【句集を読む】
ゴーヤ坊やとモシモ氏の去就
広瀬ちえみ『雨曜日』を読む
西原天気
午後からは豹が降るかもしれません 広瀬ちえみ
雹(ひょう)ではなく豹が、おそらく何千何万頭の豹が空から降ってくるという予報。漢字変換ミスに過ぎなくもないが、ことばになれば、一句になれば、《現に》それが起こる(ことばの現実が現実に優先されるのが句の決まりなのであしからず)。
音の相同が、意味を折り曲げ、意味の常識的なつながりを断絶して、常ならぬ出来事が生じるという事態(お馴染みの古い言い方をすれば、シニフィアンの偶然の一致が、関連のないシニフィエを連結し、そこに事故が起きる、さらにカジュアルな言い方をすれば、ダジャレが生み出す非現実)は、句集『雨曜日』のそこここにある。
ダジャレにかぎらず、地口・軽口、語呂合わせのたぐい。
昼も夜も泣いてゴーヤの坊やなり 同
正月のビンボーリンボーダンスなり 同
いわゆる「ことば遊び」と総称され、ことばを遊ぶ、ことばで遊ぶ、というから、それは愉しく素晴らしいことだろう、と思っていたら、どうもしばしばそうではなく、貶められ蔑まれることしばしば。
そうした迫害(ことば遊びいじめ)は、文学・文芸において、ひいては世間において、少なくとも俳句において。
川柳においてはどうなのだろう? 不案内だが、俳句ほどには迫害を受けていない気もする。
もちろん、ダジャレ、地口軽口、語呂合わせが盛り込まれてさえいればいい、素晴らしいというわけではなく、そこには造作の洗練や味わい、また読み手の好みもあるから、ことばを遊べばぜんぶがオッケーというわけではない。ぜんぶ成功というわけには行かない。
モシモ氏とシカシ氏が来るよく晴れて 同
わけではないにしても、わけには行かないにしても、生き生きとことばが遊ばれるとき、私たち読者はちょっと自由になれる。〈意味〉は鎖だから。そこからひととき解き放たれる。
考えてみれば、川柳は、俳句は、〈意味〉に使役することにばかりに意を払いすぎている。
〈意味〉という主人、いなくちゃ困るからそれなりに重要なんだろうけれどしばしば傲慢すぎる〈意味〉という主人から離れる、お暇をいただくことも必要なんじゃないか。『雨曜日』の頁を繰りながら、そのように思ったことでしたよ。
広瀬ちえみ『雨曜日』2020年5月/文學の森
2020-06-14
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