2021-08-08

【空へゆく階段】№46 螢の夜 花照鳥語③ 田中裕明

【空へゆく階段】№46

螢の夜 花照鳥語③

田中裕明

「晨」第69号・1995年9月

今年は螢が少ないと言われていたがそんなことはなかった。川の水温も心配されたほど下がらなかったのだろう。

近くの水無瀬川に毎年螢を見にゆくけれども、去年などよりは今年のほうが螢が多いし、螢の飛ぶ流域もひろがっているようだ。

もの思へば沢の螢も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る  和泉式部

この歌の螢は闇の中に一つふたつ浮んでいる。それが数え切れないくらいの小さな光が飛んでいるのを見れば、また別の感興を覚えるものだということになります。

名神高速道路の天王山トンネルの出口あたりから下流に広い河原があって、そこへ螢見にゆく。晴れた夜よりも、少し曇っているくらいのほうが、数も多い。週末などは車で見物に来る人もあるようだが、それでも螢より人間のほうが多いということはない。

そんな螢見のある夜、闇の中で二番目の子を見失った。ものの三十分ほどを上流から下流へ、また上流へと子の名前を呼んで求めた。ずいぶん長い時間に感じたものです。

あさきは見失ったすぐ近くの草の中で一匹の螢をじっとながめていました。

夏草のしげみがしたの埋れ水ありと知らせて行くほたるかな  後村上

螢は自然のシグナルなのだが、人間はそれに気づかない。あるいは消えた子のありかを、あるいは埋れ水の存在を教えてくれているのですが。

和泉式部の歌でも、螢は人を恋う心のシグナルであっても、螢を見てはじめて我が思いを発見するようなところがある。

人は闇を恐れて火や電燈を発明したけれども、闇がうすれたぶんだけ、自然やわが心のシグナルに気づきにくくなっている。

水無瀬川のほとりの中学校では、螢の飛ぶ六月だけ、グランドの照明をやめていました。それでも人家や高速道路の磴の燈など、しんの闇からはほど遠い。

むかしの螢はやはりしんの闇の中を飛んでいたのでしょう。人間にとっても闇がより親しいものだったから、螢もくっきりと心に映った。照明を消すこと以上に、闇の復権が求められているように思われます。

我はいかなる川か、と詠んだ歌人は螢を身にまといながら自問自答した。螢がここに埋れ水があると知らせてゆくよ、自分はある流れに違いない。それならば一体どのような川なのか。根源的な問いである。

螢の夜、迷い子をさがしながら、和泉式部の歌や前登志夫さんの歌を思いうかべた。


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