【句集を読む】
葵祭の魅力 共に待つ楽しみ
西村和子句集『心音』の一句
小沢麻結
見るうちに祭の橋となりにけり 西村和子
季題は「祭」で夏。平成十年作。京都三大祭の一つである「葵祭」を詠んだ西村和子の句は、本句集の中には掲句の他に〈祭待つ大路の緑ととのひし〉(平成八年作)等がある。この句は二十年以上前、作者の句の中で、最も好きな句に迷わず選んだ私にとって忘れ得ない句だ。だが今回は、掲句を挙げさせて頂いた。葵祭の見せ場である「路頭の儀」、都大路の行列を描いた句である。
何故今、掲句により惹かれるのか考えてみた。二句を読み比べた時、掲句には橋をやや離れた川縁から祭行列を見ている作者とその周りに同じように見物している人々、そして橋の上にも装束に身を包んだ人々が見えてくる。共にその場に居る人々の心の動きまでを感じる。一方の〈祭待つ〉の句からも、祭を心待ちにしている作者の姿が見えてくる。だが膨らみゆく木々の若葉にその心が託されており、祭がまだ始まっているわけではないため、比較すれば句から見えてくる人の姿が少ない。私が掲句により惹かれるのは、祭期間の町中にいることが、運営側、見物側を問わず祭と関わるその場を共有する人々の中にいることが、好きだからなのだ。そうこうしている時だ、地元の人にとっておきの情報を頂いたりするのは。
もう少しすればそこを祭行列が通るわよ。ここが良く見えるの。なんて話を聞いているうちに祭の行列が見えてくる。若葉をささめかせ吹き抜けてゆく風の中、人々と一緒に目を凝らしていると、日頃の通行の為の橋は風流傘が揺らめきながら進み、時をも超えて祭行列を運ぶ煌めく架け橋のようにも見えてくる。五月の水面は日を反射して美しく、川上に目を向ければ初夏の山並が見渡せるだろう。
これを可能にしたのは、上五の言葉だ。作句において俳句は見て作るもので、「見る」といった当たり前の言葉は使わないと学んだ。だが掲句ではこの当たり前の言葉が、作者目前の光景の時の経過を伝え、下五詠嘆の助動詞「けり」が、雅やかな様を読み手に伝える。一句の中を上五から下五へ祭行列が静々と進んでゆく。2021年も祭行列は中止となったと聞く。憂いなくまた人が集える日を願い、今暫くは俳句で祭を堪能しよう。装い典雅な行列を共に待つことを楽しみの一つとして。
西村和子句集『心音』2006年/角川書店
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