ほろ酔い俳人論 穴井太の夕空
小林苑を
『里』2013年1月号より転載
北九州市戸畑区のなんじゃもんじゃ通りに穴井太の句碑があるという。
夕空の雲のお化けへはないちもんめ
はないちもんめ、もう子供たちはこんな遊びはしない。二手に分かれて、はないちもんめと唄いながら相手側の誰かを「欲しい」と指名する。いいね、欲しいんですよ。無視するとか、排除するんじゃなくて、こっちへおいでよと誘うのです。
はないちもんめから花の淡色や春の温みを感じる人もいるかもしれないが、無季句である。花鳥諷詠が四季の移ろい、つまり自然を写してこころを託すのだとしたら、無季の句は心情を詠う。目には見えない人のこころに形を与える。
穴井には無季句がたくさんある。代表句といえば誰もが挙げるであろう次の句も無季。
吉良常と名づけし鶏は孤独らし
たくさん鶏がいるうちの一羽に名前をつける。いつも、その鶏だけはぐれているのだ。もしかしたら、一羽の鶏を飼ったのかもしれない。そういうことが結構あった。私が生まれた家は東京世田谷の住宅地だったけれど、祖父がどこからか持ってきた鶏が一羽いた。あの鶏はどうしてしまったのだろう。
鶏は卵を産ませるために飼い、最後は食べるために締める。だから、どのみちこの鶏も食べられる運命にあるのだ。鶏というのは喧しい。よく鳴く。けれども、吉良常は鳴かない。
吉良常の名前なら誰でも知っていた。尾崎士郎の『人生劇場』を読んでいなくても、一四回も制作された映画を観ていなくても、吉良常は任侠の人であり、恩義を知る人なのだというイメージを抱いていた。
映画版での吉良常は、その当時の渋い役者と決まっている。月形龍之介、森繁久彌、一九六八年の内田吐夢監督「飛車角と吉良常」では、飛車角の鶴田浩二に、吉良常は辰巳柳太郎。田宮二郎、若山富三郎も演じている。
もっと安易に、「やると思えばどこまでやるさ」で始まる演歌「人生劇場」で知ってる気になっていたかもしれない。作詞佐藤惣之助、作曲古賀政男。この歌、たいがいの人がソラで歌えた。最後の三番はこうだ。
時世時節は変わろとままよ/吉良の仁吉は男じゃないか/俺も生きたや仁吉のように/義理と人情のこの世界
しつこくいえば、浪花節、つまり浪曲で有名になったのが吉良の仁吉で、その仁吉筋に当るのが吉良常だ。あの人は浪花節だから、なんて昔はよくいったもんだけど、人情家と言い換えると、その俗っぽさが消えてしまう。
孤独なんて恥ずかしくって、俳句に使うのはタブーに近い。ぎりぎり鶏だから許される。だいたい鶏に名前を、それも吉良常なんてつけない。ほんとにつけたんじゃなくて、仮に呼んでみるってことだ。男ごころを鶏に仮託してみせる。この句がいいのは、まるで演歌みたいにそうと分かるように書いてあるところだ。
穴井太の句は平易ではないが、わかる句だ。真直ぐにすっと染み通ってくる。ときには演歌、ときには童謡のように。
断っておかなければいけない。この句については穴井自身が書いており、飼っている鶏の中にいつも群から離れている一羽がいて、吉良常と名付けたという。十歳年上の妻、君子は結婚前から養鶏で暮らしを立てていた。だから鶏は身近な存在で、穴井はこのはぐれ鶏を愛おしんで見ていたのだろう。そんな現実の素材から、穴井は多くの人(かっては大衆なんていったけど、いまや差別語ですか)の原風景とでもいうべき景を作り上げる。
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昭和元年大分県生まれ。恵まれた子供時代を経て(穴井太ができあがるにはここが大事な気がする)、十二歳で工業高校に入学したが授業より稲刈・工場動員の多い時代となっていく。同級生に俳句作っていた益田清がいた。不本意に進学した工業高校に文学仲間を得たのだ。後に穴井が俳句を始めるのも、君子と出会うのも、この縁による。
神戸製鋼に入社、終戦を迎える。技術職のため戦地に赴くことはなかった。生き残ったという意識はこの世代の男たちにとって生きていく上で強い箍である。穴井もまた、この思いを抱えて生きる。
親元に戻った穴井は大分の飯田高原へ、晴耕雨読の日々から中学の教員に、さらに中央大学に合格して上京。窮乏生活ではあったが、現代詩に、戦後文学の熱に触れた。
卒業はしたものの穴井は体を毀して帰郷する。北九州で仕事に就くため、君子の家に寄宿することになる。運命の出会いというやつか。引き上げで二人の子を失い、一人の子を育てるため養鶏をしていた女性で、大学時代に益田の俳句の会で見知っていた。周囲の大反対を押し切って結婚。君子三十五歳、穴井二十五歳。
中学教員の職を得る。近くに住む益田の薦めで「先生らしいこと」をと俳句を始める。ここ、なんだか可笑しい。俳句より仲間が好きだったんじゃなかろうか。横山白虹の「自鳴鐘」に入会、さらに益田に誘われ同人誌「未来派」を刊行、発行人となる。
三十二歳の時、八幡市で開かれた九州同人誌会議で金子兜太と出会う。これをきっかけに九州俳句作家協会誕生。『九州俳句』を発刊、次第に俳句にのめり込んでいく。社会性俳句、さらに前衛俳句が広まっていた。
昭和三十六年八月、第八回長崎原爆忌俳句大会で原爆句碑作品に選ばれる。句碑十二句中、応募作品は穴井の句のみ。兜太の「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」等と並んで句碑は立っている。
夕焼雀砂浴び砂に死の記憶
原爆の句だと知らなくてもいい。雀を近頃はあまり見かけなくなってきたけど、チュンチュンとそこらを突つきまわっていたもんだ。子供たちがつるんで遊び回るのによく似ている。無心に遊ぶ子供たち。違った、雀たちが炎色に染まるとき、脳裏にフラッシュバックする光景。穴井には「還らざる者らあつまり夕空焚く」というのもある。夕焼けは穴井の喪失の痛みだ。
この頃、「口語俳句というものに遭遇して、目がさめたような感じやったね」という。三十八年「海程」へ。三十九年、第一句集『鶏と鳩と夕焼と』(1963年/未来派発行所)を出す。俳壇を意識してではなく、転勤でPTAから貰った餞別のお返しに困り作って配った。
翌年、仲間たちと天籟句会を結成、ハガキ版「天籟通信」発行。その後、雑誌化される。「天籟通信」は現在も引き継がれ発行されている。
主宰も代表もなし、和気藹々かつ活発に議論する場。「みんな平等やったからね」と語るが、会場は穴井の自宅、編集・発行も穴井の肩にかかっていたのではある。この「天籟通信」に腰を据え、主の穴井は俳人として活躍してゆく。現代俳句協会賞をはじめ数々の賞を受け、句集を刊行、精力的に執筆もする。
この経歴は佐藤文子著『明日は日曜』(2003年/邑書林)から。穴井への聞き書きであり、その人生と人柄がストレートに伝わってくる。北九州弁のその声までもが聞こえてくるようで、金子兜太の帯文には「快著なり」とある。
初めて手にした時、こんなに素朴に直情な人がいるのだと呆気にとられた。悲しいことに涙し、許せないことに怒り、行動もする。それは穴井の句に現れる。評論の土台となる。
夜業のパン寝て食う一人の星祭り
廃屋にコ―モリ傘が吊られている
土に還るボタいっぽんの鬼あざみ
のぞきからくり泡だちやまぬ夜の廃液
霧にまぎれ重工業の突き出す胃
この後の穴井についても書くべきことは山程あるが、先を急がなければならない。「俳人は俳句だけやっていればいいんじゃない、現在を見つめなければ」が持論だった。「天籟塾」を開き、俳句に拘らずいまを語って貰おうとさまざまな講師を招いた。最初の六回の天籟塾講師名と著書一冊をあげる。見えて来るのは思想ではなく、弱者と共にあるということ。
河野信子『媒介する性 ひらかれた世界にむけて』、前田俊彦『ええじゃないかドブロク ドブロク裁判全記録』、松本竜一『風成の女たち ある漁村の闘い』、岡村昭彦『南ヴェトナム戦争従軍記』、石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』、上野英信『追われゆく坑夫たち』。
上野は筑豊の炭坑労働者を支援し語り継いだ人。廃坑の坑夫長屋を筑豊文庫と名付けて住居にし、ここに集った人々が天籟塾講師ともなった。お互いに合い通ずるものがあったのだろう、上野との深い交流は穴井の俳句観をも決定づけた。
発足後十年を経過した五十五年に、「『天籟通信』の二〇〇号を迎えて」と題して読売新聞に寄せた一文がある。「俳句が、自然と人間の交わりを詠むものであるとするならば、ヒトもクサも、そしてソラやウミやケモノタチにも熱いまなざしを向けねばならない。そのため、生きていることが、矛盾の沸騰点の中に居ることを、実作者たちは痛烈に感じざるを得なかった。いかに生きるべきかが、句会の底流として苦く熱く流れだした」と、こちらが気恥かしくなるような一途な書きぶりである。
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穴井の俳句を素材から大雑把にわけてみる。任侠系とでもいいたいような情念の句に加えて、とことん拘った九州の風土、学校、そして酒。
あおい狐となりぼうぼうと魚焼く
三月の風人買いのやさしさで
十二月あのひと刺しに汽車で行く
くりからもんもん冬の金魚は逆立ちに
別宅という言葉あり蝉しぐれ
評論集『俳句往還』(1995年/本多企画)の「なにを言い止めるか」で、「コトバ以前に常に強く執着する質だ」と自らを評し、「日常の有限性のなかに無限性が見える、…もともと日常の猥雑さのなかでしか、俳句は俳句たり得ないのではないか、…日常にどっぷりつかっていて、ある時ある時に日常を超える一瞬を言い止めよう、その言い止め得た姿こそ、私にとって真の現実たりうるのである」という。
けぶる母郷いくたび芹の匂いたつ
水匂う夜明け共有林に入る
しんしんと青い鎌ふるなまけ者
青梅を煮つめる女ばかりの家
めしこぼす母いて椿まっさかり
穴井の言葉はごつごつしている。骨太の質感。金子兜太の秩父のそれと低通しているが違う、北九州の風土と素朴。兜太の知に対して、穴井の直情。そんな感じか。ごつごつした言葉で、高度経済成長期の日本、変わる風景に向き合う。図式的過ぎるというような批評家的態度は穴井には無縁だ。許せんもんは許せん。愛着のあるものは大事せんと。変わりゆく風景を懐かしい者らがかすめて通る。
枯山に鳥透き肉親こぼれゆく
あおあおと地へ腰据える山椒売り
ももいろの舌をあそばす枯野かな
ことごとく木を諳んじる時雨なり
風の木あり死者をかついで山越える
子供らを見詰める。仲間ということを考える。エッセイ集『吉良常の孤独』(1997年/葦書房)には、熱いとしかいいようのない教師体験が綴られている。
うすいくちびる仲間はずれの鳥がいて
九月の教室蝉がじーんと別れにくる
あたらしい帽子が太くて枝張る桜
番長も俺も毛深きゆきのした
ゆうやけこやけだれもかからぬ草の罠
うすいくちびるは話したくても語れない。別れ。命。九州弁で「太い」は大きい、肉体を感じる言葉。そして俺も。遊びのあとの草の罠。理屈より感情。失われゆくものへの哀惜。
父死んでやがて母死ぬ麦こがし
平成七年二月、「天籟通信」を蔭で、というより一緒に支えた妻、君子が十年間の人工透析の後、死去。「春夕焼あの世を歩くキミコのばか」。その後の穴井は生き急ぐ。平成九年十二月、七十二年の生涯を閉じる。
『明日は日曜』によれば、君子が救急車で運ばれるというときに「僕のこと書いてみんね」と言ったという。君子との生活が終わるかもしれないという予感は、自身の来し方と終着の思いへと繋がったのだろう。
むろん最後は酒の句。穴井はよく呑み、よく語ったらしい。酒飲みなら頷くしかない句を作った。どの句の酒も胃の腑に滲みる酒である。
筍さげ酒にすべきか酒にする
冷奴酒系正しく享け継げり
秋風や酒で殺める腹の虫
良夜かな二勺の酒にいたわられ
めしが出て三日月の出る宴つづく
晩春、盛夏、白露と飲み続け、〆の飯が出ても放談し。また春が来る。
梅咲くや酒屋へ一里黄泉へ二里
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なんじゃもんじゃ通りに句碑って、なんだかいい。なんじゃもんじゃで思い出すのは山崎方代。あ、あれは『こんなもんじゃ』(2003年/文藝春秋)だ。飲んで放浪して死んでしまう。そんな無頼な生き方をも受け入れる時代は終わってしまった。無頼なんて、それは心が病んでいるのですよ、と言う。そうかもしれません、そうかもしれませんが、病んでいるのは人ではなくて、人らしくあることを拒絶する社会の方かもしれないじゃないですか。
山頭火を論じた「風になった男」という一文がある。『俳句往還』に、また『現代俳句文庫 穴井太句集』(1994年/ふらんす堂)にも収められている。もともとは写真集に寄せたものだとある。
その山頭火もまた病んでいたかもしれないし、ハタ迷惑な奴だったろうけれど、そんな男に寄り添って「男の腹の中には、酒の虫や孤独の虫、それに栄達の虫や絶望の虫といった、いろいろの虫がうごめいている。山頭火においては、それらの虫が抑え難く大きくうごめき、ついには行乞放浪の旅に出たと思う」と。穴井はそうした原初のこころの伴走者であり続けた。
仲間を大事にし、妻を愛し、人と酌み交わすのが好きだった。そうであればこそ、自身の孤独をひっそりと抱え続けたに違いない。最後の句集『原郷樹林』(1991年/牧羊社)の一句。
一樹のみ黄落できず苦しめり
こんな時代になりまして、時世時節は変わろとままよ、穴井太の武骨な句に胸を締め付けてもらいたくなるのです。酔いが回ったのかも知れません。
( 了 )
1 comments:
久しぶりに私に合うものを読みました。
穴井先生は、中学の恩師です。授業中おもしろい話をして生徒を喜ばせていました。
その後、社会人になって読売新聞を見ていると、私の青春記と言う連載物に一面に穴井先生が載っていました。
先生が語り記者が書きまとめたものでしょう。違う日には、マラソンの君原健二のも有りました。
その人の青春が正直に語られていて驚きました。
今日は良いものを読みました。有難うございました。パソコンは有り難いものです。
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