成分表83
主観と客観
上田信治
(「里」2014/8より改稿転載)
うしろから人に声をかけられると、ビクッとする。
学生のころ、本屋で立ち読みをしていたら「上田さん」と名前を呼ばれてビクッとした。
自分はバイトのお使いの途中で、声をかけてきたのは同じバイトに来ていたサークルの後輩だった。読んでいたのは水着の女性なども載っている雑誌だったから、ビクッとする理由は十分にあった。
その時、自分は、どれくらいビクッとして見えたのだろう。
ビクッとするのは、その人の内分泌系である。アドレナリン的なものが出て、血管や筋肉を収縮させるのだ。
だとすれば、自分も傍目には、まったく動揺して見えなかったと考えられる。
しかし、自分で自分を外から見ることはできないので、本当のところ、どうだったかは分からない。防犯カメラでもあれば、それは映っていただろうけれど。
では、その時の自分を、再現フィルムのように、俳優に演じてもらったとしたらどうだろう。もし、自分役の俳優が、そこで肩をビクッとさせたら、すごく「そうじゃない感じ」になるのではないか。
その場面なら、何も芝居をせず、驚いていなかったのと同じように、ただぼんやりと反応するのがリアルな演技というもので、おそらくそれが実状にも近い。
そしてそのあと、たぶん何か微細な反応で「上田さん」はものすごく動揺しているとバレるのだ。
あるとき旅先で、自分が、広場のようなところの様子をビデオに撮っていたら、妻が「ちゃんと撮れてる?」と声をかけてきた。
その声の調子が咎めるように疑い深く、ひじょうに感じが悪かったので、自分は密かにムッとした。
そしてほとんど同時に、いま録画中だったビデオに、妻の「嫌な感じ」の言いかたが残ってしまったことに気づいた。あとでそれを聞いて彼女はどう思うだろう、せっかくいい景色のところだったのに、いまの場面は没かもしれないな、とも。
その夜ホテルで、撮った動画を一人で見返していた。
そして例の広場の場面になったのだが、景色にかぶさって聞こえた「ちゃんと撮れてる?」という妻の声は、まったく嫌な感じではなく、むしろ楽しげで「いい感じ」ですらあった。
自分は、いっしゅん何が起こったか分からなかった。
嫌な感じのほうの「ちゃんと撮れてる?」という声は、耳にまだはっきり残っているのに。そんなものは、この世のどこにもなかった。
たしかに聞こえた嫌な感じは、自分の感情の投影に過ぎなかったのだ。自分はたいへん恥じ入り反省したのだけれど、この話を妻にしたかどうかは憶えていない。
そういえばLINEやメールのやりとりで、感じの悪いことを言われたと思い、強めに反応してしまったあとで、相手の発言を読み返すと、そこまでのことは言われていなかった、ということも(一度ならず)あった。
今回、恥ずかしい話ばかり書いているのだけれど、もし、この世の全てにログやビデオが残っていたら、そういうことが、数限りなくあったと分かるのだろう。
『BEASTERS(ビースターズ)』(板垣巴留)は、肉食と草食の動物が入り交じって暮らす世界を描いた漫画だ。
(以下ネタバレ。気にする方は飛ばして読んでください)。
草食の級友を、はずみで食べてしまった肉食獣がいて、彼はそれを美しい友情の行為だったと記憶している。
読者は、まず食べた肉食獣の主観を通して事件を経験し、そのことを半ば信じたあとで、実際に起こったことは、そうではなかったと知らされる。
──そういう残酷で悲しいエピソードがあった。
(ネタバレ終わり)
自分は「そういうことってあるんだよなあ」と思った。
くさめして我はふたりに分かれけり 阿部青鞋
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