【週俳12月・1月の俳句を読む】
選と論
吉川わる
水鳥へメガネケースのかぱと鳴る 藤田俊
硬質のメガネケースなのでしょう、筆者も使っていますが、電車で閉じると向かいの人が反応します。持ち主の意に反してメガネケースは鳴ってしまうのです。掲句も「鳴らす」ではなく、「鳴る」という自動詞になっていますから、メガネケースが勝手にやったことだということになります。遠く日本に渡ってきた水鳥へ暗号を送ったのだとすれば、密かに何かが進行しているに違いありません。
すそ広のズボン両手でもつミカン 藤田俊
掲句は中七の途中で切れて、対句になっています。上の句(適切な表現ではないかも知れませんが)はすそが広がるので拡散、下の句はミカンを両手で包むので凝縮です。だから何なのかという言われると困るのですが、五七五の定型に放り込むと両者が宇宙の成り立ちに関係しているようで不思議です。
螺子工場歯車工場石蕗の花 箱森裕美
音数からいって「こうば」と読むのでしょう。「歯車の一つ」といったら肯定的な意味になりませんが、螺子工場と歯車工場が隣り合っていて、昼休みになると工場対抗バドミントン大会などやっていそうです。工場と工場の間には黄色い石蕗の花。
実際に作者が見たのは人気のない建物と古びた看板なのかも知れませんが。
毛布くるまり海底となるこころ 箱森裕美
鮃は斑な砂の色に変わって海底に擬態し、小魚の来るのをじっと待ちます。掲句も毛布にくるまって海底に擬態しているのですが、見つけてくれてもいいんだよと言っているようにも思えます。
雪いろの冬毛のじかんみじかいね 木田智美
地域差はあるものの、夏毛と冬毛の期間はそんなに違わない訳ですから、「みじかい」のは「雪いろ」をしている「じかん」ということになります。では、作者はそれをどう思っているのでしょうか。雪の上の足跡が途切れてしまったようで、後には謎が残ります。
鑑賞は、作者の言葉に耳を澄ませて、作者の見たものを再生する行為だと考えます。といっても十七音の言葉に過ぎませんから、作者と同じものが見えてくるとは限りませんし、他の鑑賞者とも一致しないでしょう。むしろ、言うことがみな同じだったら、つまらないと思います。
句会では、選句が終ったら講評に備えて選んだ理由を整理しますが、説明に窮する句が現れたりしないでしょうか。そこで思うのは、選と鑑賞は別なのではないかということです。時間の限られている選句ではほぼ直感で○を付けているのであり、理由という論理的なものは後から付け加えられているのです。
では、鑑賞という行為が無駄なのかというとそんなことはありません。優れた鑑賞を読んだり、書いたりすれば、作句の上達に繋がりますし、選句にも何らかの影響を与えるでしょう。ただ、新しい俳句は論を超えたところから生まれてくるのではないか、そんなことを漠然と考えています。
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