2021-05-01

成分表 83 主観と客観 上田信治

成分表83
主観と客観

上田信治

(「里」2014/8より改稿転載)


うしろから人に声をかけられると、ビクッとする。

学生のころ、本屋で立ち読みをしていたら「上田さん」と名前を呼ばれてビクッとした。

自分はバイトのお使いの途中で、声をかけてきたのは同じバイトに来ていたサークルの後輩だった。読んでいたのは水着の女性なども載っている雑誌だったから、ビクッとする理由は十分にあった。

その時、自分は、どれくらいビクッとして見えたのだろう。

ビクッとするのは、その人の内分泌系である。アドレナリン的なものが出て、血管や筋肉を収縮させるのだ。

だとすれば、自分も傍目には、まったく動揺して見えなかったと考えられる。

しかし、自分で自分を外から見ることはできないので、本当のところ、どうだったかは分からない。防犯カメラでもあれば、それは映っていただろうけれど。

では、その時の自分を、再現フィルムのように、俳優に演じてもらったとしたらどうだろう。もし、自分役の俳優が、そこで肩をビクッとさせたら、すごく「そうじゃない感じ」になるのではないか。

その場面なら、何も芝居をせず、驚いていなかったのと同じように、ただぼんやりと反応するのがリアルな演技というもので、おそらくそれが実状にも近い。

そしてそのあと、たぶん何か微細な反応で「上田さん」はものすごく動揺しているとバレるのだ。

あるとき旅先で、自分が、広場のようなところの様子をビデオに撮っていたら、妻が「ちゃんと撮れてる?」と声をかけてきた。

その声の調子が咎めるように疑い深く、ひじょうに感じが悪かったので、自分は密かにムッとした。

そしてほとんど同時に、いま録画中だったビデオに、妻の「嫌な感じ」の言いかたが残ってしまったことに気づいた。あとでそれを聞いて彼女はどう思うだろう、せっかくいい景色のところだったのに、いまの場面は没かもしれないな、とも。

その夜ホテルで、撮った動画を一人で見返していた。

そして例の広場の場面になったのだが、景色にかぶさって聞こえた「ちゃんと撮れてる?」という妻の声は、まったく嫌な感じではなく、むしろ楽しげで「いい感じ」ですらあった。

自分は、いっしゅん何が起こったか分からなかった。

嫌な感じのほうの「ちゃんと撮れてる?」という声は、耳にまだはっきり残っているのに。そんなものは、この世のどこにもなかった。

たしかに聞こえた嫌な感じは、自分の感情の投影に過ぎなかったのだ。自分はたいへん恥じ入り反省したのだけれど、この話を妻にしたかどうかは憶えていない。

そういえばLINEやメールのやりとりで、感じの悪いことを言われたと思い、強めに反応してしまったあとで、相手の発言を読み返すと、そこまでのことは言われていなかった、ということも(一度ならず)あった。

今回、恥ずかしい話ばかり書いているのだけれど、もし、この世の全てにログやビデオが残っていたら、そういうことが、数限りなくあったと分かるのだろう。

『BEASTERS(ビースターズ)』(板垣巴留)は、肉食と草食の動物が入り交じって暮らす世界を描いた漫画だ。

(以下ネタバレ。気にする方は飛ばして読んでください)。



草食の級友を、はずみで食べてしまった肉食獣がいて、彼はそれを美しい友情の行為だったと記憶している。

読者は、まず食べた肉食獣の主観を通して事件を経験し、そのことを半ば信じたあとで、実際に起こったことは、そうではなかったと知らされる。

──そういう残酷で悲しいエピソードがあった。


(ネタバレ終わり)

自分は「そういうことってあるんだよなあ」と思った。

 

 くさめして我はふたりに分かれけり 阿部青鞋


0 comments: