【空へゆく階段】№44
牧野春駒句集『青丹』鑑賞
うたげと孤心
田中裕明
「晨」第7号(1985年5月)
これは以前にも言ったことであるけれども、この句集の作者について何か言うとすれば、作り手の孤独ということを避けて通るわけにはゆかない。
昭和二十三年一月号の「ホトトギス」の巻頭を飾った二句、すなわち、
梳る田打女の鍬ふと倒れ
夏潮に海女はみどりとなり沈む
に共通するものがあるとすれば、それは作品が生まれた時期はたいへんに孤独であったことかもしれないという作者の言葉は非常に示唆にとんでいる。たしかに、俳句の伝統は俳諧以来連衆というものを離れて考えることができないけれども、すぐれた作者は連衆のなかでどこか孤独を感じていて、だからこそ座というもののかけがえのなさを信じていたのではないかしら。たとえば大岡信は『うたげと孤心』のなかで、そのあたりの消息を次のように書いている。
けれども、もちろんただそれだけで作品を生むことができるのだったら、こんなに楽な話はない。現実には、「合わす」ための場のまっただ中で、いやおうなしに「孤心」に還らざるを得ないことを痛切に自覚し、それを徹して行った人間だけが、瞠目すべき作品をつくった。しかも、不思議なことに、「孤心」だけにとじこもってゆくと、作品はやはり色褪せた。「合わす」意思と「孤心に還る」意志の間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は稀有の輝きを発した。
まことにその通りであろう。そのうたげと孤心という葛藤を伝統とのかかわりあいでとらえてみたいと思う。うたげとは「合わす」とは伝統に対して従順であること、そして孤心とは伝統と断絶していることというのでは簡単すぎてつまらない。
さきの大岡信の文章は、大和歌篇ということで平安のころの和歌あるいは歌謡について書かれたものであるし、俳諧の連衆たちがすでにそのあたりの機微は理解していたことは想像にかたくない。だからわれわれも、と簡単にゆくわけはないけれども、逆に伝統とはそれくらいの力をもったものでなければならない。そういうもののはずだ。
魞の内波立ちきたる一の牛
雪囲解いて山水まろびをり
睡蓮の花傾けし巖あり
寶前の海より神の發たすかな
餅配かけかはりたる澤の橋
上蔟をひととき染むる入日あり
稲刈つて俄かに魞の衰へし
夏爐邊に赤子の聲の今年より
二タもとの蘇鐵の間を神發たす
集中なかほどより引いた右の作品が、うたげと孤心の緊張関係を保ちつつ、しかもその名残りを消していることは驚いてよい。誤解されやすい言葉で言えば、伝統との折り合いということになるけれども、作品も頑固だし、伝統のほうでもなまなかのものではない。
ひとは孤独を感じるときに伝統に近づく。近世の俳人が風雅の歴史を透視したときに、彼の連衆は彼にとって古人ほど親しいものではなかったのかもしれない。そしてもういちど連衆のなかへかえってゆくのだろう。そこにはごく広い意味での共同体がある。
うたげという言葉を作者と読者との間のひらかれた場所という意味あいで考えてみれば、これはずいぶん近代的な概念になる。読者は作者を孤独な状態のままでほうっておかないものである。そこで作者には孤心に還る方法をさがす必要が生まれて、それには伝統との折り合いをつける以外にはないけれども、それが作者にとって不幸になるとはかぎらない。この句集の後半はその幸福なる場合の一例であろう。
左義長に淡路より来し舟のあり
朧月ありし空より雨降れり
十三夜うち交したる能登言葉
春の山下り来て言多きかな
濱木綿の株の稚き安居寺
上蔟の茶山いよいよまろきかな
鮎掛の櫻の幹に隠れけり
書を曝す入鹿斬られしこのあたり
こうしてみると作品はたいへんに単純化されたように見えるけれども、実はかなりこみいった仕掛けで生まれていることがわかる。あたりまえといえばあたりまえのことだ。ライトヴァースに見えてそのじつはディフィカルトポエトリーであること、あるいはその逆は世のつねである。そしてそんな都合のよい分類法はなくて、ただ俳句だけがあるという考えかたもあるにはある。
『うたげと孤心』のさきに引用した部分のつづきには次のように書かれている。
見失ってはならないのは、その緊張、牽引の最高に高まっている局面であって、伝統の墨守でもなければ個性の強調でもない。単なる「伝統」にも単なる「個性」にも、さしたる意味はない。けれども両者の相撃つ波がしらの部分は、常に注視と緊張と昂奮をよびおこす。
たとえばさきの一連の作品は伝統と個性の相撃つ波がしらというようなおおげさなものではないかもしれない。たしかにおだやかな風貌をしている。しかしながら俳句においては共同体と個人の互いのありようはこういうかたちでしかありえないのではないだろうか。そう思われてくる。
伝統と激しいやりとりとして、しかもそのやりとりのあとをきれいに消し去る方法をこの句集は教えてくれる。それがこの小さな詩型においてどれほどたいせつなことであるか言うまでもない。
※タイトル「うたげと孤心」は対中が付した。
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