2020-06-28

崎原風子読書会 ゆたかな等高線へ〔前篇〕

崎原風子読書会
ゆたかな等高線へ〔前篇〕


阿部完市以降の「海程」の前衛俳句を振り返る企画として、アルゼンチン移民である崎原風子を取り上げた。

崎原風子(さきはら・ふうし) 
本名・朝一。昭和9(1934)年沖縄生れ。戦中、宮崎県に疎開。高鍋高校中退。昭和26(1951)年アルゼンチンに渡る。洗濯屋。

テキスト:『崎原風子句集』1980(昭和55)年/海程新社

目次
Ⅰ 南魚座〈1959~61〉
Ⅱ 寝棺(1962~70)
Ⅲ もっとはるかな8へ(1972~79)
解説/大石雄介
共有文献:
『いまどきの俳句』(沖積舎・1996)の「光体の行方〈さき〉」
「アルゼンチン日本語文芸論ー『あるぜんちん日本文藝』についてー」(守屋 貴嗣『異文化』14巻・2013)ほか。

2020年5月5日(火)13時~16時半 俳人・歌人による崎原風子読書会をzoomにて開催。

参加者:
安里琉太、石川美南、大塚凱、小川楓子、黒岩徳将、寺井龍哉、外山一機、中矢温、原麻理子、平岡直子、三世川浩司、柳元佑太(五十音順 敬称略) ※石川美南、大塚凱、中矢温は途中退席


小川◆本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。崎原風子読書会を始めようと思ったきっかけについて少しお話をさせてください。私は金子兜太主催の「海程」に終刊まで十年間所属しました。2018年に金子兜太と主要同人の谷佳紀が亡くなったのを契機に、阿部完市以降の「海程」の前衛俳句を振り返ってみたいと感じるようになりました。金子兜太はよく取り上げられますが、他の多くの作家は俳壇的にはあまり知られていないように感じています。

その中で、なぜ崎原風子を選んだかというと、「海程」の知られざる俳人のなかでは、著名であるということ。また、個人的な話ですが、金子兜太は、海程新人賞の副賞を渡すとき、私の顔を見ながら「フウシでなくてフウコか。女性だったのか」と呟いていました。そのくらい、崎原風子が印象的だったのであろうと思います。副賞の色紙には《黄葉の奥に檜山の黒緑あり》が書かれており、受賞者のなかでは異色でした。崎原の移民先であるアルゼンチンの乾いた透明な空気に、金子兜太は対峙しようとしていたのかもしれません。では、外山さん、移民という視点からお願いします。

外山外山一機です。よろしくお願いします。私自身は元々ブラジルの移民に関心を持っており、その横に何となく崎原風子という存在がいたという感じです。ブラジルでもそうですが、やはりアルゼンチンでも「海程」がある程度の読者を持っていたというのは興味があるところです。簡単に数分でアルゼンチン移民について年表をお見せしながら話せればと思います。(年表を共有画面に映しながら)これはすごくざっくりしたものです。

アルゼンチンの移民社会の特徴は沖縄出身者が多数派であることです。崎原風子自身も言っていましたが、最近でも7割くらいは沖縄出身だそうです。あとは自由移民が多いということ。ブラジルだと官約移民、契約移民が多いのですが、こちらは自分で勝手に行っているというパターンなのが面白い。崎原風子もそういう感じ。そして多くが都市近郊に住んでいるということです。

崎原風子自身は戦後かなり早い段階で渡った移民です。そもそもアルゼンチンの移民は1886年の牧野金蔵さんという人が第一号だと言われます。基本的には日本人というよりヨーロッパ系の移民を想定して受け入れを始めていたころに、日本も来ていいですよという感じになりました。それで1901年に修好通商航海条約が結ばれ20世紀の初頭に本格的に入っていくようになった。

移民社会の俳句には二通りの路線があります。それは日本から行った移民が作った所謂日本からの俳句、あとはジャポニズム経由のハイカイです。アルゼンチンでも既に20世紀初頭にタブラダという人がいて、少しですがハイカイに触れるようなことがありました。ハイカイの系譜はブラジルほど強力ではないが、綿々と続いているような感じがします。

戦前戦中期になりますと、笠戸丸(かさとまる)がブラジルに最初の移民を送ったので有名なのですが、実はその手前のブエノスアイレスのところで何人か下船しています。その辺りからが移民の本格的な始まりという感じです。

戦前戦中と戦後の違いは出稼ぎ意識がある程度あったことです。永住する訳ではなく一時的に行ってまた帰ってくるんだというのが戦前戦中の主な特徴です。

戦後になると戦地から戻ってくる人たちで溢れてきて職がない状況となり、沖縄から行く人はかなり多かったようです。そもそも沖縄の県人会が機能していて、沖縄をめぐる状況の変化を巡って対立したりもするんですけど、そういう中に崎原風子もいたという感じです。ようするに風子が何故沖縄から行ったのかというとそもそもコミュニティがアルゼンチンにあったからだし、何故個人で行ったのかというとそういう風土だったからと言えます。

ちなみに風子と同時代にも、ボルヘスの「命数」をはじめ、ハイカイへの関心を持つ人はずっと南米にいました。ざっくりとしたものですが風子がアルゼンチンに渡った1950年ごろの状況はこんな感じです。

安里事前に資料として、『崎原風子句集』(海程新社・1980)の大石雄介さんの解説、『いまどきの俳句』(沖積舎・1996)の「光体の行方〈さき〉」、「アルゼンチン日本語文芸論ー『あるぜんちん日本文藝』についてー」(守屋 貴嗣『異文化』14巻・2013)、その他いくつかのサイトの記事を共有して頂きました。辻本昌弘さんの『語りー移動の近代を生きる』は先行研究を踏まえた上で、ライフヒストリー研究としてまとまっている一冊だなという印象でした。個人的には、風子がアルゼンチンと日本と沖縄を経験しながら、言語の音の側面について連載や書簡の中で言及しているということです。

柳元僕は移民についてほとんど知らないので今回の勉強会で学べたらなと思っています。

大塚僕も前提知識がないのですが、僕の興味は「海程」における崎原風子の自己認識あるいは逆に「海程」における崎原風子の位置づけにあります。後者はある意味で崎原風子に対するステレオタイプを含むかと思いますが知りたいです。

小川崎原が、来日すると盛大な歓迎会が開かれて、ある種スター的なところがあったようです。その時の集合写真もあります。

三世川勿論「海程」の中でも色々なタイプがいますが、崎原風子さんはその中でも簡単な言葉で言うと前衛のような特殊な存在として認識されていたように思います。

大塚事前にいただいていた大石雄介さん解説の文章に「海程の最右翼だ」というようなことが書いてあったかと思うのですが、まず「海程」の最右翼ってどっち側なのかが分からなくて。北朝鮮における保守側は共産主義ですよねみたいな?

小川私も分からなかった(笑)。

三世川「海程」の中でも風土的なのを句にされるとか、現代的なものをテーマにするという幅があると思いますが、崎原風子さんは表現という意味で実験的なことをされていたのではないかなと思います。一般性というところには大いに欠けるところがあったと思います。共感者や理解者も恐らくほんの一握りであったのではと思います。

大塚ありがとうございます。

小川同じ前衛俳句といっても、同じく「海程」で崎原と1歳違い1932年生まれの竹本健司は定型に近く、内容もオーソドックス。一番飛躍している作品で《つくしひばり肉減りし母笑うなり》など。着実なものだと《風とわれらの血が赤うなる桜んぼ》《父なきあとの酒肴全山雨滴なり》など。解説は「その個への執着」というタイトルで高野ムツオさん。

黒岩今守屋貴嗣さんの論文を読み返しているのですが、崎原風子が日本文芸の編集をやっていて崎原風子自身の作風が他の人にどう伝わって継承されたのか、触発したとはあまり思えない書き方がされています。オンリーワン的存在のままだったのでしょうか。

外山その点について守屋さんの論文の中で引かれている久保田古丹の発言が気になりました。すごく崎原風子が孤立しているように見える。しかし本当にそうだったのだろうか。風子は久保田古丹と同じグループで一緒に活動していたことがあります。論文に引かれている対談で崎原風子は有機物と無機物について、「無機と有機とがぶつかり、そこから発生する効果をねらっている。」と言っています。

実はこの対談とは別の場所で古丹も有機物と無機物を組み合わせることについて述べています。古丹の言う有機物は人間のこと、無機物は自然のことです。ここでの言葉の一致は偶然だとは思えません。言葉は同じですがニュアンスが違っていて、それがお互いの意見の相違につながっていったのかなとは思いますが、完全な孤立とは言えないのではないかと。

黒岩とても分かりやすかったです。ありがとうございます。これを読んだ後に崎原風子以外のアルゼンチンの作家の作品と比べても面白いのかなと思いました。

小川阿部完市もスターではあったけれど、広く理解はされなかったので、そういった点では少し近いのかなと思っています。

三世川そうだと思います。日本語という点では伝わるものもありますが、言葉を意味という文脈で伝えるのではなく、もうちょっと言葉そのものの可能性を、これは本人の資質に拠るものもあるかもしれませんが、求めていったのが「海程」の一部の人たちのムーブメントではなかったのかなと思います。

小川意味でなく韻律で読ませる俳句は、前衛俳句の中では異端的ではあったということでしょうか。

三世川そうではないでしょうか。

小川けれども、やはり彼らのスター性は「海程」内で認められていたところはあったし、俳壇でも一部認められていた、というところではないでしょうか。では石川さんいかがですか。

石川崎原風子について全く知らない状態で句集を読ませていただいたのですが、とにかく面白かった。俳句自体読み慣れていないので、歴史的なことは分からないのですが、編年体になっていて作風をどんどん変えていきますよね。私としては途中でキツイところもあったのですが、最後に新境地も見せて終わる流れも面白い。一冊を通して色んなことを開拓していると思います。

小川寺井さん、この時代に移民の歌人はいらっしゃいますか。

寺井名前がよく知られている人は思い浮かびませんが、一定数いたと思います。「心の花」という、現在は佐々木幸綱さんが主宰の結社の方々は、南米の移民の人たちの短歌の研究はしているのではないかと。すみません、ちょっとあまり分かりません…。

小川ありがとうございます。南魚座から順番にやっていきましょう。

外山南魚座はグループ名から取っているんですかね…?

安里そうだと思います。当時のアルゼンチンの句会名で「なんぎょざ」と読むと思います。

外山そのタイトルの付け方がまず面白くて、風土性があるかなと。それの中でも自分は《野の十字架冬日尽きむとして奢る》を取りました。章のタイトルからして個人としては書いていないという意識を感じました。移民とどこまで引き付けて読むことが妥当なのか分かりませんが、日本人としてのアイデンティティや沖縄から来たというルーツへの意識と俳句を選んでいることの関係性はまず考えなければなりません。

ブラジル移民の場合は俳句を書くのは日本人として延命するためであるという意識がどこかにある。風子が南米でのグループ名を自分の章の名前にしたということには、既に俳句を個人の文学的な営みとしては考えていないのかなという意識を感じました。そうすると《野の十字架》の句は大きな運命の在り方を問おうとしているのかなと。「野の十字架」は誰かのあるいは自分のものでもあり得る、日本から来ると「十字架」に違和感はあるのかもしれないのですけど、それと向き合う形で集団としての死、あるいは集団の中での死に向き合わないといけない。そういうものを感じます。その一方で日差しの象徴する生の強さへのあこがれも感じられます。一言で言うと、異国の地に行った違和感や目の前のものを書き留めているという感じです。

小川そうですよね。共同体感のようなものがあるのかな。《農夫黄色糧のひまわりの海につかり》《みの虫満ちやわらかい「人類」という語》とか。「人類」に対して肯定的な印象があります。では石川さんいかがですか。

石川納骨堂(パンテオン)口をひらけばみな独語》を選びました。日本から世界に移民していったときに、今お話にあった、日本人としての共同性が意識される一方で、移住した土地にどれくらい根差してその風土を描けるかというところもポイントかと思います。この句は、納骨堂という日本ではあまり見ない景物を書いていますが、それだけでは終わらない。そこにいる人たちは黙りがちで、喋るとしても独り言なのだという。その土地の人々を集団として描くのではなく、一人一人の個別の人間として見ているようなところがある。移民の句だと知らなければ、生まれたときからこの土地のことを知っているのかと思ってしまうような、深い観察眼が面白かったです。

Ⅱ章以降を読むと、Ⅰ章はまだ保守的というか、この中ではまだ前衛ではないように感じました。でも、個人的にはⅠ章の時点ですごくテンション上がってしまって。このⅠ章の作風のままで一冊続いていたとしても十分面白かったと思います。ここに留まらなかったのもすごいですけど。

小川ありがとうございます。そうですね。Ⅰ章は、形式に正しく書いているという雰囲気はあるような気がします。それでは黒岩さんいかがですか。

黒岩みの虫満ちやわらかい「人類」という語》について、「人類」というのがあって人類の個別全体性を言いつつ個別性も言っている。《野の十字架冬日尽きむとして奢る》と通じ合うところはあると思う。ただもしかすると、「海程」に所属していることからも金子兜太などから同朋というテーマや自分と他者の意識を包み込むようにして詠むという態度の影響も受けていたのかなと。「みの虫満ち」というので辺りに「みの虫」がたくさんいるという景色を打ち出し、動物と人間の一体感も感じさせ、正にそれを「やわらか」く書いている。

小川確かに金子兜太を含むこの時代の人たちの共同体意識のようなものを感じますね。原さんいかがですか。

みの虫満ちやわらかい「人類」という語》、私はこの句単独の印象で選んでしまったのですが、「人類」という大きな言葉がこの句の中では大仰に感じない点が魅力的だと思いました。「みの虫満ち」から、幼虫の体内に満ちている液体のようなものを想像し、それが生命そのものであるかのような印象を受けました。そこから、「人類」全体が溶け合って一つの生命となっているようなイメージが浮かんで、面白いなと思いました。

小川崎原風子の作品全体になんとなく液体質なところがあるように、私は思ったりしています。さて、南魚座について何かご意見ある方いらっしゃいますか。

安里辻本さんの著書を参照すると、南魚座はまだ風子が「海程」に入る前の句群で、現地の句会が加藤楸邨に句を見せていたとあります。このころは楸邨が選者として意識されていたのかなと。楸邨から紹介される形で「海程」に入ったみたいな記述もあって。《野の十字架冬日尽きむとして奢る》の「奢る」とか、最後に言葉をぐっと詰めてあるような句が気になりました。動詞に力点があるような、そういうところは興味深いなと思いました。

石川先ほど私が挙げた句に戻るんですが、《納骨堂(パンテオン)口をひらけばみな独語》の句の「口をひらけばみな独語」は、その場にいる生者とも捉えられるし、納骨堂に収められている死者とも捉えられると読んだんです。死者と捉える方がより自然かなとは思うんですけど、こういう、実景と比喩が二重写しになって見える句が、Ⅰ章の段階からかなりある気がします。こういうあり方は、同時代あったことですか。

三世川「ば」という助詞があるように、言葉を上から下まで文脈をつなげる意味合いではなく、むしろ別の次元の読みに誘うような使い方は当時の「海程」にはあったように記憶しています。

石川では、これらの句の新しさは、表現上の工夫というより、アルゼンチンの風土を詠みこんでいるところにあったのでしょうか。

三世川恐らくあまり風土は意識されていなかったのではと思います。

石川あっ、そうですか。

外山すみません、この南魚座の1960年代初め頃の「海程」のスター的存在は金子兜太を除くとどなたがいましたか。

三世川私も詳しくは知りませんが、森田緑郎さんや、女性であれば山中葛子さん、佃悦夫さん、酒井弘司さんだとか。総体的な言い方で申し訳ないですが、どちらかというとイメージを強く打ち出したような作品が当時のトレンドにあったと思います。そのような句を多く見た記憶があります。

小川「海程」の後継誌「海原」の作家で言えば、森田緑郎さんは、1932年生まれで崎原の二歳上。《ザイル垂れ絞られてゆく喉の明るさ》《巨大なスカート拡げ家中見え》などが有名句です。他に崎原の句と照応するならば、《ことば散る蒸発の海の明るさに》《白髪を刈るヒロシマのまぶしい空》《木箱あり夕暮れはすきとおる生殖》など。斬新なイメージの作家です。作風は変化されましたが、現在も活躍されています。

山中葛子さんは《花売りの港は白い歯でねむる》《母が降るこの紺碧を嫁ぎゆく》《白壁の街に売らんと鷗鳴かす》など柔らかな感性が持ち味です。

佃悦夫さんは、1934年生まれで崎原と同年ですが《やわらかに夏ぼうぼうと生家たり》《相模伊豆鳥居こわれるほど晴れたり》など定型感と内容が堅実な印象がありますが、村山故郷の「たちばな」に在籍するなどしてから「海程」に入会していることも影響しているように思います。

この時期の海程の作家の個々の違いは、どれくらい意味やイメージに頼るか、どのくらい定型外の韻律を重視するかになるのではと思います。ただ、今の俳句のイメージと当時の俳句のイメージは少し違うような気がしています。その辺り大塚さんいかがでしょう。

大塚この後に話が行くと思うんですが、第Ⅰ章の句でも情報量が十分多いけど、Ⅱ章に比べると軽いじゃないですか。意味性の濃いワードを詰め込んでいく方向に舵を切った。崎原風子個人の問題かもしれないのですが、同じ移民の俳句としてわかりやすく比べたときにブラジル的なものとは違った気がしました。そんなにちゃんと読んでいないので分からないんですが、割とブラジル移民の俳句はどうしても花鳥諷詠から離れられない、中心に日本的なものの翳りが見えるんですが。湿度が高いというか。ブラジルの山を見て富士山を思い出すような。そういうウェットさを感じないんですよね。同じラテンアメリカでも、ブラジルというよりコロンビア的な感じがするというか。

死があって妊婦があって胎児があって花があって婚礼があってという、生き死にとか祝祭が近い世界感。その感じは特にⅡ章から出てくるかなと思っていて。結構安直な比べ方かもしれないけれど、結構手触りが違うなというのを序盤の方からも感じた。

外山ブラジルでは1950年代頃に俳句のブームが来る。そのブームを佐藤念腹というホトトギス有名人が重鎮として他の仲間たちと引っ張っていきます。だからどうしても有季定型が大事になってくる。崎原風子のような句があったとしても、ブラジルの俳句コミュニティで高く評価はされたとは思えません。

この句集の後半の作とかになってくるとかなり花鳥諷詠と違うものですよね。そういうのがアルゼンチンという場所でできたということへの驚き。ブラジルで俳句をやるということと、アルゼンチンで俳句をやるということの違いなのか、不思議です。

守屋さんが先ほどの論文の中で仰っていたことが的を射ているのかなと思います。つまり、移民社会の規模の違いというものがいわゆる日本語の「伝統」的な詩形式としての俳句への諦めに向かったのではないか。ブラジルは移民社会のコミュニティの規模が大きかったので、何とか日本語を残そう、延命しようという動きがありましたし、今もあります。でも崎原風子にとったらこんなに小さいコミュニティでは日本語は滅ぶに決まっているじゃないか、という感覚だったのではないか。守屋さんは、だからこそそんな日本語や日本語詩への哀愁というものをわざわざ書く必要はあまり感じないのだ、というようなことを書かれています。

小川同じラテンアメリカですが、違うのですね。ほかに南魚座でありますか。

中矢南魚座の中で自分が選んでいる句はなかったのですが、個人的なことになりますが、自分はラテンアメリカのポルトガル語を勉強していて佐藤念腹の名前とかは知っています。サンパウロの日系移民の方の自費出版みたいな本だと思うのですが、栗原章子著『俳句&ハイカイ~自然探訪~ HAIKU&HAICAI Descobrindo a Natureza』を頂きました。脱線してしまったので崎原風子の話をすると、「海程」の文脈で読んだり、アルゼンチン移民の文脈で読んだり、色々な視座があるなと思いました。どの作家にも言えますが、どれくらいバックボーンとつなげるかつなげないかという個人という視座で読むことも大事かなと。

小川Ⅱ章に行きます。原さんお願いします。

 《の勲章し青年のやわらかい未明》は、青年の胸のあたりに蛾が止まっていて、蛾の羽のビロードのような質感と模様の美しさは確かに勲章に通ずるなと。青年という存在にとっての勲章はただ一匹の蛾なのだと思うと、瑞々しくて美しい句だと感じました。

小川「やわらかい」という語は《みの虫満ちやわらかい「人類」という語》にも出てくるので傾向としてあるかもしれませんね。三世川さんお願いします。

三世川ツイスト終り河へ鮮明に靴ぬぐ母》は思いがけない新鮮感に惹かれました。景は抜きにして圧倒的に新鮮な感じ。大きな「河」に思いがけないものが対峙している存在感が新鮮で興味を惹かれました。《わたしと寝棺のまわりゆたかな等高線》は秋のような無音な陽光と空気感の中で、私と寝棺という存在があってその有機と無機の関係の中で、命と物の関係性が面白くて戴きました。

外山ツイスト終り河へ鮮明に靴ぬぐ母》は構図としてできすぎている感さえあります。「河へ」「母」が入っていくことへのイメージも想像しやすさ、また「ツイスト」という賑やかなものから「河」という静かなものへという動から静への移ろいを漂わせながら書いています。できすぎている感じもするが、それでもすごく訴えるものがあるなと。それは「ツイスト終わり」という時代感のある言葉のチョイスによるものなのかなという気がします。これが他の言葉であったら時代を背負うことがなかった分、普遍性は得たかもしれないが、陳腐なものになったのかなという気がします。

「寝棺」の章全体についていうと風土以上に貧しさみたいなものがあるなと思いました。これが書かれた頃には日本ではもう失われつつあった社会の貧しさみたいなものが時間的に少し遅れて書かれているような。これが書かれた頃、日本社会は、たとえば林田紀音夫がもう書きたいことを書けるような時代ではなくなりつつありました。でもアルゼンチンにはそういった社会は全然残っていて、という。危機を感じつつあったはずの林田紀音夫とかはこうした作品をどう見ていたのかなと思います。

安里寝棺で私がいただいたのは《わたしと寝棺のまわりゆたかな等高線》です。風子が第二回海程の新人賞を獲ったときの句群に入っていると思うんですけれど、確か「ツイスト」が一句目で、「わたしと寝棺」が二句目だったと思います。「等高線」という地図に書かれるものがすごく広がりを持って空間に印刷されているというか、「私」と「寝棺」が向き合っている。その周りに等高線が広がっているという、その広がり自体がなにか豊かなふくらみのあるイメージ。他の句で鬱々とした死や弔いのモチーフも見られますが、この句の豊かなふくらみのイメージはそれらの句と少し違った求心的なところがあるかなと思いました。

それで寝棺全体についてなんですけれども、さっき南魚座を読んだときに思ったのですが、大塚さんも指摘されたように書き方が変わってきている感じがして、南魚座の全てがそうだとは言いませんけども動詞にフックがある句が結構見られたかなあというのに対して、寝棺はすごく名詞の使い方にフックがある印象がありました。動詞より意味の働きが強いように思う名詞が、連なりの中で寧ろ意味を攪乱させているような気がして、作り方として面白いなと思いました。

寺井「ゆたかな等高線」という言葉の意味があんまりよくわからないんですけれど、「等高線」は地形図で見るとその高低差が非常に激しいところはたくさん線が入る。それでなだらかな場合はあんまり線が入らないってことになると思うんですけど、「豊かな」という言葉がちょっと微妙で「等高線」がたくさん入っているということなのかなだらかなのかということでだいぶ想像するイメージが変わると思うのでどっちなんだろうと思います。けれどそれは揺れがあるままでいいのかなと。読者に想像させるということでいいようにも思います。はっきりとしたイメージは結ばなかったんですけれど面白くて取ったという次第です。具体的にどういうイメージなのか皆さんに伺えたらと思います。以上です。

小川寝棺の章全体についてはいかがですか。

寺井「南魚座」より僕は面白いと思いましたね。Ⅲ章の方に入っちゃうと結構もうお手上げという感じですが、Ⅱ章ならまだ分かる。僕は俳句、特に前衛俳句はあまり読んでいないのですが、寺山修司が俳句を作っていた頃の、言い方は難しいですが暗いイメージを「寝棺」全体に感じて面白かったです。

小川Ⅱ章は、全体として安定しているので読んでいて充足感があります。《ツイスト終り河へ鮮明に靴ぬぐ母》は「鮮明に」と言っている割には色が見えない。靴の色のみならず、母や河の色も消し込まれているように私は感じました。視点が屈折しぶれることで、乾いた透明な空気だけが読者にふれて来るような。「鮮明に靴ぬぐ」ってどういうことなの、と言うより言葉が言葉を追って出て来るような。意味で読ませるのではないと思っています。「終り」「脱ぐ」ことで着地点には気配しか残らない。ツイストは、この時期の「海程」にモチーフとして多く出てきます。

わたしと寝棺のまわりゆたかな等高線》はあえて山や盆地などではなく「等高線」で世界を表す。死者や棺の様子をあらわにするのではなくて、図中にそれらを置いて、距離感を出す。色がなくて線描だけがあるという景色のなかにも関わらず情感が漂う奥深い作品だなと思います。

大塚僕はやはり寝棺がイメージとしても抒情としても個人的には完成度が一番高いのかなと。Ⅰ章、Ⅱ章、Ⅲ章というなかで色々実験をして最後また抒情が入ってくるというのが、富澤赤黄男みたいな感じだなと思います。近いものを感じながら読んだという感じです。

寺井さんが言っていた寺山修司っぽいという読みには、なるほどなと思いました。寺山の第一句集の『花粉航海』を見ていると、花嫁や母や婚姻といったラテンアメリカ的モチーフの匂いはあるなと思っていて寺山の生まれ故郷の日本的なものと表裏一体でありながら逆説的に詠みこまれている感じがあると思うんですけど、素材としては崎原風子も近いものがあるなと思いました。

崎原風子の場合は裏返しというよりは割と一種の「季語的」なキーワードとして用いているなと思いました。さっきのブラジル移民の俳句の話にあったと思うんですけど、有季定型の求心力である歳時記という存在が薄いと思う。例えばアルゼンチンは俳句人口や立地の問題があって、作者も読者も季語に頼ることができない。したがって、その点では句に明確な中心があまりなく、むしろ焦点が複数ある感じかなと思ったんですよね。その中にあっては〈わたしと寝棺のまわりゆたかな等高線〉、これは割と身体性というところにかなり中心が定まっている句なのかなと。「ゆたかな等高線」はなだらかでふくよかな地形的なふくらみ。そして私と、寝棺の中の亡くなった人の身体的起伏と重なりあってくるのかなと思っていて、素直に身体性で読めるかなと思います。

ぬくい挨拶ながれ娼婦のおびただしい箱〉、これは箱に収斂していくという感じですかね。〈あの手術台ときどき水から白鳥かえり〉、最終的に白鳥という中心のイメージに回収されていくと思います。僕はあまり取らなかったのですが、〈マネキン置場暗部へつながる家畜の眼差し〉、こういうのは焦点が複数ある感じ。〈ぼく等の生殖午前のビニールの薄い空間〉、明確な中心が設定されていない感じ。その揺らぎがこのⅡ章の句づくりの中では明確に燻ってきているのかなと思いました。南魚座の方はひとつ中心がすっきりとある感じの句が多いという印象です。寝棺のあたりから焦点が二つ三つあって楕円を書く感じなのかなと。感覚的な話になりましたが以上です。

中矢さっき(大塚)凱さんが歳時記の話をされていたと思うんですけど、ブラジルでの季語を集めた歳時記はあります。佐藤牛童子が編者だったかな。俳句文学館にあって、歳時記のついでにブラジルの風習も紹介するというような。

あっち(リオデジャネイロに三週間)に行ってみて、日本の歳時記じゃたちうちできないなというか強い気候みたいなものは感じました。現地で句を作るときに季語が抜け落ちる感覚は何となくわかります。季語が抜け落ちたものを「俳句」と呼ぶかは分からないんですが、季語以外の情報がたくさんあるというような。これは海外に旅行したときに周りにたくさんの情報があるという感覚は分かってもらえるかなと思います。

今回の寝棺もそうですが、私以外の存在が非常に多いなと。外界から言葉を取り入れてきている感じがすごくあって、言葉がごつごつしている感じがありました。《鳥性の少年稲妻に義手見せて》、これは二つ隣の《人造林で姉妹しろい義手を持ち》と関係があるのかなと。要素が多いわりにまとまっているなと思いました。少年が丘の上にたって稲妻の空に義手を伸ばしているというような、神話に出てくるような感じで印象深く取りました。《神父と風船つぎつぎと季節労働者たち》、ここの「季節労働者」が何を指すかは取りきれていないのですが、農家の繁忙期に一定期間来る人たちかなと思っているのですが、「神父」と「風船」と「季節労働者」はそれぞれ異なるものですが並列させると合うなと思いました。《あの手術台ときとぎ水から白鳥かえり》、真っ白な手術台と強い光からイメージが転換されていくのが面白かったです。どれくらいモチーフに引っ張られないで読めるかというところでした。持っていかれそうになってしまって。それもまた面白いなという感じでした。

石川まず、今までの話の感想になるのですが、寺井さんと大塚さんが寺山との比較のお話をされていたのが興味深かったです。恣意的な読み方になるかもしれませんが、崎原風子の《修道院でマッチ擦るたび明るい絵葉書》と寺山の《マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや》を比較すると、二人の違いがはっきりわかると思いました。大塚さんがおっしゃっていた寺山の故郷の話…なんでしたっけ。

大塚イメージにおける花車などの祝祭日なイメージと、それとはかけ離れたものとして故郷をすり替えるような、逆説的な感じがしています。

石川分かります。寺山の場合、故郷への湿った感情と明るいポエジーが裏表に張り付いているようなところがあって、「マッチ擦る」の短歌でも、「マッチ擦る」という一瞬の明るいイメージが「身捨つるほどの祖国はありや」という重たくてウェットな祖国への思いにつながってくる。

一方《修道院でマッチ擦るたび明るい絵葉書》は、故郷へのウエットな思いみたいなところに全然つながっていかない。Ⅰ章のところでも言いましたが、自分のアイデンティティをどう語るかよりも、その飛び込んだ場所をどう描くかという点に目がまっすぐ向いているところに、この人の特性があるように思いました。句の感触が、ガルシア=マルケスの小説を日本語で読んでいるときに近いんですよね。日本人としてのアイデンティティに縛られていないから、翻訳文学を読んでいるような気分になるのかなと思います。

わたしと寝棺のまわりゆたかな等高》の句について寺井さんが読み方を迷うという話をされていて、私も解釈に迷いました。直感的には「わたしと寝棺」が高いところにある、つまり「等高線」が密集していて、それが「ゆたかな等高線」という言葉になっていると取りました。「寝棺」をどのように捉えるかにもよると思うんですけど、死を悲しいものとして描くのではなく、ただ「等高線」によって他と隔てられていると書いている。

ただ、「寝棺」だけが線の向こう側にあるのではなく、「わたし」も「寝棺」側にいるところがオリジナルだと思いました。「寝棺」の中の人が誰なのかは全く書いていないけれども、「わたし」が「寝棺」側に飛び込んでいくことで、死、あるいは死んだ人への心理的な近さを感じさせます。句集では、ここで初めて「わたし」という言葉が出てくるんですよね。

それから、《婚礼車あとから透明なそれらの箱》。事前に見せていただいた資料でも評されていた句ですけど、これも不思議な句で、「それらの」の「それ」が何なのかは書いていない。実際に箱があるという読みをされていた方もいたと思うんですけど、私は、この箱は見えない箱なんじゃないかと思いました。実際の生活用品とかだけでなく、「婚礼」という儀式が引き連れてくる、両家の歴史やしきたりなどが、透明な箱にぎっしり詰まっているんだよ、と。「それら」という語が曖昧に置かれているのは、わざとなのだろうと思います。私がⅡ章で選んだ句は以上です。

あと「ツイスト」の句はいい句だなと直感的に思うのですが、これも句意をどう取るのかが分からなかったんです。一応私の読みだと、「ツイスト終り河へ」で一旦切れて、河を見たときに、昔、河で靴を脱いでいた「母」が「鮮明に」フラッシュバックしたのかなと思いました。「河へ」は上と下両方にかかっていると取ったのですが、先ほど楓子さんは「鮮明に」が消えていくと仰っていたので、読み方がちょっと違うのかなと。

小川私は「ツイスト終り」で一度切れる感じで読みました。ちょっと時空が変わって「鮮明に靴ぬぐ母」が別にあるという。

石川それだと「鮮明に」の「に」の置き方に違和感があるかなと。

小川そうですね。狙って「に」を置くことで焦点を拡散しているという印象です。

石川私はもっと散文的に読んでしまって、「鮮明に靴ぬぐ母の姿が思い浮かんだ」ということかと思ったんです。でも、どちらの読みでもあまりイメージは変わらないのかな。「靴ぬぐ母」が今目の前に見えている訳ではないというところは同じですよね。他の句についても、頭に浮かぶイメージは同じでも、細かい点では読みが分かれる気がしたので、いわゆる句意を他の方にも伺いたいなと思ったんです。私が前衛俳句を読み慣れていないせいかもしれませんが。

小川外山さんは「ツイスト」の句をどのように読みましたか。

外山「鮮明に靴ぬぐ母」は靴を脱ぐと言う動作を修飾しているのが「鮮明に」という言葉なのかなと思ったんですよね。寝棺も他のもそうだと思うのですが、寝棺の二つ目の《蛾の勲章し青年のやわらかい未明》の「やわらかい」だったり、《霊柩車やわらか磨かれる落葉期》だったり、修飾する語句をかなりねじって使っていると思うんですよね。恐らくこの時代の特に前衛的な俳句の中で行われていた印象があるんですけどその一種でこれは別に「鮮明に靴ぬぐ」なのだろうと思いました。何故「鮮明に」かというと靴を脱ぐという動作を目に焼き付けるような形で言いたかったのかなと思います。そんな感じです。

石川なるほど。

柳元色んな方が仰ったように南魚座よりは寝棺の方が取りやすい句が多いと思います。ある程度現代とパラダイムが共通している感じがあるからでしょうか。安里さんが南魚座は動詞で押しているとおっしゃっていましたけど、それは僕も思うところです。南魚座の動詞のがちゃっとした感じの修飾の仕方は社会性俳句の文体や飯田龍太の第一句集『百戸の谿』や森澄雄の第一句集『雪礫』を見ていても思うことですが、同時代的に動詞ががちゃついていたみたいなところはあるのでしょうか。今はその読み方って忘れ去られているというか、かなり読みにくいものとして片づけがちな気がします。今前衛として参照されがちな阿部完市にしても動詞でがちゃついた前衛というよりはそれこそ名詞であったり形容詞であったり韻律であったりににウェイトが置かれた前衛の方が今となっては読みやすいのかなみたいなことも思います。

雨後の屋上蒸発したい猫がふえる》という句を取ったのですが、石川さんもご指摘なさっていた通り僕もラテンアメリカ文学のガルシア・マルケスとかバルガス・リョサを思いました。血のつながった濃い共同体の婚礼などの儀式が行われる中で見えていく景色の中で書かれていく句がすごく土着的です。景色を通して日本的なものを顧みるような望郷の念につながるものではなくて、土着の物を書き留めようとする。その中でも《雨後の屋上蒸発したい猫がふえる》が景も見やすいしいいなと思いました。雨上がりの屋上と町並みも見える訳です。雨後のカンカン照りのアルゼンチンの太陽。太陽については先行する評論にもありましたけど、アルゼンチンの風景みたいなものを思いました。「蒸発したい猫」というと安易に失踪のイメージを思うんですけど「雨後」という言葉があることによって本当に液体が気化するような感じのそのイメージもギリギリ引き留めてくれている。

他には僕《乳バンド売る老人等絶えずラクダ蒸発》、これも「蒸発」という言葉が入っています。「乳バンド」って調べたらブラジャーのことで、大正末期ぐらいに日本が輸入したのですがブラジャーという語だと何を指すかわからないから「乳バンド」という語に置き換えたらしいです。戦後もその語が使われているところも含めて非常に移民文学らしい名詞で生活に根ざした語彙であるという意味でいいなと思いました。「ラクダ蒸発」…、なんで動物がすぐ蒸発するのかみたいなところはちょっと僕も分からないですけど、この句においてはその老人の身体の皮膚が垂れている感じと、「ラクダ」の皮膚も重力に負けて垂れさがっている感じがあってそういうのが重ね合わせられているのかなあと。

小川「蒸発」って当時の「海程」の句でよく見るんですよね。色々なものが蒸発するなあというのを思い出しました。

私も《雨後の屋上蒸発したい猫がふえる》を取ったのですが、文法的に捻ったところはないのにじわじわと怖い句だなと思いました。猫の蒸発したさや、その数の増減まで感じ取れてしまうのは異様な感覚で、それはこの人自身も蒸発したいからではないかなと。「雨後」はどちらかというと生命力が強まる時間帯だと思いますが、そこから逆に蒸発という消えていくような感覚を得ているのが恐ろしいなと感じました。

それ以外の句では、《森に皿みがかれ獣に透明な季節》《あの手術台ときどき水から白鳥かえり》を取っています。冒頭の方で外山さんが有機物と無機物の話をされていて、そこでおっしゃっていた内容とは少しずれてしまうかもしれませんが、どちらの句も、有機物と無機物の組み合わせが魅力になっているように感じました。《森に皿みがかれ》は、「獣」や「森」といった生命=有機物と「皿」という陶器=無機物が組み合わせられていて、白くてツルツルした陶器が突然現れる異物感が面白いなと思っています。《あの手術台》は、「白鳥」と「手術台」という死に近いもの、銀の手術器具のような冷たい無機物が組み合わせられている。

有機と無機については、原満三寿さんの評論に引用されていた崎原風子の言葉を読むと、崎原風子は「有機的」という言葉を「意味的」というニュアンスで使っているように思いました。Ⅲ章の句では、意味のある言葉を「有機」、意味を結ばない単なる音の並びのような言葉を「無機」と捉えて、「有機物と無機物の組み合わせ」を試みているのかなと思ったのですが、Ⅱ章の場合はモチーフのレベルで、有機的なものの中に無機的なものを挿入することで生まれる異物感を狙っているのかな、などと思いながら読んでいました。

小川ありがとうございます。平岡さんいかがでしょうか。

平岡平岡です。普段は短歌をつくっています。よろしくお願いします。今せっかくⅡ章の話だったのでⅡ章のことから話しますね。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ章どれにも言えることだと思うんですけど、テーマがはっきりしているなということをまず感じます。モチーフに特徴があって、胎児や嬰児、あるいは逆に老人や肉、そういうモチーフが繰り返し出てくるんですが、身体、生殖に対する嫌悪感や忌避感みたいなものが強く表れているのかなと思います。そして、そこにも関係すると思うんですけど、未分化な存在だとか、不完全な身体に心を寄せていく感じもあるのかなと思っています。義手とかもけっこう出てきますね。

わたしはⅡ章から二つ選んでいるんですけど、まず一つ目は《搾乳場で少年白い風景盗む》、「搾乳場」と「少年」というのは意味ありげな組み合わせで、「少年」と組み合わせられるとき、「搾乳場」からは授乳と精通の二つを連想する気がするんですよね。「少年」を、少年以前の時間、少年以後の時間の両側に引っ張るというか。その磁場のなかで「白い風景」と言われると、生まれる前でもあり、死後でもあるような「白い風景」のなかにぱっと投げ出されるような感じがして、イノセントな存在である「少年」をこのまま凍結させるような力がこの句にはあると思います。そういった象徴性が読みとれると同時にこの句はもっと単純に実景の言い換えとして取ることもできて、「白い風景盗む」というのもたとえば「お腹が空いたから牛乳を盗んだ」ということかもしれないし、あるいは「搾乳場の風景をつよく心に焼きつけた」というようなことかもしれないし、そういう普通の実景としても取れるんですよね。さっきⅠ章のときに石川美南さんが《納骨堂(パンテオン)口をひらけばみな独語》について「実景としても隠喩としても機能する句」とおっしゃっていましたが、その感じの発展形かなという風にも思います。

もう一句取ったのが《産院裏父ら縞馬と茂りあい》という句で、これは滑稽なユーモアがありつつ、内容としては正に今「産院」で起こっていることへの呪いだと思うんですよね。「産院」つまり出産の裏側で、出産には関わらない「父ら」が生殖とは切り離されるように動物と交わらせられる。しかも「茂りあい」と、なんとなく植物性の方向にまとまっているところもおもしろいなと思って。この句は韻律にも特徴がありますね。「い」音の縦縞みたいで、どことなく内容と合っている。Ⅱ章はそんな感じのテーマを読みました。それで、先ほどから何人かの方がⅡ章が完成度が一番高いということをおっしゃっていて、それはもちろんそうは言えると思うんですけど、なんかそれもどうかという気持ちがわたしはあって。

Ⅰ章からⅢ章にかけて、おもしろさは確実に右肩上がりなんだけど、取れる句と取れない句の差はどんどん大きくなっていって、まとまりとしては右肩下がりなんですよね。上がっていくおもしろさと下がっていくまとまりの交差する場所がⅡ章にあるとしたら、バランス的にいちばんちょうどいいということにはなると思うんですが、それを完成度が高いと評価していいのか。

大塚さんがさきほど一句ごとの話として「中心が複数ある」ということをおっしゃっていて、それはすごくそうだと思うんですけど、一句単位だけではなくて作家性も中心が複数ある感じがして。ひとつの基準を軸にどのくらい達成されているかとか、劣化しているかとか、そういう判断をするのはちょっと難しいかなという気がするんですよね。

Ⅰ章の〈南魚座〉もとてもよくて、ほかの皆さんもおっしゃってましたけどⅠ章の感じで一冊まるごと構成されていてもぜんぜん読めるなーと思います。とくに好きだった句は《夏の月の体臭吐ける老朽船》、《向日葵群れ焦点のない焦りくる》、《ぶどう掌にアンデスの夜かわきくるか》、《六月の夕焼濡れた水夫のように》など、どれもすごくイメージが綺麗で。後からおもしろい句がどんどん出てくるから、それならこのへんのボールは見送るかなーという気持ちになってしまってⅠ章からは取らなかったんですけど、ふつうにⅠ章もすごくおもしろかったです。

黒岩Ⅰ章との比較のことは今回の読書会のキーポイントになってくるのかなと思います。一句における展開を読むことはあるんですけど、「中心が複数ある」とか「ごつごつしている」という特徴は一句において違う時空が現れることで起こりやすいのかなと思います。そういう句が南魚座より増えてくる。

森に皿みがかれ獣に透明な季節》、「季節」という風にまとめてしまうような言葉を使うように見えて、それが「透明」である。「皿」という質感のあるものから「獣」の存在性が薄れていくというなんか静かな裏切りみたいなものを感じます。《匙から匙へ未明薄められる嬰児》、命に関わるものを必ずしも肯定的な目線で見ていない。具体的な「匙」から始まっているのは分かるようで分からない感じがありますね。何か象徴的な記号を使っているのかなと思いながら、それが「嬰児」が「薄められ」ていく様子に変わっていく。「匙」が複数であるかのようにも感じられる。曖昧な微妙さも伝えられてるんじゃないかなと思います。 《船・男等ねむらせて午後は多毛へ》の「多毛」という言葉の唐突感には、太陽の照り返しを思ってもいいかもしれないし、驚きがかなりあるかなと。あとは「船」と「男等」を対置させ等価として扱っているのもかなり興味深いです。

挙げられていない話の中では、アルゼンチンは現代でも7割以上がカトリック教徒であるということから、宗教的な素材やモチーフを使っていることをこの中でどう捉えるかってのは結構大事なんじゃないかなと思います。石川さんが仰っていた風土をどのような立ち位置で捉えるかということにはかなり関わってくるのではないかなと。ただ敬虔なカトリック信者であるような態度を見せた句もないような気がしていて。そういう宗教的な要素を取り入れつつ、生や死をあまりえぐりとるような生々しさではない形で書こうとしていることに興味深い点がかなりありましたね。《修道院でマッチ擦るたび明るい絵葉書》の「修道院」っていうのは舞台設定として「絵葉書」に飛ぶためのジャンプ台として使われてる感じがありました。

小川崎原風子がカトリックであったかは、不明ですが「妻が子に洗礼を受けさせたいと言う」と言う話は事前資料に書いてあったし、影響は受けていたと思います。生活の中にあったのは間違いないだろうなと。また、南米のカトリックは日本のカトリックとは違うんだろうなと言う気もします。その辺りは、これから調べていきたいです。安里さん、ここまでを通していかがですか。

安里寺山の話で聞いていて自分の中にはなかった観点だったのでなるほどなぁと驚きました。さっき柳元さんも言及していたのですけれど、動詞や名詞の変容の辺りに、無論、社会性俳句や前衛俳句の影響だけではないでしょうけれども、その他の作家の書き方みたいなものを何か摂取したのかなと、私はなんとなく印象していたので、寺山という角度はなるほどそういうところに行きつくのは面白いなと頷いた次第でした。

他の作家の書き方に関連してⅢ章をつまみ食いしてしまう感じもあるんですが、西東三鬼の印象もちょっとあるかなという気持ちもあって、というのは《8月もっとはるかな8へ卵生ヒロシマ》とかは、三鬼の《広島や卵食ふ時口ひらく》、この句は戦後2年ぐらい経って発表されたかと思うのですが、このように先行する句と関わって風子自体がイメージを具体化して表現しているのかなという風に思いました。

それと、Ⅱ章を完成度で考えたとき「作品の完成度」にどういう視座を用意するかによるとも感じますけれども、後半の方がより挑戦的な方法に向かっていく感じがあるというか、南魚座からもっとはるかな8へまで、本当に章を追うごとに、結構書き方が変わっていく。そしてまた変わり方がどんどん挑戦的かつ心象的になって音とかに向かって行っている感じがかなり興味深いです。

後篇につづく

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