【句集を読む】
ずっぷりと夢魔
宮本佳世乃『三〇一号室』の一句
西原天気
もう鍵盤がない息のない土竜 宮本佳世乃
否定・不在・欠落=《ない》を含むふたつの部品がならんだ、と読んでよいのでしょう。
もう鍵盤がない//息のない土竜
前半を用言の言い切りで処理し、後半を体言止めでブツとして句を止める。ちょっとした変化/展開/趣向で、読みにコクが出ますね。
さて、この句に何があるのかを見ていきましょう。構造の話から、内容へと話を進めるわけです。
まず、前半。
《もう》の二文字が、脈絡を確定する方向に働くようです。俳句は短くて、舌足らずなことも多いので、脈絡なんて言っても、だいたいにおいて読み手が勝手に連想したりして確定するに過ぎないのですが(つまり、多くのファビュラス〔*〕な句は脈絡などを持たず、いわば宙に浮いたまま魅了する)、そうは言っても、《もう鍵盤がない》のフレーズが意味として伝えるものがあるはずで、そのとき、ただ《鍵盤がない》とした場合と、《もう》がある場合、きっと違いは、ある。前者の茫漠さを、《もう》はやや緩和するというか、その程度の意味。
ただ鍵盤がないのではなく、《もう》なのだから、それは、尽きた、ということでしょうか。
鍵盤といっても、何の、どの楽器の、あるいはもっと違う器械の、といった確定のしかたは無粋であって、まあ、ピアノとしましょう(オルガンでもいいけどね)、それが《もう》ということは、例えば、鍵盤の在庫が尽きたので、組み立てられない、という脈絡を思いつくかもしれない。けれども、待て。そんな工場・工房の出来事みたいな読みは、やはり不自然で、指でスケール(音階)をのぼっていき、さらにのぼっていき、高音部の鍵盤が尽きてしまった。その景のほうが、まだしも、でしょう。つまり、工場・工房の景よりも、実感が湧く(ピアノを弾かない読者であっても)。88鍵のピアノの最高音部はかなり高いので、それ以上に高い音なんて要るのか? とも思うが、ともかく《もう鍵盤がない》。
このように読んでいくと、あれれ、これ、ちょっと、奇妙。現実の出来事には思えなくなってきます。一歩踏むと、そこに地面がなくて、堕ちていく。かのような。
右手の指が、《ない》《鍵盤》を踏み外す。ような。
《鍵盤がない》に《もう》の二文字がくわわると、夢のなかの出来事のような感触を帯びるのです。
後半。
《息のない土竜》は、呼吸の欠落のほか、土竜の属性として土中=視覚の欠落を召喚し、前半の夢魔が深まります。
息をしていない土竜は、ブツというよりも現象、もっといえば観念に近く、土竜というブツで止めておきながら、ちょっとした茫漠の味わいが読者に残りますから、夢から覚める働きは持たない。鍵盤の夢から覚めたら、土竜という闇を携えた事物の無呼吸≒死を間近にする。これもまた、さらに深い夢のようです。
覚めてみれば、ああ、あれは夢だったのだ。という「夢オチ」(胡蝶の夢から現代の閑話にいたる広汎なモチーフ)というスタイルから、この句は遠く、句の徹頭徹尾がずっぷりと夢に捕らえられている。現(うつつ)に帰ってくることがない。
余談ですが、そういう句、つまり句ごと夢魔に包まれた句って、いわゆる俳句らしい俳句というのとはまったく違っていて、そういえば、この句には季語がない。「土竜打は新年の季語だよ」と教えてくれる人がいそうだが、地面を打ったら、土中の土竜が息を引き取った、というわけでもないでしょう。
〔*〕ファビュラスの語を使ってみたかっただけです。戦慄かなの氏にならって。
宮本佳世乃『三〇一号室』2020年1月/港の人
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