2021-07-11

成分表86 西瓜 上田信治

成分表86
西瓜

上田信治

(「里」2016年10月号より改稿転載)

 

西瓜は、三角に切った時のてっぺんの部分がいちばん美味であるとされている。長嶋茂雄が、たくさん並んでいる西瓜のそこだけを次々と全部食べてしまったという伝説があるけれど、あのてっぺんは本当にそんなに美味しいだろうか。

西瓜の美味は、三角(またはくし形)に切ったそれを上から食べていき、だんだん味が青っぽくなっていくその過程にあると自分は思う。てっぺんの部分は甘くはあってもすこしスカスカしていることが多い。その部分から食べ進めて、種のあるエリアを越えるころ、もっとも水分が多くなり香りが口いっぱいに広がる。

果皮近くまでいってしまうと味がなくなるのだけれど、その手前、漬け物の材料的な味になる予感のありつつ、口を満たすジュースは香りを強めていくというグラデーション。色で言えば、シンプルに甘い赤がみるみる緑成分に置き換わっていく、その速度感が西瓜の味ではないか。去年、最後の西瓜を食べながらそう思った。

人は環境から、多くの連続的に変化する感覚入力を受け取っているけれど、その全てを意識することはできない。

いま目をつぶって、自分のいる部屋の像をイメージすることはできる。では、その部屋を目の高さのカメラアイが移動する映像、つまり部屋を動画で思い浮かべることは難しい。どうやっても静止画をザツにつないだような映像になるし、無理に続けると寝落ちしそうになる。それだけの動画データを想起するには、脳にバッファが足りないのだろう。

ところが、目をつぶったまま実際に立ち上がり、部屋を歩きまわりながらその映像を思い浮かべることは、驚くほど容易なのだ。

これは、人が世界をどれだけ身体的に見ているか、ということだ。たとえば、卓球や野球の選手は、あのすごい速さで向かってくる球を、手に持った道具込みで「見て」いるのではないか。

  ことごとくつゆくさ咲きて狐雨  飯田蛇笏

俳句が「ことごとく」と始まるとき、私たちの目はある範囲の空間(とおぼしきもの)を見渡している。「つゆくさ咲きて」と書き継がれると、その、野原であると明らかになった空間に、それ埋めるように、青紫の花が点々と咲き広がっていくビジョンが生まれ。「狐雨」はさらに花に重ね描きされるようでもあり、空間の上半分を満たすようでもある。

連続して変化する感覚入力が、受容器としての自分をいっぱいいっぱいにする。

来年また、西瓜を食べることがとても楽しみだ。 

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