【空へゆく階段】№39
「ゆう」の言葉
田中裕明
「ゆう」2000年5月号
料峭や見舞ひて齢高き人 満喜子
春になってからまだ寒いこと、とくに春風を寒く感じることを料峭と言います。歳時記では春寒の傍題となっています。唐の詩にもある言葉ですが、俳句で生かすのは難しいかもしれません。この句はあえてそれに挑戦しています。いままで自分の使ったことのない季語の本意を確かにつかむことが大切です。
古の土に触る根も朧の夜 麻
ものをよく見て俳句を作ることが基本です。適格なデッサンを身につける努力が、まだまだ私たちには必要でしょう。その上で、はじめて右のような作品にも取組んでみたいもの。大木が深く地中に張った根に思いをはせるというのも、朧という季語の一側面。散文で説明できないところに詩があります。
貝寄風に向かひて大地鋤き返す 昭男
季語の発見というテーマの中には、今まで敬遠してきた季語の見直しということも含まれています。私個人にとっては、貝寄風は草田男の一句があるために取付きにくい季語です。作者は「大地鋤き返す」という能動的な措辞で季語を発見しました。季語そのものを新しくするという働きがあります。
畦焼の煙私塾に滞る 明澄
この作品の眼目は私塾という言葉でしょう。そしてそれはいまの現実の景色、畦焼の煙とも強く結びついているのです。
私塾で学ぶ志士の卵が顔を出すような、そういう想像をさそう面白さがあります。
板東は梅の盛りの西行忌 尚毅
忌日の季語についても、いままで偏狭にすぎたように思います。もちろんむやみに濫用しないということは気をつけないといけません。しかし、より深い気持で俳句を作ってゆくには忌日の季語をよく理解することも必要でしょう。右の作は板東という言葉が、板東武士も連想させてたくみです。
寒明や赤くおとろふ犬の爪 敦子
長く飼われてきた老犬の表情が読者の心象に浮かびます。あるいはその犬のすがた自体が回想の風景なのかもしれません。
その犬の爪が赤いということが、春をむかえた万物の中で強く印象に残ります。
淡雪をへだて札所を目の前に 刀根夫
この作者の十年以上前の作品に「中腹の雪の札所を目指しけり」があります。一読これを思い出しました。
「淡雪をへだて」に年輪を感じます。
雨雲の中に城あり猫柳 やよい
低く垂れこめた雨雲に天守閣がかくれているかのよう。城の大きさがよくわかります。猫柳の細かい毛に雨粒がきらきらと光っているのも、春先らしい情趣が感じられます。
風花や喪の帯解きてすぐ冷ゆる 洋
俳句は説明してしまうと詩情が失せます。この句の場合、風花と喪服の帯とのかかわりあいについて何も言っていませんが、読者にはよく伝わってきます。
できるだけ鍛えられた言葉で一句をなすこと。それを言葉を惜しむと言います。
奔放に生くるも一つ野火走る 石火
俳句で胸の思いを述べることはできないかというと、そうではないでしょう。ただ、ナマな感情というのは類型的なものです。おさえておさえて出てきたところに真実があるように思います。でも精神衛生上、そういう句を作っても悪くはないでしょう。俳句として成功するかどうかは別ですが。
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