2025-10-26
小笠原鳥類 足跡の化石
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2025-04-27
鳩 小笠原鳥類
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2024-11-23
岡村知昭【句集を読む】「究極」に抗うチューリップ 田宮尚樹句集『山櫻』の一句
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2024-06-09
岡村知昭【句集を読む】「を」の練習の成果について 岡田一夫句集『こほろぎ』の一句
俳句がとても好きな人でした。毎日机に向かい俳句作り。人、物に対する鋭い感性と観察眼、そこから得たものをいかに表現するかを常に模索していたように思います。言葉に対するこだわりには強いものがありました。鋭い感覚と詩情をも併せ持った一夫の俳句が好きでした。
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2023-11-26
岡村知昭 一人は、ここにいる 第60回現代俳句全国大会入選作を読む
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Labels: 岡村知昭
2023-07-09
岡村知昭【句集を読む】解くのは言葉 五十嵐秀彦『暗渠の雪』の一句
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2023-05-07
岡村知昭【句集を読む】嗚呼、なんと涼しきディスタンス 仁平勝『デルボーの人』の一句
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2023-02-05
三島ゆかり【句集を読む】岡村知昭句集『然るべく』を読む
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2022-10-23
岡村知昭【句集を読む】春が来る、春へ行く 歌代美遥句集『月の梯子』の一句
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2021-11-21
【句集を読む】花爛漫、ばさら爛漫 甲斐いちびん句集『ばさら』の一句から 岡村知昭
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2021-08-29
【句集を読む】人間の暗がりから世界を見る 照井翠『泥天使』を読む 小野裕三
【句集を読む】
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2021-07-25
【句集を読む】平均台上の何者 松本龍子句集『龗神』の一句 岡村知昭
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2021-04-11
【週俳3月の俳句を読む】鳥の自信、春を貫く 岡村知昭
【週俳3月の俳句を読む】
第724号 2021年3月7日 ■篠崎央子 猫の貌 10句 ≫読む
第725号 2021年3月14日 ■中西亮太 祝祭 10句 ≫読む
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2020-05-10
【句集を読む】わが既住症の記 眞矢ひろみ『箱庭の夜』の一句 岡村知昭
【句集を読む】
わが既住症の記
眞矢ひろみ『箱庭の夜』の一句
岡村知昭
既住症に春昼そそと立ちゐたり 眞矢ひろみ
この一句において、自らが抱え込んでいる病は、「持病」ではなく「既住症」と認識されている。この書き方の違いは、抱え込んでいる病に対する自分の感情の表れと見るべきだろう。持病を持っているのは誰にとってもいい気持ちとはならないものだが、「既住症」と書くとき、自分の病がもたらす心身への危機感は、より一層深いものとなっているはずだ。いかなる病なのかは、この一句からはわからないが、かなり長い期間、「持病」以上の「既住病」となってしまった病と向かい合っているのは間違いないだろう。今日はいまのところ症状は何とかもっているな、今日はいつもより症状が出ているな、と自分自身の体で感じ取りながらの毎日である。
さて、春の昼に「既住症」を意識しているというのは、本日の体調、どうやらあまりよろしくなさそうな気配である。せっかくの春の穏やかな光と空気も、心ゆくまで味わうどころではないようだ。今現在の自分の体の不調を反映しているかのように、春の昼は「そそ」と他人行儀な存在となって、この方の目の前に立っている。今の自分の苦しみ、痛みとはかけ離れた存在となってしまっている「春昼」。だがかけ離れてしまっているがゆえに「春昼」の眩しさと穏やかさは「そそ」と自分自身の体に迫り、さらなる不調をもたらしてしまうのである。「ゐたり」とそっけなく書かれていながら、その向こう側には自らと「春昼」との関係のよろしくなさに対する大きな嘆息が、病める体を通じて聞こえてくるかのようである。
では、いったい「既住症」の正体はいったい何か。いくつもありそうではあるが、そのうちのひとつについては、この方には自覚があるらしい。
既住症に愛国とあり油照 同
うつそみの愛国亡国そぞろ寒 同
愛国を語るJK夢違え 同
自分は長らく「愛国」を病んでいる、との自覚。それは「愛国」という言葉をもてあそんで他を貶める道具にしてしまっているとの思いなのか、それとも自らの心の中に「愛国」への感情が潜んでいることへの驚き、恐れ、おののきなのか。そもそも「愛国」とは病と呼んでいいものなのか。
さまざまな感情の入り混じる中、そして穏やかな春の昼の真っただ中で、「愛国」という病におびえ、いまだわかっていない「既住症」を恐れながら、この方の感情はなかなか「そそ」と穏やかにはならないみたいなのである。
眞矢ひろみ句集『箱庭の夜』2020年3月/ふらんす堂
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2019-05-05
神上がりましぬ ~中島夜汽車句集『銀幕』の一句~ 岡村知昭
神上がりましぬ
中島夜汽車句集『銀幕』の一句
岡村知昭
吹雪てふ鷹老いて神上がりましぬ 中島夜汽車
(『銀幕』二〇一四年 書肆蜃気楼)
「神上がり」を検索してみると「神上がる(かむあがる)」と出てきて、意味は「神として天に昇る」。そこから転じて、多くの場合は天皇はじめ皇族の死を現す言葉として使われているのだそうである。
しかし、この一句で描かれているのは、天皇でも皇族でもなく、それどころか人ですらない。「吹雪」という名こそ与えられてはいるものの、つまるところは一羽の鷹にすぎない。にもかかわらず、「神上がりましぬ」と天皇・皇族に使われるはずの言葉によってその死を嘆じられているのは、ほかならぬ「吹雪」という名の一羽の鷹なのである。
世が世ならば、鳥ごとき鷹ごときに「神上がる」を使うなど、ふさわしくないどころか不敬の誹りを受けてもおかしくはない(現在も意外とそのあたりは変わりないのかもしれないが)。しかし「神上がりましぬ」としか「吹雪」の死を嘆じることができない、いや、そのように嘆じなければならないほどに、この人物が「吹雪」の死によせる悲しみは深く、大きい。
そして「吹雪」の死を目の当たりにした悲しみからもたらされた深く大きな嘆息は、この一句全体に通奏低音となって鳴り響いているのである。
若かりし日にはおそらく、鋭い風貌、鋭いまなざし、鋭い嗅覚、鋭い四肢と爪をもって、数多くの獲物を捕らえ、わがものとしたであろう「吹雪」という名の鷹。齢を重ねて、まなざしも四肢も翼も衰え、ついに死のときを迎えた「吹雪」。
しかし、この人物の目の前には、死してもなお若かりし日と変わることなく、鷹としての雄姿を示し続ける「吹雪」がいる。骸ではない「吹雪」がいる。死してなお「吹雪」は、そのたくましさ、強さ、威厳の残像によって、この人物の心を震わせる存在としてあり続けている。「神上がりましぬ」との嘆息は「吹雪」に対しての最大の賛辞であり、弔意であり、深い慟哭であるのだ。
だがこのとき、この人物の心を占めているものは、はたして「吹雪」の死への嘆息のみにとどまるのだろうか、とも考えてしまう。
通常の使われ方とは大きく異なるのは承知の上で、「吹雪」と名付けられた鷹の死を「神上がりましぬ」と嘆じ、「吹雪」は神となって天へ昇っていったのだ、と断定するこの人物が、人の世における「貴種」とされる存在、「貴種」は無条件で崇め奉らなければならないと定められたシステムに対して、反抗心をくすぶらせているとしても、決しておかしくはないのである。
この一句をはじめて句会で見たとき、「神上がりましぬ」がどうしても分からなくて、一句としての立ち姿が魅力的でありながらも、なかなかイメージをつかみ切れず、結局、選から外してしまった記憶がいまなお残っている。
「神上がりましぬ」の意味が分かった今となっては「取りこぼした」という気持ちになるのだが、まあ、この種のことは句会ではよくある話ではある。だが、ようやくこの一句のイメージをつかめたかもしれないというのに、拙いながらの自分の鑑賞を、もう作者には伝えられないという現実。これもまた「よくある話」としてしまえば、それまでなのではあるのだが。
●
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2017-08-06
進みつつ巡りつつ 2017年5月21日(日)関西現代俳句協会イベント『句集を読み合う』レポート 黒岩徳将
進みつつ巡りつつ
2017年5月21日(日)関西現代俳句協会イベント『句集を読み合う』レポート
黒岩徳将
昨年出版された『然るべく 岡村知昭』を久留島元と中村安伸が、『虎の夜食 中村安伸』を仲田陽子と岡村知昭が論じ、会場から質疑応答を行った。
久留島は、『然るべく』をまず「おもしろい、だけど言葉にしづらい」と評する。以下の2点がポイントだと感じた。
1.ためらう
ジャーナリスティックなテーマについて断言をためらう点「逡巡」とまでは言い切れず、「捩っている・外している」と言葉の意味をずらしていることを指摘した。
チューリップ治安維持法よりピンク 岡村
春光の国の殺菌はかどらぬ 同
「国」を出してきても「批判」とまではいかず、「春光」のプラスイメージが相俟って居ることをずらしていると久留島は言っている。意味が尻切れとんぼでどこかに行ってしまい、結局どこに向かって言っているのか定かでない。
短夜のならのほとけのけものめく 同
天竺になりたいくせに青嵐 同
変身願望がうかがえ、違う方へ違う方へずれていく
2.定期的に脱ぐ
あめんぼうまでいなくなりぜんぶ脱ぐ
脱いで脱いで心太よりやわらかで
本当は色んなものを脱ぎ捨てたい≒言いたいことを言いたいのに、ずらしていく(完全にずれているのではなく、角度を変えている)
ヒトラーの忌に頼まれて然るべく 岡村知昭
何も降らなくて卒業式中止 同
ヒトラーの句について、中村は「『ヒトラーの忌』は、虚仮威しとして置かれていて、この句の中心は実は『頼まれて然るべく』。何を意図しているのかが読み取れない。」久留島は、岡村自身でもどう面白がっているのか どう面白くなっていくのかわかっていない、そして『きさらぎの雨なり退路なかりけり』のように「退路が無い」と述べた。これは、後半で中村が「一句において季語とフレーズが『互いに影響をしない』」と評していたのと強い関連性がある。卒業式の句は、一見モラトリアムではなく、雨が降ったら中止になるみたいな別の力によって力が及ばないところで中止になることを望んでいると中村は指摘した。『然るべく』は、わからないことが多すぎて、『わからない』は決してマイナス評価の言葉ではないのである。
レジュメに記載している表記だと、中村は『然るべく』の特徴として「ジャーナリスティックな用語」「否定語法の頻出」「無生物との一体化 傷ついた塔」「モチーフへの執着と変奏」「取り合わせ」の五つを挙げて、「読むたびに印象が変わる句集」とした。
雨音や斜塔を妻といたしたく 同
久留島もこの句を挙げていたが、久留島が「いたしたく」の「ずらし方」を面白がっているのに対し、中村は斜塔を妻とするという一体化への屈折性に、より着目していた。この句は後の質疑応答で島田牙城が「この人はまっすぐなものが嫌いやねんね」と述べたように、ハイライトの一句であった。
●
実はこの二冊の句集は、東京の現代俳句協会の勉強会でも取り上げられた(その時は小津夜景『フラワーズ・カンフー』と田島健一『ただならぬぽ』も合わせて、4冊の句集を読書リレーとして読み合う会であった)。その時に『然るべく』の発表担当であった橋本直は、読者は句集というものを読むときに一般的に「選=一句として作品が立っているかを判別」をして読んでしまうものである、だが岡村の句集は選をするだけでは捕まえられないものがある、と述べた。関西の勉強会でも、中村は橋本の発言を受けて『然るべく』を評しているのが重要な点である。
卒業やバカはサリンで皆殺し 中村安伸
聖無職うどんのやうに時を啜る 同
仲田は、サリンの句からは地下鉄サリン事件があったときの当時の関西の閉塞感を思い出し、うどんの句からは仲田自身が職を辞した経験をふまえ、劣等感・屈折感・倦怠感を覚えたという。岡村はサリンの句を「①全員が殺したいという願望、②悪意は外から来ている」という2つが書き留められているとし、開眼の一句であることを強調した。
また、集中では「BL俳句」として読もうと思えばいくらでも読めることを仲田は面白く捉えている。たとえば、猫を「同性愛の女性側」の隠語として読めば、突っ込みが入りそうな句が多くある、など。岡村も句集冒頭にフィクションであることをわざわざ説明していることも関係しているだろう。
仲田・岡村の『虎の夜食』20句選のうち、共選が4句あった。
はたらくのこはくて泣いた夏帽子 中村安伸
馬は夏野を十五ページも走つたか 同
水は水に欲情したる涼しさよ 同
実験に妻が必要つばくらめ 同
馬の句以外は、陰影と言葉が強い。一句目は、現代社会の労働の無常観と夏帽子=少年時代のメタファーの対比と捉えることもできるが、それだけではないだろう。多くの句に見られる解釈→鑑賞という正当的な句を読むステップになかなか向かわせてくれない。仲田は実験の句を「自分の中でへらへらと笑える」と、読み返しながら楽しそうに解釈を行ったり来たりさせていた。岡村は、『虎の夜食』の外部から与えられた条件により不遇になる「私」に注目した。「黄落や父を刺さずに二十歳過ぐ」「姉の香りに鋏を入れる夏衣」など、父と姉の句には攻撃性が見られるのに対し、「秋の水妻よりこぼれ草を濡らす」など、妻には憎悪性が見えないことという指摘も、肉親と家族の違いを浮き彫りにする。家族の物語性が強く、それに伴い意味性を帯びすぎてしまう傾向もあるのではと思うが、物語性こそが『虎の夜食』の持ち味の一つであろう。
見逃せなかったのは、『虎の夜食』の短編小説と句を行ったり来たりする句集の構成についての質疑があったときに、「奥の細道」が引き合いに出されたことである。また、筆者は『虎の夜食』における切れの少なさについて評者にどう思うか質問をしたが、仲田は「そもそも物語と句が交互にならぶことで、句と外部の世界との切れは果たされている」と返答したことに大変納得がいった。
質疑応答・感想ラストは堀本吟氏。岡村・中村の言語感覚が対照的であると指摘し、(たとえば、モチーフ「塔」については、岡村は「斜塔を妻」で「塔」の即物性を読んでいる一方、中村の「塔(あららぎ)は快楽(けらく)の声を漏らすなり」と性的対象としての比喩として書いている。)一句の作り方に導入する生理的な感覚の違いを会場に投げかけた。最後に「ジャンルオーバー、形式のオーバークロスがますます一般的になってくる」「形式を読んでいるのか自分の個性的な世界を読んでいるのかがわからなくなってくる」「自分に納得しながら俳句を作ってほしい」「俳句形式がこれらの句集によって開かれるというよりかは過去に戻ってある種の俳句性を獲得するのでは」という趣旨のことを述べた。
2017-02-05
10句作品 岡村知昭 ひよこふたたびふたたびひよこ
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ひよこふたたびふたたびひよこ 岡村知昭
ひよこやめなくてよろしい四畳半
屋根裏のひよこだらけは売れにけり
ちゃんとやめるひよこの爪の突き刺さり
ひびわれへ入るひよこのひび割れて
金賞のひよこもみがらまみれなる
銀賞のひよこ用いる除霊かな
川ベりのひよこまんじゅうこそひよこ
杉花粉ついばむゲンジヒヨコかな
サウナ出るひよこに戻れなくなりぬ
食べられる水性ひよこよろしくね
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2017-01-22
【句集を読む】描写と抒情から遠く 岡村知昭句集『然るべく』 西原天気
【句集を読む】
描写と抒情から遠く
岡村知昭句集『然るべく』
西原天気
腹巻とサンダルでふらっとやってきて、いきなりバッターボックスに入ってバットを振ると、球は力強く外野へと飛んでいく。お揃いのユニフォームで身を固めた草野球チームの面々を尻目に、また、ぶんとバットを振る。
句集『然るべく』の作者・岡村知昭はそんな俳人だと思った。
そして、こんどはマウンドへ。投げる球は、どれも変化する。素直な直球は皆無。空振りをとるような大きな鋭い変化球もあれば、微妙に変化して、バットの芯をはずす球も多い。
というわけで、この句集に入っている句は、どれも相当の飛距離があり、どれもちょっとクセ球で、捕球にも苦労する。言い換えれば、どの句もおもしろく読め、どの句も、なんらかに「わからない」。
底の割れた句はほとんどない。これは素直な賞賛。同時に、どこかヘンで、多種多様なわからなさを味わう。
この「わからなさ」は、難しい語や凝りすぎた語の接合から来るものではない。表面上の意味は明瞭。しかしながら、この語とこの語がどうして同居するのかは不明、といった類のわからなさだ。
念のために言っておくと、『然るべく』の句群のもつわからなさ、私はイヤじゃない。むしろおもしろい。
ただし、私の中の〈わからない反応〉や〈それでも好き反応〉を説明するのは、とてもむずかしい。そこで、句集『然るべく』の3つの特徴について話したい。句集を語るに迂遠で、また不毛かもしれないが、ま、いいでしょう。
〔『然るべく』の特徴〕
1 否定形が多い
2 非=詩語と俳句的事物の接合
3 奇行
ひとつずつ説明していきますね。
1 否定形が多い
これはもう素晴らしく多い。俳句史上最も多いのではないかと思うくらい多い。
眠らぬよ梅林行きのバスに乗り 岡村知昭(以下同)
さいころの見当たらぬ雛祭かな
啓蟄を告げられなくて左利き
目撃はなかったことに山笑う
仮病とは思わねど三月の雪
牡丹雪降りだし悟らなくてよし
チューリップ咲くはずのない箪笥かな
案内の尼僧笑わず養花天
花冷のついに外れぬ指輪かな
自転車へたどり着かざる朧かな
シクラメンだから三階にはいない
本名はいらなくなりて春の海
以上、第1章(全27頁・53句)だけで否定形を含む句が12句ある。4~5句に1回は否定形。一般に用言のない句もあるので、20~25パーセントはかなり多い。
一巻ぜんぶから引いてもいいけれど、それだと引用過多。『然るべく』の句の姿、おもしろさは、上の12句だけでも充分に伝わるので、興味のある方は、なんらかの方法で入手してください。
2 非=詩語と俳句的事物の接合
説明がむずかしく、その説明にも曖昧さが残るだろうが、つまり、俳句、特に伝統的俳句と相性のよくない政治用語・経済用語のたぐいがまあまあの頻度で登場し、季語をはじめとする俳句的事物と、なかば乱暴に接合される。二物衝撃と呼んでいいと思うが、句の部品としての非=詩語の感触・肌合いがかなり奇妙。
チューリップ治安維持法よりピンク
資本主義礼賛茅の輪くぐりけり
冷やしカレーうどんなり強硬派なり
こんな調子。
初鰹この人握手会帰り
「この人」の挿入具合と「初鰹」の唐突が「握手会」という違和を際立たせる。
空梅雨のベリーダンスの遅刻かな
ベリーダンスの突拍子のなさを、「空梅雨」の唐突さが増幅。
非婚未婚なんじゃもんじゃは白い花
非戦不戦なんじゃもんじゃは散りにけり
結婚と戦争の併置がキモ。「なんじゃもんじゃ」は、その語感からか、「俳句の国」の住人お気入り季語。岡村知昭は「俳句の国」の住民票は持っていない(不法移民ぽくはある=褒めています)。したがって、ここでの季語はきわめて非=季語的/批評的。
3 奇行
奇行の主は、作者か、作中主体か、そのいずれでもない第三者(特定のない行為者を含む)かの違いはあるが(その区別が判然としないこともある)、どうせなら、作者の奇行と解するのがいい。せっかくこんな(↓)著者近影がカバー袖にあるんだし。
眉剃ってひよこめぐりのみんなかな
みんなが眉を剃ると、なかなかに迫力。「ひよこめぐり」とのギャップに、奇妙なエロチシズムさえ漂う。
あめんぼういなくなくなりぜんぶ脱ぐ
脱いで脱いで心太より柔らかで
この人、たびたび脱いでます。
日時計を産める優良児を探す
優良児は男児のイメージがあります。となると、よけいに奇妙でマニアックな探索。
ほくろ除去手術見学冴え返る
春一番タイプライター見物へ
ヘンなものを見に行く人です。
花冷えや銀紙でこいびとつくる
膝枕禁止嘆願花は葉に
雨音や斜塔を妻といたしたく
恋愛三部作と勝手に呼んでいる。
1句目。銀紙の恋人と花冷えは、俳句的にあんばいがよろしく、それがかえって可笑しい。
2句目。膝枕とは、またヘンなところにこだわる人です。
3句目。斜塔の妻。これにはぐっと来た。五重塔や東京タワーよりも、斜塔がいい。女性の好みが私と合いそうです。
祖母の忌のおねしょのあとの受賞かな
あわゆきと鼻血のひさしぶりである
空港や痔のはじまりの敗戦日
おねしょしたり、鼻血出したり、忙しい。おまけに痔です。それも空港で。
(2句目の語尾「である」の奇妙さは特記事項)
以上、3つの特徴。
●
否定形は、俳句の作法では避けるように言われることが多い。作法でなくても、否定とは、観念/概念の分野、作者の脳の操作が加わります。例:モノが「ある」ことは誰もいなくても「ある」。「ない」ことは、「ない」と認識する者が必要。
否定形は、極端に言えば「反=俳句的」。
これに、非=従来的な二物のぶつかり、奇行、こうした特徴を加えると、『然るべく』の俳句は、きわめて「反=俳句的」、もうすこしマイルドに言えば、従来から多くの人が思っていたような俳句ではありません。
この句集の、岡村知昭句のおもしろさ(広義のおもしろさ)は、このラディカルに過激に反=俳句的である点です。
こう書くと、「いや、むしろこれこそが俳句的でしょう?」と反論する人が出てきそうです。永遠に「いやむしろ」を繰り返す不毛な遊びと片付けてもいいのですが、いちおう、ここで言う「俳句的なるもの」とは、メインストリームとは言いませんが、人が「俳句をやっています」と答えて、どんな俳句をやっているのか、そのうちの多数派とざっくり捉えてください。
こう書くと、「少数派の俳句はほかにもたくさんある」と思う方もおおぜいいらっしゃることでしょう。そのとおりですが、『然るべく』に並んだ句群はかなりユニークです。
閑話休題。いわゆる「よくある俳句」の話です。
さて、多数派俳句の最大の特徴は「描写」です。
事物を描く。プラス季語。
前半部分が描写ではなく、気持ちだったり(それも心理描写ですが)、格言だったり、なにかのまとめだったりすると、描写の役割は季語が担います。
いずれにせよ、描写。
伝統派/客観写生標榜派であろうが、ちょっと前衛ぽく幻想ぽく派でろうが、描写は共通しています。
ところが、『然るべく』には、描写の要素が希薄です。なにかを描いて、読者に提示すること(まるで目に見えるような句だ!という賞賛!)に興味がないように見えます。
わずかな例外が、
寝室や熟柿のごとく麗子像
これはよくわかる比喩。けれども、こうしたタイプの「わかりやすい」句はほんとうに少ない。
●
で、ここから、冒険的なことをいえば…
描写のないところには抒情がない。
俳句の多くは描写を通して抒情を得てきた。描写の質と抒情の質はパラレルなところがあります。硬質、高尚、あるいは飄逸。それらの価値において、描写と抒情が同じ高さで上下する。
『然るべく』に描写を感じない私は、抒情を感じない。
私にとって『然るべく』の最大の魅力は、そこ。抒情がないところです。
「詩」好きの人なら「詩情」に言い換えてもいいでしょう。『然るべく』には「詩」がない。きれいさっぱり詩がなくて、気持ちがいい。私は(反語でも比喩でもなく)「詩」が嫌いなので、この点、大いに愛せます。
つまり(いきなりこの記事を終わらせますが)、『然るべく』はパンクです。
俳句の否定、ユニフォームを着込んで草野球に興じてきた俳句愛好者、俳人が、ルールや作法に則ってモノしてきた俳句の否定、という意味において、パンク。
というわけで、この句集は、細かいことを気にせず、大音量で鳴らすのが、正解です。
余談1
『然るべく』の本文には「箪」「祷」等のウソ字、略字が多く混じる。この方向での非=リファインもまた、パンクっぽい。
余談2
帯に「俳句世界のダークホース」とある。これはダメ。私が編集者なら「俳句界のホース」とワケわからなくする。あるいは「俳句界のスタリオン」と、ちょっとお下品にする。
余談3
『然るべく』の岡村知昭がラモーンズなら、同世代の田島健一の新刊『ただならぬぽ』はトーキング・ヘッズ(かもしれない)。ちなみに、ニューヨーク・パンクの担い手は1950年前後生まれが中心。俳句パンクの誕生は世代的に20年ほど遅れている。
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2015-12-13
【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】岡村知昭 主権在民いつのことだか
【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
主権在民いつのことだか
岡村知昭
交番の神木として紅葉せり 千倉由穂
「交番」があり、「神木」があり、「紅葉」の真っ盛りである。交番の前に立っている木が、市民の安全を守るために日々勤めを怠らない交番を守っているかのようだ、との見立ては、同時に紅葉真っ盛りの木を交番がちゃんと守っている、との見立てへとひっくり返すことができる楽しみを秘めている。じゃあどちらが正しいのか、との問われてしまったら、「どちらも正しい」がいちばん正しい答えになるだろう。ただ気を付けておかなくてはならないのか、交番がもし「うちのおかげでこの木は神木になってるんだ」などと身の程知らずなことを言いだしてしまったら、せっかくの風景は台無しになるということだ。交番が持っている力は、確かに権力を背負っていて、人の一生をその気になれば台無しにできる代物ではあるのだが、天然自然の紅葉の前にあっては、しょせんかりそめのものでしかないのだ。もちろん紅葉の側からは「うちのおかげであの交番は今日も平穏無事なのだ」などと言いだしたりなどはしない。天然自然の力もまたかりそめのものでしかない、というのを紅葉はよく知っているのだから。
なんでやねんうち新宿のわかめやし 榊陽子
うそやうそや、新宿のわかめがなんで「なんでやねん」で答えるんや、あんたもろ大阪なのまるわかりやで、ほんま、昔の唄のタイトルそのままの「大阪で生まれた女」やなあ、とすぐにツッコミが途切れもなくあふれてしもて、困りますわな。ええボケやさかい気持ちがええんや。ああ、大阪ことばの出来の悪い真似するの疲れたから書き言葉に戻したいけど、やっぱり続けるわ。この10句にはいろんなわかめがおるけど、特にええなあと思ったのは「テンガロンハットも似合うわかめかな」とこの句やったわ。テンガロンハットの句は、わかめのくせに帽子かぶるんかいっ、とツッコミを待ってるような気配があって、読み手がどうしてもツッコミたくなるのがええ。わかめの帽子かぶってる姿がまたええんやな。そして「新宿のわかめ」や。このわかめは強がってて、意地張ってて、だけど心の中では泣いてんねん。なんで泣いてるんかは、わからんけど、泣いてんねん。それが東京で生きる、新宿で生きる、わかめとして生きる、っちゅうことやねろな。後ろ姿見てみい、肩が、背中が震えてるがな。「なんでやねん、なんでやねん」と震えてるんやがな。
主権即ち人魚にあれば吹雪く国会 竹岡一郎
「主権在人魚」。この事実をいったいこの国のどれだけの「国民」とやらを名乗っているヒトが知っているのであろうかを考えるとき、私は慄然とする思いに駆られるのであります。「吹雪く」のは国会だけではなく、私の心の内もまた同じく吹雪の真っただ中なのであります。「主権在人魚」である以上、人魚が国会を占め、人魚が選挙権を行使し、人魚が税を払う、「人魚の人魚による人魚のための政治」はすでに実現されていてしかるべきなのでありましょうが、寡聞にしていまだそのような一報は私の耳には入ってきていないのであります。「いやあなたが知らないだけで、すでに行われているかもしれないではないか」という声もありましょうが、そうなりますと人魚はヒトの姿を借りて世を闊歩しているということになりましょう。ヒトの世とは偽りで、すでに人魚の世であったということになりましょう。これだけでも恐るべきことですが、真に恐るべき点は、ヒトの姿を借りて現世の支配を行う人魚たちは、はたして「人魚の人魚による人魚のための政治」を実現しているのか、人魚の姿のままの人魚たちを、かつて世を闊歩していたヒトの真似をして封じ込めようとしていないか、との疑いを禁じ得ないところにあるのです。「主権在人魚」の世のありようについて、人魚かもしれない皆々様に対し、誠実なる答弁を求めます。
後篇:
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上り
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2015-05-10
【週俳4月の俳句を読む】岡村知昭 いまも昔もきのうも今日も
【週俳4月の俳句を読む】
いまも昔もきのうも今日も
岡村知昭
花時やいまも昔も頬やせて 阪西敦子
いったい「頬やせて」いるのは誰なのでしょうか、なぜ「頬やせて」しまっているのでしょうか。「いまも昔も」なのですから、「頬やせて」いるのは過去の誰かであり、いまの誰かである、というのは間違いないのですけれども、それがいったい誰かなのかをはっきりと示せない、いや示さないのは、その「誰か」に自分も含まれているのではないか、との考えが脳裏をよぎるから、なのかもしれません。桜の花の眩しき盛り、頬はやせていても眼の輝きは決して失われないままに、桜の向こうにある何ものかを見つめようとしている誰か、いや私の立ち姿。「頬やせて」いるこのときに、懸命に見つめようとしているのは「いま」でもなく「昔」でもなく、「未来」なのかもしれません。幾星霜藻の連なりを経ても、変わることなく誰かから誰かへと、つまり誰かから私へと引き継がれた営み、私から誰かへと引き継がれる営み。なぜ、とはあえて問いますまい。「頬やせて」いる誰かの立ち姿はいまこの場所にあって、そしてこれからもあり続けるのは間違いないのですから、「いまも昔も」そして未来も。
葉牡丹が特殊な性癖だとしたら 北大路翼
いったい葉牡丹における「特殊な性癖」とはどのようなことを指すのでしょうか、それはほんとうに「特殊」なのでしょうか、いや待て、「葉牡丹における特殊な性癖」とそのままに取っていいのでしょうか、ほんとうは「葉牡丹であるにも関わらず特殊な性癖がある」との意味ではないのでしょうか、との堂々めぐりに、果たして終わりは来るのでしょうか。堂々めぐりを終わらせるために、ここは深呼吸して落ち着いて、さてもう一回見直してみると、「だとしたら」ということは、もし葉牡丹が「特殊な性癖」なら自分は「普通の性癖」とでも言いたいのでしょうか、いやそんなことはありますまい、この「だとしたら」には、もしそう「だとしたら」いったいどうしたらいいのだろう、との隠しきれない戸惑いが感じられはしませんか、これまで培ってきた葉牡丹と自分との関係が大きく変わってしまうのかもしれない、との恐れが見えてきませんか、と思いめぐらせていると、ではそこまでの怖れを抱かせるらしい葉牡丹の「特殊な性癖」とはどのようなことを指すのですか、とふりだしに戻ってしまいました。果たして「特殊な性癖」の答えが見つかるときは来るのでしょうか。
第415号2015年4月5日
■北大路翼 花の記憶 12句 ≫読む
■外山一機 捜龍譚 純情編 10句 ≫読む
■阪西敦子 届いて 10句 ≫読む
第416号 2015年4月12日
■西原天気 戦 争 10句 ≫読む
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