒸鮑

耳栓をして死の気分桜の芽

ばかに長きフェイク睫毛や花は葉に

番号の一句を味わってからこれらの句に触れるとき、ああ「自然体」だなあ、との思いがますます強くなるのを感じずにはいられない。食事の席で相手を何度も呼び捨てで呼んでみたり、耳栓をして「死ぬってこういうことかしら」なんて気取ってみせたり、フェイク睫毛(付け睫毛でないのだ)の長さに呆れたりしながら、どの句においても、そのままに、その通りに書き切る姿勢に変わりはない。この書きぶり、また月並な言い方であるのを承知の上でいうと「衒いがない」が適切なのかもしれない。

「番号の付いた部屋」で春を体いっぱいに受け止めたこの方は、部屋を出ても、きっと春を体いっぱいに味わい続け、物思いにふけるなんて気取ったことなどせずに、春の街を闊歩していくのだろう。そして、また何かと出会ったら、そのままをその通りに受け止めて、書き留めていくのだろう。

全世界受け止めており炬燵から

炬燵を出て、春へ出よう。その誓い、ただいま実行中。


歌代美遥句集『月の梯子』2022年10月/邑書林

2021-11-21

【句集を読む】花爛漫、ばさら爛漫 甲斐いちびん句集『ばさら』の一句から 岡村知昭

【句集を読む】
花爛漫、ばさら爛漫
甲斐いちびん句集『ばさら』の一句から

岡村知昭


大いなる物語消しなされ桜植えなされ  甲斐いちびん(以下同)

「大いなる物語」とは、一句の冒頭からなんとも大きく出たものである。よく言えば大胆不敵、厳しく言えば大雑把。句会に出されたら「『大いなる物語』とは何のことですか?」との質問が出席者から続出するのは間違いなく、そのわからなさゆえに互選の際には避けてしまって無点に終わる、との結果となってしまう可能性は高い。だが作者は句会での結果にはあまり頓着しないで「さあいったい何のことでしょうねえ」と満面の笑みを浮かべながら、出席者からの疑問をはぐらかしてしまいそうなのだから悩ましい。

改めてこの一句と向き合ってみる。「大いなる物語」を読み解く手掛かりとなりそうなのは「消しなされ」だろう。大いなるも何もない、こんな物語など消えてなくなってしまえ、との叫びからは、世にあふれる災厄のたぐいに対しての怒りや悲しみの感情がうかがえる。新型コロナウイルスによるパンデミックはまさに現在進行形で世界を揺るがす「大いなる物語」であるし(「涅槃西風はやくコロナを飛ばしてくれ」と悲鳴をそのまま一句にするぐらいに)、地球温暖化をはじめとする世界規模の環境破壊もまた現在進行形の「大いなる物語」だろう(「三月の海ゆく箱のおびただし」は東日本大震災による大津波がモチーフだろうが、海を埋め尽くさんばかりの膨大なプラスチックごみも想起させる)。

自分と世界に襲い掛かってくる現在進行形の「大いなる物語」の数々に対して、いったいどのように向き合っていかなくてはならないのか。この一句ではその問いへの答えとして「桜植えなされ」が提示される。絶望に震えず、希望に頼らず、まずは桜の苗木を植えることからはじめようではないか、と呼びかけるのだ。ここには「それでもリンゴの木を植える」というどこかの国の格言のような強い決意と諦念がここにはある。そう、花が咲き誇るためには、木がなくてはならない。桜を愛でるだけではない、爛漫の桜をもって「大いなる物語」と対峙するべく、まずは桜の木を植えようではないか。十七音を通じての呼びかけは、切実だ。

冬木の芽ばさらさらばと目をさます

夕桜ばさらばさらと暮れてゆく

植えられた桜の木は少しずつ育ち、いつか大樹となるであろう。春夏秋冬を何年、何十年、ときには何百年と過ごし、冬木の芽の頃に力を蓄え、春本番に、花爛漫のときを迎える。だがそのころには、桜の木を植えた本人は、この世からはとっくにおさらばしているだろう。もちろん、自らが植えた桜が花爛漫のときを迎えている様をこの眼で見届けられないのは、百も承知での「桜植えなされ」なのだ。「ばさらばさら」と咲き誇る夕桜を想いつつ「ばさらさらば」とこの世を去るとき、その顔には満面の笑みが広がっているのだろう。わが人生、不条理極まる「大いなる物語」の数々には、決して負けはしなかったぞ、との確信とともに。


2021-08-29

【句集を読む】人間の暗がりから世界を見る 照井翠『泥天使』を読む 小野裕三

 【句集を読む】

人間の暗がりから世界を見る
照井翠句集『泥天使』を読む

小野裕三


2018年秋から二年間、英国の美術大学に私は滞在した。渡英前から、311へ注がれる英国や欧米の視線はどんなものかが密かに気になっていた。それで言うと実は、滞英中に繰り返し目にしたひとつのアート作品があった。フランス人の現代アート作家、ピエール・ユイグ氏による映像作品「ヒューマン・マスク」は、311が生み出した現実をグロテスクなほど諷刺的に抉りだすもので、日本における311への視線とはかなり異質のその作品が広く英国で注目されていた事実はカルチャーショックでもあった。

福島原発事故後の荒廃した町にある、無人化した飲食店がその作品の舞台だ。そこにいる人間の仮面を被った猿は、調教されていたようで、廃れた店内を行き来し、酒瓶を取り出して座敷の無人のテーブルに置いたりする。無人の店での、人間の仮面をした猿の、人間めいたその行動は、311に重くのしかかる強烈な問いを見る人の心に突きつける。

もちろん、一括りで311と語るのはかなりミスリーディングで、地震・津波という天災と原発事故という人災、という異質な側面がそこには混在するし、その二面性が311をめぐる言説を複実なものにする。そして少なくとも、ピエール・ユイグという現代アート作家の眼はもっぱらその後者に向けられた。

照井翠氏の俳句は、その対比で言うなら、もっぱら天災の方に向けられるし、その意味でユイグ氏の作品とは方向性が違う。だが、私はなぜだか、ユイグ氏と照井氏の作品世界に、同質な何かを感じる。それは言ってみれば、「人間の暗がりから世界を見る」ような感覚である。

 紫陽花やあの人のゐる青世界

人間という存在がどうしようもなく抱える「闇」があって、それはできることなら気づかぬまま一生を終えてしまいたいようなものだ。だが、ユイグ氏も照井氏も、目を背けずにその闇を直視する。それは人々の中にあり、かつ自分の内にも潜む闇でもある。勇気を出してその闇に降り立つことで、初めて見えてくる世界がある。その感覚を、この二人の作品は共有している。

この句集は、311から時間が経って作られた句や、より日常的な旅先の句なども含む。だが、いったんあの「人間の暗がり」へと降り立ったからだろうか、あの日以降の照井氏の句にはどれも不思議な迫力が宿る。

 地の影も染みも人間原爆忌

この十年間に日本で詠まれた多くの震災詠と照井氏の句群はどこか異質だ、と感じてきたが、そんなことも理由かも知れない。あの日以後彼女が探り続けた俳句群は、フランスの現代アート作家が鮮烈なグロテスクさを持って世に問うた311と同じ地平に立つ。

 かつてここに人類ありき犬ふぐり


(『現代俳句2021年6月号』より転載)




2021-07-25

【句集を読む】平均台上の何者 松本龍子句集『龗神』の一句 岡村知昭

【句集を読む】
平均台上の何者
松本龍子句集『龗神』の一句

岡村知昭


陽炎の平均台の上に棲む  松本龍子

陽炎が揺らめく。熱気あふれる空間で、平均台もまた、揺らめいているかのように佇んでいる。熱い空気の揺らめきを見つめていると、この平均台の上には、何者かがいそうに思えてくる、いや思えてくるではない、本当にいるのだ。いまの自分の眼には映っていないだけで、この平均台の上には、何者かが確かに「棲」んでいるのだ。

ここでもう一度、一句の冒頭から読み返してみる。陽炎が揺らめく中に佇む平均台となると、屋外に平均台が置かれている像がすぐに浮かんでくる。すると、器械体操の一道具である平均台が屋外に置かれるなんてあるのか、と思ってしまう。もちろん体育館の熱気が陽炎のように揺らめいていると捉えたらいいのだろうが、何回も読み返していくと、誰かがいそうな熱気と揺らめきが、屋外での景として鮮やかに立ち現れてくるのを、どうしても抑えきれなくなってしまうのである。もちろん「実際にそういう景があったのですよ」と言われたら、それまでではあるのだが。

そして「棲む」である。「住む」でなくて「棲む」なのである。「棲む」で思い浮かべるのは人間よりも、獣であったり、魂であったり、物の怪の類だったりする。陽炎に覆われた平均台の揺らめく様子から、この世のものではない何かの存在を察し、ひそかなおののきを感じている姿が、この一句での「棲む」には込められている(ように、読み手のひとりである私は察する)。一句において「棲む」のは誰なのかを特定していない曖昧さは、平均台に「棲む」ものへの想像をかき立て、さまざまな読みを引き出してくる。魂か、物の怪か、それとも、もうひとりの自分自身なのか。

そんな風に思いめぐらす読み手をよそに、陽炎に覆われた平均台の上では、何者かが確かに棲んでいる。いま、このとき、平均台の上の何者かは立ち上がり、歩き出し、宙返りからの着地を決めている。演技の成功に笑みを浮かべている。さらに宙返り、宙返り。見事な演技を決める。あなたはいったい何者なのですか。その問いへの答えは、しかし、平均台の上からは聞こえない、届かない。ただ、平均台の上で、陽炎が揺らめいているだけなのである。


松本龍子句集「龗神」2021年1月/現代俳句協会


2021-04-11

【週俳3月の俳句を読む】鳥の自信、春を貫く 岡村知昭

 【週俳3月の俳句を読む】

鳥の自信、春を貫く

岡村知昭


春光をも貫いてゐる瑞鳥図  中西亮太

部屋の掛軸の瑞鳥、鳳凰や鶴が描かれている絵を眩しい春の光が照らしている。いつもの見慣れた掛軸が、春の光によって新たな装いとなっている。この設定を目の当たりにしたとき、まずは「春光に貫かれたり瑞鳥図」と、春の光をメインに一句をものにしそうになる。絵は年中あるが、春の光はこのひと時、この一瞬だけだ。しかし、この一句においては主役はあくまでも絵の瑞鳥たち。春の光に対峙して、己が姿を眩しく輝かせている、鳳凰に鶴。季節の移り変わりに対して揺らぐことなく、いつもの場所でいつも通りたたずんでいる鳳凰に鶴。春の光が教えてくれたのは、吉事の前兆とされている瑞鳥たちの絵からあふれてやまない、生物としての眩しい生命力なのであった。


やきそばは半額梅が枝は湾曲  篠崎央子

梅園での梅見の一コマである。そろそろ夕暮れ時。閉園の時刻が近づいてきて、売店は売れ残りを少しでも減らそうと商品の値引きをアピールしている。やきそばに至っては半額である。売れ残った食べ物が捨てられてしまうのはもったいないし気が引ける。そうはわかっていても、じゃあ買おうかという気持ちにはならないまま、ぼんやりとやきそばをはじめとした値引きの商品たちを眺める。売店の前の梅の枝はなかなかの湾曲ぶり。眼はこちらに向く。日が傾きはじめてきた今になって眺めてみると、梅園に来てすぐに見たときより面白く感じられてくる。もうすぐ梅園を出るので、名残惜しさがあるのかもしれない。そろそろ閉園時間、家に帰るときが来たようだ。やきそば、やっぱり買わないでおこう。


勝てる気の全然しない猫柳   近恵

「勝てる気が全然しない」と思っているのは、猫柳自身なのだろうか、それともヒトである自分についてなのだろうか。いや、どちらが思っているのか、という話ではなさそうだ。この一句では「勝てる気の全然しない」と思っている同士が、草木とヒトの間柄を超えて向かい合い、ため息をこぼし合っているのだ。それにしても両者ともにあまりにも自信がなさげ。せめて少しでも「負けてもともと」の気持ちがあるなら「全然しない」などとは思わないだろうから、どちらも謙虚を通り越して卑屈に近づきつつあるみたいだ。猫柳からもヒトからも、ため息がいくたびも発せられ、春の空気に溶けてゆく。「勝てる気の全然しない」とのうつむき加減な気持ちを、猫柳とヒトが共に分かち合う交歓のひととき。ため息が、どちらからとももなく、またひとつ。


ただ一重一重に漆里燕  須藤光

漆塗りの職人の丁寧な仕事ぶりが「一重一重」と書かれていることによって、読み手に映像となって伝わってゆく。手の動きの滑らかさ、刷毛の滑りの鮮やかさ、そして完成へと近づいていく漆の器の、色と形の重み。確かな技を駆使する職人の仕事ぶりへの取り合わせで「里燕」が選ばれたのは、漆の器の色合いからの連想なのだろう。「燕」「つばくらめ」ではなく「里燕」となったのは、器に漆を塗る職人の朴訥さと、完成間近の漆の器が持つ、鮮やかにして素朴な風合いへの思い入れがあってのものなのだろう。里の燕もまた、一重一重を重ね合わせた色合いと、朴訥さと素朴さを併せ持ちながら、里の空を駆けめぐっているのだろうか。そんな思いに、街からやってきた旅人はどうやら、心めぐらせているみたいである。


第724号 2021年3月7日 篠崎央子 猫の貌 10句 ≫読む

第725号 2021年3月14日 中西亮太 祝祭 10句 ≫読む

第726号 2021年3月21日 近恵 どこかで 10句 ≫読む

第727号 2021年3月28日 須藤 光 故郷 10句 ≫読む

2020-05-10

【句集を読む】わが既住症の記 眞矢ひろみ『箱庭の夜』の一句 岡村知昭

【句集を読む】
わが既住症の記
眞矢ひろみ箱庭の夜』の一句

岡村知昭


既住症に春昼そそと立ちゐたり  眞矢ひろみ

この一句において、自らが抱え込んでいる病は、「持病」ではなく「既住症」と認識されている。この書き方の違いは、抱え込んでいる病に対する自分の感情の表れと見るべきだろう。持病を持っているのは誰にとってもいい気持ちとはならないものだが、「既住症」と書くとき、自分の病がもたらす心身への危機感は、より一層深いものとなっているはずだ。いかなる病なのかは、この一句からはわからないが、かなり長い期間、「持病」以上の「既住病」となってしまった病と向かい合っているのは間違いないだろう。今日はいまのところ症状は何とかもっているな、今日はいつもより症状が出ているな、と自分自身の体で感じ取りながらの毎日である。

さて、春の昼に「既住症」を意識しているというのは、本日の体調、どうやらあまりよろしくなさそうな気配である。せっかくの春の穏やかな光と空気も、心ゆくまで味わうどころではないようだ。今現在の自分の体の不調を反映しているかのように、春の昼は「そそ」と他人行儀な存在となって、この方の目の前に立っている。今の自分の苦しみ、痛みとはかけ離れた存在となってしまっている「春昼」。だがかけ離れてしまっているがゆえに「春昼」の眩しさと穏やかさは「そそ」と自分自身の体に迫り、さらなる不調をもたらしてしまうのである。「ゐたり」とそっけなく書かれていながら、その向こう側には自らと「春昼」との関係のよろしくなさに対する大きな嘆息が、病める体を通じて聞こえてくるかのようである。

では、いったい「既住症」の正体はいったい何か。いくつもありそうではあるが、そのうちのひとつについては、この方には自覚があるらしい。

既住症に愛国とあり油照  同

うつそみの愛国亡国そぞろ寒  同

愛国を語るJK夢違え  同

自分は長らく「愛国」を病んでいる、との自覚。それは「愛国」という言葉をもてあそんで他を貶める道具にしてしまっているとの思いなのか、それとも自らの心の中に「愛国」への感情が潜んでいることへの驚き、恐れ、おののきなのか。そもそも「愛国」とは病と呼んでいいものなのか。

さまざまな感情の入り混じる中、そして穏やかな春の昼の真っただ中で、「愛国」という病におびえ、いまだわかっていない「既住症」を恐れながら、この方の感情はなかなか「そそ」と穏やかにはならないみたいなのである。


眞矢ひろみ句集『箱庭の夜』2020年3月/ふらんす堂

2019-05-05

神上がりましぬ ~中島夜汽車句集『銀幕』の一句~ 岡村知昭

神上がりましぬ
中島夜汽車句集『銀幕』の一句

岡村知昭

吹雪てふ鷹老いて神上がりましぬ 中島夜汽車
(『銀幕』二〇一四年 書肆蜃気楼)
 
「神上がり」を検索してみると「神上がる(かむあがる)」と出てきて、意味は「神として天に昇る」。そこから転じて、多くの場合は天皇はじめ皇族の死を現す言葉として使われているのだそうである。

しかし、この一句で描かれているのは、天皇でも皇族でもなく、それどころか人ですらない。「吹雪」という名こそ与えられてはいるものの、つまるところは一羽の鷹にすぎない。にもかかわらず、「神上がりましぬ」と天皇・皇族に使われるはずの言葉によってその死を嘆じられているのは、ほかならぬ「吹雪」という名の一羽の鷹なのである。

世が世ならば、鳥ごとき鷹ごときに「神上がる」を使うなど、ふさわしくないどころか不敬の誹りを受けてもおかしくはない(現在も意外とそのあたりは変わりないのかもしれないが)。しかし「神上がりましぬ」としか「吹雪」の死を嘆じることができない、いや、そのように嘆じなければならないほどに、この人物が「吹雪」の死によせる悲しみは深く、大きい。

そして「吹雪」の死を目の当たりにした悲しみからもたらされた深く大きな嘆息は、この一句全体に通奏低音となって鳴り響いているのである。

若かりし日にはおそらく、鋭い風貌、鋭いまなざし、鋭い嗅覚、鋭い四肢と爪をもって、数多くの獲物を捕らえ、わがものとしたであろう「吹雪」という名の鷹。齢を重ねて、まなざしも四肢も翼も衰え、ついに死のときを迎えた「吹雪」。

しかし、この人物の目の前には、死してもなお若かりし日と変わることなく、鷹としての雄姿を示し続ける「吹雪」がいる。骸ではない「吹雪」がいる。死してなお「吹雪」は、そのたくましさ、強さ、威厳の残像によって、この人物の心を震わせる存在としてあり続けている。「神上がりましぬ」との嘆息は「吹雪」に対しての最大の賛辞であり、弔意であり、深い慟哭であるのだ。

だがこのとき、この人物の心を占めているものは、はたして「吹雪」の死への嘆息のみにとどまるのだろうか、とも考えてしまう。

通常の使われ方とは大きく異なるのは承知の上で、「吹雪」と名付けられた鷹の死を「神上がりましぬ」と嘆じ、「吹雪」は神となって天へ昇っていったのだ、と断定するこの人物が、人の世における「貴種」とされる存在、「貴種」は無条件で崇め奉らなければならないと定められたシステムに対して、反抗心をくすぶらせているとしても、決しておかしくはないのである。

この一句をはじめて句会で見たとき、「神上がりましぬ」がどうしても分からなくて、一句としての立ち姿が魅力的でありながらも、なかなかイメージをつかみ切れず、結局、選から外してしまった記憶がいまなお残っている。

「神上がりましぬ」の意味が分かった今となっては「取りこぼした」という気持ちになるのだが、まあ、この種のことは句会ではよくある話ではある。だが、ようやくこの一句のイメージをつかめたかもしれないというのに、拙いながらの自分の鑑賞を、もう作者には伝えられないという現実。これもまた「よくある話」としてしまえば、それまでなのではあるのだが。

2017-08-06

進みつつ巡りつつ  2017年5月21日(日)関西現代俳句協会イベント『句集を読み合う』レポート 黒岩徳将

進みつつ巡りつつ
2017年5月21日(日)関西現代俳句協会イベント『句集を読み合う』レポート

黒岩徳将


昨年出版された『然るべく 岡村知昭』を久留島元と中村安伸が、『虎の夜食 中村安伸』を仲田陽子と岡村知昭が論じ、会場から質疑応答を行った。

久留島は、『然るべく』をまず「おもしろい、だけど言葉にしづらい」と評する。以下の2点がポイントだと感じた。

1.ためらう

ジャーナリスティックなテーマについて断言をためらう点「逡巡」とまでは言い切れず、「捩っている・外している」と言葉の意味をずらしていることを指摘した。

チューリップ治安維持法よりピンク 岡村
春光の国の殺菌はかどらぬ 同

「国」を出してきても「批判」とまではいかず、「春光」のプラスイメージが相俟って居ることをずらしていると久留島は言っている。意味が尻切れとんぼでどこかに行ってしまい、結局どこに向かって言っているのか定かでない。

短夜のならのほとけのけものめく 同
天竺になりたいくせに青嵐 同

変身願望がうかがえ、違う方へ違う方へずれていく

2.定期的に脱ぐ

あめんぼうまでいなくなりぜんぶ脱ぐ
脱いで脱いで心太よりやわらかで


本当は色んなものを脱ぎ捨てたい≒言いたいことを言いたいのに、ずらしていく(完全にずれているのではなく、角度を変えている)

ヒトラーの忌に頼まれて然るべく 岡村知昭
何も降らなくて卒業式中止 同

ヒトラーの句について、中村は「『ヒトラーの忌』は、虚仮威しとして置かれていて、この句の中心は実は『頼まれて然るべく』。何を意図しているのかが読み取れない。」久留島は、岡村自身でもどう面白がっているのか どう面白くなっていくのかわかっていない、そして『きさらぎの雨なり退路なかりけり』のように「退路が無い」と述べた。これは、後半で中村が「一句において季語とフレーズが『互いに影響をしない』」と評していたのと強い関連性がある。卒業式の句は、一見モラトリアムではなく、雨が降ったら中止になるみたいな別の力によって力が及ばないところで中止になることを望んでいると中村は指摘した。『然るべく』は、わからないことが多すぎて、『わからない』は決してマイナス評価の言葉ではないのである。

レジュメに記載している表記だと、中村は『然るべく』の特徴として「ジャーナリスティックな用語」「否定語法の頻出」「無生物との一体化 傷ついた塔」「モチーフへの執着と変奏」「取り合わせ」の五つを挙げて、「読むたびに印象が変わる句集」とした。

雨音や斜塔を妻といたしたく 同

久留島もこの句を挙げていたが、久留島が「いたしたく」の「ずらし方」を面白がっているのに対し、中村は斜塔を妻とするという一体化への屈折性に、より着目していた。この句は後の質疑応答で島田牙城が「この人はまっすぐなものが嫌いやねんね」と述べたように、ハイライトの一句であった。



実はこの二冊の句集は、東京の現代俳句協会の勉強会でも取り上げられた(その時は小津夜景『フラワーズ・カンフー』と田島健一『ただならぬぽ』も合わせて、4冊の句集を読書リレーとして読み合う会であった)。その時に『然るべく』の発表担当であった橋本直は、読者は句集というものを読むときに一般的に「選=一句として作品が立っているかを判別」をして読んでしまうものである、だが岡村の句集は選をするだけでは捕まえられないものがある、と述べた。関西の勉強会でも、中村は橋本の発言を受けて『然るべく』を評しているのが重要な点である。

卒業やバカはサリンで皆殺し 中村安伸
聖無職うどんのやうに時を啜る 同

仲田は、サリンの句からは地下鉄サリン事件があったときの当時の関西の閉塞感を思い出し、うどんの句からは仲田自身が職を辞した経験をふまえ、劣等感・屈折感・倦怠感を覚えたという。岡村はサリンの句を「①全員が殺したいという願望、②悪意は外から来ている」という2つが書き留められているとし、開眼の一句であることを強調した。

また、集中では「BL俳句」として読もうと思えばいくらでも読めることを仲田は面白く捉えている。たとえば、猫を「同性愛の女性側」の隠語として読めば、突っ込みが入りそうな句が多くある、など。岡村も句集冒頭にフィクションであることをわざわざ説明していることも関係しているだろう。

仲田・岡村の『虎の夜食』20句選のうち、共選が4句あった。

はたらくのこはくて泣いた夏帽子 中村安伸
馬は夏野を十五ページも走つたか 同
水は水に欲情したる涼しさよ 同
実験に妻が必要つばくらめ 同

馬の句以外は、陰影と言葉が強い。一句目は、現代社会の労働の無常観と夏帽子=少年時代のメタファーの対比と捉えることもできるが、それだけではないだろう。多くの句に見られる解釈→鑑賞という正当的な句を読むステップになかなか向かわせてくれない。仲田は実験の句を「自分の中でへらへらと笑える」と、読み返しながら楽しそうに解釈を行ったり来たりさせていた。岡村は、『虎の夜食』の外部から与えられた条件により不遇になる「私」に注目した。「黄落や父を刺さずに二十歳過ぐ」「姉の香りに鋏を入れる夏衣」など、父と姉の句には攻撃性が見られるのに対し、「秋の水妻よりこぼれ草を濡らす」など、妻には憎悪性が見えないことという指摘も、肉親と家族の違いを浮き彫りにする。家族の物語性が強く、それに伴い意味性を帯びすぎてしまう傾向もあるのではと思うが、物語性こそが『虎の夜食』の持ち味の一つであろう。

見逃せなかったのは、『虎の夜食』の短編小説と句を行ったり来たりする句集の構成についての質疑があったときに、「奥の細道」が引き合いに出されたことである。また、筆者は『虎の夜食』における切れの少なさについて評者にどう思うか質問をしたが、仲田は「そもそも物語と句が交互にならぶことで、句と外部の世界との切れは果たされている」と返答したことに大変納得がいった。

質疑応答・感想ラストは堀本吟氏。岡村・中村の言語感覚が対照的であると指摘し、(たとえば、モチーフ「塔」については、岡村は「斜塔を妻」で「塔」の即物性を読んでいる一方、中村の「塔(あららぎ)は快楽(けらく)の声を漏らすなり」と性的対象としての比喩として書いている。)一句の作り方に導入する生理的な感覚の違いを会場に投げかけた。最後に「ジャンルオーバー、形式のオーバークロスがますます一般的になってくる」「形式を読んでいるのか自分の個性的な世界を読んでいるのかがわからなくなってくる」「自分に納得しながら俳句を作ってほしい」「俳句形式がこれらの句集によって開かれるというよりかは過去に戻ってある種の俳句性を獲得するのでは」という趣旨のことを述べた。




2017-02-05

10句作品 岡村知昭 ひよこふたたびふたたびひよこ



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ひよこふたたびふたたびひよこ  岡村知昭

ひよこやめなくてよろしい四畳半

屋根裏のひよこだらけは売れにけり

ちゃんとやめるひよこの爪の突き刺さり

ひびわれへ入るひよこのひび割れて

金賞のひよこもみがらまみれなる

銀賞のひよこ用いる除霊かな

川ベりのひよこまんじゅうこそひよこ

杉花粉ついばむゲンジヒヨコかな

サウナ出るひよこに戻れなくなりぬ

食べられる水性ひよこよろしくね

2017-01-22

【句集を読む】描写と抒情から遠く 岡村知昭句集『然るべく』 西原天気

【句集を読む】
描写と抒情から遠く
岡村知昭句集『然るべく

西原天気


腹巻とサンダルでふらっとやってきて、いきなりバッターボックスに入ってバットを振ると、球は力強く外野へと飛んでいく。お揃いのユニフォームで身を固めた草野球チームの面々を尻目に、また、ぶんとバットを振る。

句集『然るべく』の作者・岡村知昭はそんな俳人だと思った。

そして、こんどはマウンドへ。投げる球は、どれも変化する。素直な直球は皆無。空振りをとるような大きな鋭い変化球もあれば、微妙に変化して、バットの芯をはずす球も多い。

というわけで、この句集に入っている句は、どれも相当の飛距離があり、どれもちょっとクセ球で、捕球にも苦労する。言い換えれば、どの句もおもしろく読め、どの句も、なんらかに「わからない」。

底の割れた句はほとんどない。これは素直な賞賛。同時に、どこかヘンで、多種多様なわからなさを味わう。

この「わからなさ」は、難しい語や凝りすぎた語の接合から来るものではない。表面上の意味は明瞭。しかしながら、この語とこの語がどうして同居するのかは不明、といった類のわからなさだ。

念のために言っておくと、『然るべく』の句群のもつわからなさ、私はイヤじゃない。むしろおもしろい。

ただし、私の中の〈わからない反応〉や〈それでも好き反応〉を説明するのは、とてもむずかしい。そこで、句集『然るべく』の3つの特徴について話したい。句集を語るに迂遠で、また不毛かもしれないが、ま、いいでしょう。

〔『然るべく』の特徴〕

1 否定形が多い

2 非=詩語と俳句的事物の接合

3 奇行


ひとつずつ説明していきますね。

1 否定形が多い

これはもう素晴らしく多い。俳句史上最も多いのではないかと思うくらい多い。

眠らぬよ梅林行きのバスに乗り  岡村知昭(以下同)

さいころの見当たらぬ雛祭かな

啓蟄を告げられなくて左利き

目撃はなかったことに山笑う

仮病とは思わねど三月の雪

牡丹雪降りだし悟らなくてよし

チューリップ咲くはずのない箪笥かな

案内の尼僧笑わず養花天

花冷のついに外れぬ指輪かな

自転車へたどり着かざる朧かな

シクラメンだから三階にはいない

本名はいらなくなりて春の海

以上、第1章(全27頁・53句)だけで否定形を含む句が12句ある。4~5句に1回は否定形。一般に用言のない句もあるので、20~25パーセントはかなり多い。

一巻ぜんぶから引いてもいいけれど、それだと引用過多。『然るべく』の句の姿、おもしろさは、上の12句だけでも充分に伝わるので、興味のある方は、なんらかの方法で入手してください。


2 非=詩語と俳句的事物の接合

説明がむずかしく、その説明にも曖昧さが残るだろうが、つまり、俳句、特に伝統的俳句と相性のよくない政治用語・経済用語のたぐいがまあまあの頻度で登場し、季語をはじめとする俳句的事物と、なかば乱暴に接合される。二物衝撃と呼んでいいと思うが、句の部品としての非=詩語の感触・肌合いがかなり奇妙。

チューリップ治安維持法よりピンク

資本主義礼賛茅の輪くぐりけり

冷やしカレーうどんなり強硬派なり

こんな調子。


初鰹この人握手会帰り

「この人」の挿入具合と「初鰹」の唐突が「握手会」という違和を際立たせる。


空梅雨のベリーダンスの遅刻かな

ベリーダンスの突拍子のなさを、「空梅雨」の唐突さが増幅。


非婚未婚なんじゃもんじゃは白い花

非戦不戦なんじゃもんじゃは散りにけり

結婚と戦争の併置がキモ。「なんじゃもんじゃ」は、その語感からか、「俳句の国」の住人お気入り季語。岡村知昭は「俳句の国」の住民票は持っていない(不法移民ぽくはある=褒めています)。したがって、ここでの季語はきわめて非=季語的/批評的。


3 奇行

奇行の主は、作者か、作中主体か、そのいずれでもない第三者(特定のない行為者を含む)かの違いはあるが(その区別が判然としないこともある)、どうせなら、作者の奇行と解するのがいい。せっかくこんな(↓)著者近影がカバー袖にあるんだし。





眉剃ってひよこめぐりのみんなかな

みんなが眉を剃ると、なかなかに迫力。「ひよこめぐり」とのギャップに、奇妙なエロチシズムさえ漂う。


あめんぼういなくなくなりぜんぶ脱ぐ

脱いで脱いで心太より柔らかで

この人、たびたび脱いでます。


日時計を産める優良児を探す

優良児は男児のイメージがあります。となると、よけいに奇妙でマニアックな探索。


ほくろ除去手術見学冴え返る

春一番タイプライター見物へ

ヘンなものを見に行く人です。


花冷えや銀紙でこいびとつくる

膝枕禁止嘆願花は葉に

雨音や斜塔を妻といたしたく

恋愛三部作と勝手に呼んでいる。

1句目。銀紙の恋人と花冷えは、俳句的にあんばいがよろしく、それがかえって可笑しい。

2句目。膝枕とは、またヘンなところにこだわる人です。

3句目。斜塔の妻。これにはぐっと来た。五重塔や東京タワーよりも、斜塔がいい。女性の好みが私と合いそうです。


祖母の忌のおねしょのあとの受賞かな

あわゆきと鼻血のひさしぶりである

空港や痔のはじまりの敗戦日

おねしょしたり、鼻血出したり、忙しい。おまけに痔です。それも空港で。

(2句目の語尾「である」の奇妙さは特記事項)

以上、3つの特徴。



否定形は、俳句の作法では避けるように言われることが多い。作法でなくても、否定とは、観念/概念の分野、作者の脳の操作が加わります。例:モノが「ある」ことは誰もいなくても「ある」。「ない」ことは、「ない」と認識する者が必要。

否定形は、極端に言えば「反=俳句的」。

これに、非=従来的な二物のぶつかり、奇行、こうした特徴を加えると、『然るべく』の俳句は、きわめて「反=俳句的」、もうすこしマイルドに言えば、従来から多くの人が思っていたような俳句ではありません。

この句集の、岡村知昭句のおもしろさ(広義のおもしろさ)は、このラディカルに過激に反=俳句的である点です。

こう書くと、「いや、むしろこれこそが俳句的でしょう?」と反論する人が出てきそうです。永遠に「いやむしろ」を繰り返す不毛な遊びと片付けてもいいのですが、いちおう、ここで言う「俳句的なるもの」とは、メインストリームとは言いませんが、人が「俳句をやっています」と答えて、どんな俳句をやっているのか、そのうちの多数派とざっくり捉えてください。

こう書くと、「少数派の俳句はほかにもたくさんある」と思う方もおおぜいいらっしゃることでしょう。そのとおりですが、『然るべく』に並んだ句群はかなりユニークです。


閑話休題。いわゆる「よくある俳句」の話です。

さて、多数派俳句の最大の特徴は「描写」です。

事物を描く。プラス季語。

前半部分が描写ではなく、気持ちだったり(それも心理描写ですが)、格言だったり、なにかのまとめだったりすると、描写の役割は季語が担います。

いずれにせよ、描写。

伝統派/客観写生標榜派であろうが、ちょっと前衛ぽく幻想ぽく派でろうが、描写は共通しています。

ところが、『然るべく』には、描写の要素が希薄です。なにかを描いて、読者に提示すること(まるで目に見えるような句だ!という賞賛!)に興味がないように見えます。

わずかな例外が、

寝室や熟柿のごとく麗子像

これはよくわかる比喩。けれども、こうしたタイプの「わかりやすい」句はほんとうに少ない。



で、ここから、冒険的なことをいえば…

描写のないところには抒情がない。

俳句の多くは描写を通して抒情を得てきた。描写の質と抒情の質はパラレルなところがあります。硬質、高尚、あるいは飄逸。それらの価値において、描写と抒情が同じ高さで上下する。

『然るべく』に描写を感じない私は、抒情を感じない。

私にとって『然るべく』の最大の魅力は、そこ。抒情がないところです。

「詩」好きの人なら「詩情」に言い換えてもいいでしょう。『然るべく』には「詩」がない。きれいさっぱり詩がなくて、気持ちがいい。私は(反語でも比喩でもなく)「詩」が嫌いなので、この点、大いに愛せます。


つまり(いきなりこの記事を終わらせますが)、『然るべく』はパンクです。

俳句の否定、ユニフォームを着込んで草野球に興じてきた俳句愛好者、俳人が、ルールや作法に則ってモノしてきた俳句の否定、という意味において、パンク。

というわけで、この句集は、細かいことを気にせず、大音量で鳴らすのが、正解です。




余談1

『然るべく』の本文には「箪」「祷」等のウソ字、略字が多く混じる。この方向での非=リファインもまた、パンクっぽい。

余談2

帯に「俳句世界のダークホース」とある。これはダメ。私が編集者なら「俳句界のホース」とワケわからなくする。あるいは「俳句界のスタリオン」と、ちょっとお下品にする。

余談3

『然るべく』の岡村知昭がラモーンズなら、同世代の田島健一の新刊『ただならぬぽ』はトーキング・ヘッズ(かもしれない)。ちなみに、ニューヨーク・パンクの担い手は1950年前後生まれが中心。俳句パンクの誕生は世代的に20年ほど遅れている。

2015-12-13

【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】岡村知昭 主権在民いつのことだか

【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
主権在民いつのことだか

岡村知昭



交番の神木として紅葉せり  千倉由穂

「交番」があり、「神木」があり、「紅葉」の真っ盛りである。交番の前に立っている木が、市民の安全を守るために日々勤めを怠らない交番を守っているかのようだ、との見立ては、同時に紅葉真っ盛りの木を交番がちゃんと守っている、との見立てへとひっくり返すことができる楽しみを秘めている。じゃあどちらが正しいのか、との問われてしまったら、「どちらも正しい」がいちばん正しい答えになるだろう。ただ気を付けておかなくてはならないのか、交番がもし「うちのおかげでこの木は神木になってるんだ」などと身の程知らずなことを言いだしてしまったら、せっかくの風景は台無しになるということだ。交番が持っている力は、確かに権力を背負っていて、人の一生をその気になれば台無しにできる代物ではあるのだが、天然自然の紅葉の前にあっては、しょせんかりそめのものでしかないのだ。もちろん紅葉の側からは「うちのおかげであの交番は今日も平穏無事なのだ」などと言いだしたりなどはしない。天然自然の力もまたかりそめのものでしかない、というのを紅葉はよく知っているのだから。


なんでやねんうち新宿のわかめやし  榊陽子

うそやうそや、新宿のわかめがなんで「なんでやねん」で答えるんや、あんたもろ大阪なのまるわかりやで、ほんま、昔の唄のタイトルそのままの「大阪で生まれた女」やなあ、とすぐにツッコミが途切れもなくあふれてしもて、困りますわな。ええボケやさかい気持ちがええんや。ああ、大阪ことばの出来の悪い真似するの疲れたから書き言葉に戻したいけど、やっぱり続けるわ。この10句にはいろんなわかめがおるけど、特にええなあと思ったのは「テンガロンハットも似合うわかめかな」とこの句やったわ。テンガロンハットの句は、わかめのくせに帽子かぶるんかいっ、とツッコミを待ってるような気配があって、読み手がどうしてもツッコミたくなるのがええ。わかめの帽子かぶってる姿がまたええんやな。そして「新宿のわかめ」や。このわかめは強がってて、意地張ってて、だけど心の中では泣いてんねん。なんで泣いてるんかは、わからんけど、泣いてんねん。それが東京で生きる、新宿で生きる、わかめとして生きる、っちゅうことやねろな。後ろ姿見てみい、肩が、背中が震えてるがな。「なんでやねん、なんでやねん」と震えてるんやがな。


主権即ち人魚にあれば吹雪く国会  竹岡一郎

「主権在人魚」。この事実をいったいこの国のどれだけの「国民」とやらを名乗っているヒトが知っているのであろうかを考えるとき、私は慄然とする思いに駆られるのであります。「吹雪く」のは国会だけではなく、私の心の内もまた同じく吹雪の真っただ中なのであります。「主権在人魚」である以上、人魚が国会を占め、人魚が選挙権を行使し、人魚が税を払う、「人魚の人魚による人魚のための政治」はすでに実現されていてしかるべきなのでありましょうが、寡聞にしていまだそのような一報は私の耳には入ってきていないのであります。「いやあなたが知らないだけで、すでに行われているかもしれないではないか」という声もありましょうが、そうなりますと人魚はヒトの姿を借りて世を闊歩しているということになりましょう。ヒトの世とは偽りで、すでに人魚の世であったということになりましょう。これだけでも恐るべきことですが、真に恐るべき点は、ヒトの姿を借りて現世の支配を行う人魚たちは、はたして「人魚の人魚による人魚のための政治」を実現しているのか、人魚の姿のままの人魚たちを、かつて世を闊歩していたヒトの真似をして封じ込めようとしていないか、との疑いを禁じ得ないところにあるのです。「主権在人魚」の世のありようについて、人魚かもしれない皆々様に対し、誠実なる答弁を求めます。





榊 陽子 ふるえるわかめ 10句 ≫読む 

第448号 2015年11月22日
千倉由穂 器のかたち 10句 ≫読む

竹岡一郎
進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ
前篇舌もてどくどくする水平線を幾度なぞつてもふやけず諦めず舌が鳥になるまでパアマネントは褒めませう 30句 ≫読む

第447号 2015年11月15日
竹岡一郎
(スス)メ非時(トキジク)(ヒ)ノ霊(タマ)
後篇接吻一擲無智一擲惜しむべからず抱くまでは木琴聴いても正気が足りぬ億兆の新たなる終末に洗濯は素敵だ! 30句 ≫読む

第449号 2015年11月29日
竹岡一郎 進メ非時悲ノ霊ダ(ススメトキジクヒノタマダ)
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上りに指咥えてる君へまつろう者を俳人と称えるが百年の計にせよ季無き空爆を超える為まつろわぬゆえ祀られ得ぬ季語へはじめてのうっちゃり 17句 ≫読む

2015-05-10

【週俳4月の俳句を読む】岡村知昭 いまも昔もきのうも今日も

【週俳4月の俳句を読む】
いまも昔もきのうも今日も

岡村知昭


花時やいまも昔も頬やせて  阪西敦子

いったい「頬やせて」いるのは誰なのでしょうか、なぜ「頬やせて」しまっているのでしょうか。「いまも昔も」なのですから、「頬やせて」いるのは過去の誰かであり、いまの誰かである、というのは間違いないのですけれども、それがいったい誰かなのかをはっきりと示せない、いや示さないのは、その「誰か」に自分も含まれているのではないか、との考えが脳裏をよぎるから、なのかもしれません。桜の花の眩しき盛り、頬はやせていても眼の輝きは決して失われないままに、桜の向こうにある何ものかを見つめようとしている誰か、いや私の立ち姿。「頬やせて」いるこのときに、懸命に見つめようとしているのは「いま」でもなく「昔」でもなく、「未来」なのかもしれません。幾星霜藻の連なりを経ても、変わることなく誰かから誰かへと、つまり誰かから私へと引き継がれた営み、私から誰かへと引き継がれる営み。なぜ、とはあえて問いますまい。「頬やせて」いる誰かの立ち姿はいまこの場所にあって、そしてこれからもあり続けるのは間違いないのですから、「いまも昔も」そして未来も。

葉牡丹が特殊な性癖だとしたら  北大路翼

いったい葉牡丹における「特殊な性癖」とはどのようなことを指すのでしょうか、それはほんとうに「特殊」なのでしょうか、いや待て、「葉牡丹における特殊な性癖」とそのままに取っていいのでしょうか、ほんとうは「葉牡丹であるにも関わらず特殊な性癖がある」との意味ではないのでしょうか、との堂々めぐりに、果たして終わりは来るのでしょうか。堂々めぐりを終わらせるために、ここは深呼吸して落ち着いて、さてもう一回見直してみると、「だとしたら」ということは、もし葉牡丹が「特殊な性癖」なら自分は「普通の性癖」とでも言いたいのでしょうか、いやそんなことはありますまい、この「だとしたら」には、もしそう「だとしたら」いったいどうしたらいいのだろう、との隠しきれない戸惑いが感じられはしませんか、これまで培ってきた葉牡丹と自分との関係が大きく変わってしまうのかもしれない、との恐れが見えてきませんか、と思いめぐらせていると、ではそこまでの怖れを抱かせるらしい葉牡丹の「特殊な性癖」とはどのようなことを指すのですか、とふりだしに戻ってしまいました。果たして「特殊な性癖」の答えが見つかるときは来るのでしょうか。



第415号2015年4月5日
北大路翼 花の記憶 12句 ≫読む
 
外山一機 捜龍譚 純情編 10句 ≫読む 
阪西敦子 届いて 10句 ≫読む
第416号 2015年4月12日
西原天気 戦 争 10句 ≫読む