成分表81 定義
上田信治
大きな言葉の定義を考えるのが、趣味。
ウィトゲンシュタインが「哲学的な命題の多くは、言語の現実の使用についての誤解によるものだ」というようなことを言っているときいて、言葉の使用について見極めることが問題解決になるなら、ウィトゲンさんが簡単すぎるといって解かなかったパズルを、アマチュアとして楽しむこともできるかもしれない、と思ったのだ。
たとえば「愛」とはなにか。とか。
それは、いわゆる「車輪の再発明」「ピタゴラスの定理の再発見」のような、典型的な、かわいそうなアマチュアの仕事かもしれない。
(既に、各分野の研究者や辞書の編纂者が綿密にやられていることであり)(しかも、ウィトさんが言っていることは、そういうことではなかったらしい)
だから、自分なりの「愛」の定義ができたときは、うれしかった。
その後も、いろいろ考えている。
「恋」の定義なら簡単で、それは「自分が、その人の性的対象としてふさわしい、と知りたい」ということだ。
ほんとうは「その人に性的対象として認められたい」なのだけれど、相手の気持ちが目に入らない恋もあるので、この言い方になった。
〈かなかなや師弟の道も恋に似る〉(瀧 春一)は、そのまんまである。
「仕事」の定義は「託された役割」だ。
人類史のほとんどの場面において、人は共同体の機能の一部を分割されて(それが「役割」)託されてきたので「仕事」とは「分業」であるともいえる。
ロビンソン・クルーソーの無人島での営みに「仕事」という言葉を当てにくいのは、彼には自分自身しか、発注者がいないからだ。
もしロビンソン・クルーソーが、朝起きて「仕事をしよう」と思ったなら、彼は自分の生存のための work を、自分が託されているという体(てい)で日々を過ごしているということだろう。
一人暮らしの人の家事も、犬の散歩も、その人しかやる人のいない「託された役割」である。
地球最後の人に「仕事」があるとしたら、それは人類という種から託された、という体(てい)で、営まれることだろう。
さて。
今日、考えているのは「カッコいい」とは何かということだ。
「カッコいい」は「美」の一種で下位概念なので、それが、どういう種類の「美」であるかを言えれば「定義」になる。
たとえば「モナリザ」はあらゆる意味で卓越しているけれど「カッコいい」とは言えない。
そこで「カッコいい」ものの例をいくつか挙げ、それらには共通してあって「モナリザ」にないものが見つかれば、それは「カッコいい」という語の使用範囲を確定したと言える。
「モナリザ」になくて「ポルシェ」にあるもの、「モナリザ」になくて「嵐」(あなたがカッコいいと思うアイドルを代入してください)にあるもの、「モナリザ」になくて「花田清輝」(あなたがカッコいいと思う個人を代入してください)にあるものは何か。
「モナリザ」になくて「疾走するチーター」にあるもの、「モナリザ」になくて「チェンソーマン」にあるもの、「モナリザ」になくて「見事に縫われた背広」にあるもの、「モナリザ」になくて「新しい感覚で装丁された本」にあるものは何か。
あ、これ、ナルシズムの投影か。
投影がむずかしそうな相手(女性→男性とか)を「カッコいい」と思う場合は、対象にナルシスティックなものを見出して移入が起こっている、たぶん。
定義:「カッコいい」とは、ナルシズムの投影、または移入をともなう「美しい」である。
「美しい」の定義については、すごくいいのが出来てるので、また、いつか。
0 comments:
コメントを投稿