成分表84
正義とフィクション
上田信治
(「里」2016年10月号より改稿転載)
こまわり君の『がきデカ』(山上たつひこ)は、下ネタとナンセンスが中心のギャグ漫画で、いつも公序良俗の壊乱者たる主人公が、学級秩序の代表である西城君やあべ先生に罰されて一話が終わるという、説話的構造を持つ。
狂言の「やるまいぞやるまいぞ」と同じ決まりごとなのだけれど、一度だけ、主人公が完全な勝利を収めたエピソードがあった。
やくざの子弟である転校生に取り入ったこまわり君が、その権力をかさに着て、西城君や先生に裸踊りをさせて一話が終わったのだ。
中学生だった自分は、本当に『がきデカ』を愛していたので、目がくらむほどの困惑と恐怖と怒りにおそわれた。
『光る風』の作者としては、子ども相手に軽く凄みを効かせたつもりだったかもしれないけれど、やはり失敗だったのだろう。その後、こまわり君が勝って終わるエピソードが、描かれることはなかった。
そのとき自分は、漫画で勧善懲悪がなされなかったことに、ショックを受けたわけだけれど、同時に、自分にそんな幼い正義感があったことに、驚いてもいた。
もう中学生なのに。
いや、自分の正義感を恥ずかしいと感じるのが、中学生というものか。
子どもは、正義感が強い。この世が正しく運営される場所であることを、心から望んでいる。世に養育される立場である子どもは、そこに剝き出しの生存競争と無関心しかなければ、すぐ死ぬからだ。
大人もまた、世に養われる身であることは子どもと変わりないので、この世が安全で予測可能な場所であることを、願い、かつ頼みにしている。彼が正義を口にしないのは、分相応という世間智にすぎない。
本当のところ、この自分にとって、この世が「いい場所」であるかどうかは確率的事象であると、大人も子供も分かっている。
だから、部族の神話の昔から、この世界が誰にとっても生きる意味のある、正しい場所だと信じさせてくれることを、人はフィクションに望む。
正義が勝ったり、二人が愛で結ばれたり。
そうではない「真実」が見たい人は、そういう物語が、その人を生きやすくする事情があるのだろう。
自分はふつうに、よき人が望みを達する物語を欲する。
あるいは、その作品自体がなんらかの達成であることを求める。それはそれで、世の中うまく行っていることの証明になるので。
何もかも、うまく行きますように。
賭けごとをする人も、野球やサッカーに入れあげる人も、この世が「彼のもの」であることを見たいのだ。
新聞もテレビも、人が、この世のうまく行っていることを願う「辻占【ルビ:つじうら】」なのだと思う。
○
『成分表』が、本になります。今夏刊行予定。
0 comments:
コメントを投稿