【週俳12月・1月の俳句を読む】
時間と空間と
青木ともじ
年が明けてもコロナ禍は失せず、物理的な生活範囲がかつてよりも確実に狭まっていることを感じる今日この頃である。句作も必然的に限られた場所で行いがちだが、俳句の便利なところはそこら辺の感覚をいい感じに句の上で操れるところである。
映るまで冬日にひたるディスプレイ 藤田俊
パソコンかテレビか、電源を入れてから映るまでのわずかの時間を切り取った句。ディスプレイという極めて無機質な素材に対して温かみを感じさせる詠みぶりである。「ひたる」という表現が水を想起させるためか、その漆黒が深い湖の水面のようにも思え、ディスプレイにとこしえの奥行きを感じる。さらには漆黒とそこへ差し込む陽射しを意識する時間はわずかであり、大げさに言えばかすかな神聖さまで思うのである。俗人的な視点で読めば、かつてのブラウン管テレビを思い出したりもする。電源を入れてから時間もかかるし、表面は静電気でピリピリするし、奥行きも本当にある。しかしこの句はイマドキの真っ黒な薄型ディスプレイだからこそ感じる情緒であろうし、シンプルな描写から時間的にも空間的にも広がりを感じさせる秀句である。
定位置に靴べら挿され神無月 藤田俊
一方、こちらの句は空間を「定位置」に集約させることで魅力を出せている句である。私は靴べらを普段使わないので実感はないが、「定位置」というのは靴べら立てのことだろう。「定位置」という構造的な把握の仕方が靴べらや靴べら立て、その周辺の居住空間を少し引いた幾何学的に把握させている。この句の良いところは季語の取り合わせである。実感の有無はともかく神無月といえば神の存在を意識せざるを得ない。そうしたときに単なる板切れである靴べらが神聖なモニュメントか何かのようにも思えてくる面白さがあるのである。そうすると靴べらが必ず「定位置」に収まることにも何か特別な意味があるように感じられてこないだろうか。
水鳥を指す利き腕の重たさよ 箱森裕美
水辺の公園などに誰かと来ているのだろう。水鳥が何か面白い動きをしたのか、相手に伝えようと指さすもののすぐに反応してくれなかったのかもしれない。その間、自分の腕の重さを意識した句。腕を「利き腕」と把握した点が面白い。指さしていた時間は実際には数秒だったのかもしれないが、この人は長く、重たく感じたのだろう。その時間が、いま持ち上げているこれは私の利き腕であるのかという把握に至らせたところに意外性がある。さらに述べ方として「重さ」でなく「重たさ」としたところも良い。「重たさ」としたほうがより主観性が増し、句の雰囲気にもあっている。
煮凝りの中に眠たき王都かな 箱森裕美
前句の主観性が物質的で一瞬のものであるのに対しこちらの句は空想的で悠久を感じる。煮凝りの中にある様々なものたちをまるで模型のごとく感じ、王都とまで言いきったところが魅力的である。煮凝りが海産物ベースであることも相まって、この王都は海底に沈んだアトランティスを彷彿とさせる。透明な煮凝りに封じ込められた魚介類が古代ギリシア風の遺跡のように見えるのはわからなくもない(しかもそう見えないものはそこにいる貝だとか思ってしまえば辻褄が合う)。だが、ここまで大げさなことを述べても許せるのは、句の纏うだらりとした時間の流れ故であり、実際には煮凝りを見つめている人の「眠た」さが効果的だろう。そういうところも踏まえると案外にバランスの取れた句なのである。
ふゆかもめ出航式はオンライン 木田智美
私は仕事柄よく船に乗るが、コロナ禍で船まわりの儀礼的な部分は簡略化されたり省略されたりするようになった。特にオンラインで式典関係を済ませることも増え、この句のようなことも各所で実際に行われていることだろう。この人はオンラインで観ている側であろうか、それとも目前に観衆が一人もいない式典会場でオンライン用の配信機器を設定しているのだろうか。私としては、冬鴎が目前にいると考えて後者だと読みたいところだ。いずれにせよ、オンラインで観ている人たちの空間と、式典が行われている場所がパラレルに存在しており、それらをつなぐ存在としての冬鴎は効果をあげている。きっとオンライン配信の画面の隅にもこの冬鴎は映っていることであろう。
スリッパもこもこ踵の透けて黒タイツ 木田智美
非常に生活感のある句でありながら良い意味でちぐはぐな印象を受ける句である。「スリッパもこもこ」などと脱力感のある表現をしておきながら、踵の部分が攣って薄く透けているディティールを詠んだりもしている。「水兵リーベ僕の船」的なリズムの良さもある。もこもこのスリッパと、人の足と、それらの境界としてあるタイツと、踵まわりの空間把握が可笑しい句である。
ここで挙げた句たちは、特別に面白い素材が並んでいたわけでないにも関わらず、捉え方次第で面白くなるものだと感じた作品たちだった。もうしばらく続くであろう自粛生活も、まだまだ楽しむ余地がありそうである。
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