2021-05-30

【句集を読む】S氏の失踪 瀬戸正洋『亀の失踪』を読む 西原天気

【句集を読む】
S氏のゆくえ
瀬戸正洋亀の失踪』を読む

西原天気

『ぶるうまりん』第41号(2020年12月)より転載

瀬戸正洋の作風を言うに、唯一無二が過度に聞こえるなら、きわめてユニーク、まずまずの物量を備えた現在の俳句世間・俳句業界において、さらには俳句史において他にあまり例を見ないとは言えそうだ。句集『亀の失踪』の冒頭は、この句。

印鑑証明と百円硬貨と毛虫

俳句に「二物」はよく聞くが、「三物」は聞かない。人によっては禁忌と捉える「三物」が平然と併置される。卑俗といって悪ければカジュアルな事物がまず二つならぶ点も、主流に位置する句とは言い難い。韻律は五七五から遠い。ここも俳句の規準からは逸脱している。

冒頭の一句を見るだけで、ちょっと風変わり。いわゆる「よくある句」を書く作家ではないことがあきらかだ。

語り口はどうだろう。句の末尾がそれに大きく影響する。

リトマス試験紙壊れたサングラスがあつた

拉麺屋に列あり天道虫が飛んだ

口語体の過去形というかたちが集中に少なくない。前者は文字どおり過去の記憶のなかのワンシーンのような色合いを与え、後者のぶっきらぼうな口吻は市井の光景として妙にリアルで、両者ともに効果はある。けれども、多数派の俳人が多用する手ではない。

俳句の教科書のはじめのほうに出てくる切字の点ではどうだろう。「や」「かな」は頻繁に出てくる。ただし、変則的な使用法が多い。

害獣駆除やウイルス駆除や明易し

蜂の巣のまいねん同じところかな

切字「や」がつくりだす断絶の前後の二物。その取り合わせもちょっと不思議なケースが多い。

其角忌や割箸割れたところが変

割れた箇所よりも「其角忌」のほうがよほど変である。

そろそろこの手の話題を切り上げて、次に行こう。形式や素材のユニークさ、規範からの自由な遁走ばかりがこの句集の魅力ではない。全体に漂う雰囲気、一巻を通して醸し出される味わいの話である。それには句群の背後に佇む作者の特質が大きく関わっている。句集を読むことは、作句者としての作者に向き合うよりもむしろ、そこに生きている人間としての作者と付き合うことであったりする。『亀の失踪』もそのたぐいの句集だ。

彼のこと、私が知り得た彼のことをすべて語る紙幅でないことははじめからわかりきっているので、断片的に綴る。

まず。この人は句集の中で少なくとも二度困っている。

名月やまはりうろうろされたら困る

カーペットのうへに鼠がゐたら困る

二句とも困惑を誰かに告げているわけではないようだ。ひとり心の中で困っている。《春深し和牛と言はれても判らぬ》も一種の困惑だろう。

解決はない(句集は実用書でも自己啓発本でもないので)。《ライターが点かぬげんげ田にひとり》とただ立ち尽くす。また、《身から出た錆と諦めて初湯》は諦念。

人づきあいに関しては無関心かつ虚無的。

鱈ちりや誰も彼もてんでばらばら

自分に関しても無関心あるいは虚無的。《牡蠣飯や意志の弱さを咎められ》《でたらめな剪定でたらめな人生》などは自虐と単純化できる。ネガティブな句を並べたが、厭世につきものの嘆きや湿度や暗さはない。なんだか飄々としている。

嘘と烏瓜人類は必ず滅びる

東京の見知らぬ街の盆踊り

高級目刺だと言はれ確かにさう思ふ

飄逸という特質はおそらくこの句集・この作者の大きな魅力のひとつだ。ただし、スタイルとして貫くというより、生まれついての飄逸、素(す)の飄逸という気もする。

秋の暮ジェットコースターは落ちる

中元や身分のやうなものはある

きりたんぽ鍋きりたんぽが余る

このあたり、に限らず集中ほかにも数多い句が、真面目なのか不真面目なのかわからない。

いったい、この人は、真面目なのか、不真面目なのか。私に判断がつくまえに、とっとと失踪してしまうのだろう。

語の一語一語、ページに並ぶ句の一句一句はたしかにこの手につかめるのに、次の瞬間にはすべてがとらえどころなく、するりと手をこぼれる。この事態は彼(作者)の、私(読者)の生きている時間とそっくりである。だからだろう、この句集に〈奇妙な親しみ〉〈人肌のおかしみ〉を感じるのだ。


瀬戸正洋句集『亀の失踪』2020年9月/新潮社

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