2021-10-10

【空へゆく階段】№53 『湯呑』の一句 田中裕明

【空へゆく階段】№53

『湯呑』の一句

田中裕明

「青」1981年・第12号

本あけしほどのまぶしさ花八つ手  爽波

昭和二十九年作。

この句については三年近く前にがきの会の「東雲」で感動の一句として短文を書いたことがある。実はこの文をひととおり書いたところでそれを思い出して「東雲」六号を取り出してみた。その文の一部を引けば『本のまぶしさとは、黒い表紙を開けた白い頁のまぶしさといった表層的なものばかりではあるまい。かえって文字の黒いインクの部分が明るいほどの、書物のもつ深い感覚のまぶしさである。八つ手の、目立ちはしないがうすみどり色をした花がそのまぶしさと同じだというのだ。かよいあう細い流れの糸に触れることは、その感覚は並大抵ではない。それが一句を成した時に光を放つのである。』とある。

読んでみて三年たってもほとんど自分の考え方の進歩せぬことにがっかりした。しかし、いまはこの句がわたしの胸のなかで少しも色褪せることなくかがやいていたことに驚けばよいのかもしれない。非常に壊れやすい、あえて言えば青春性の残照のようなものをこの句に感じるけれども、それは実はしっかりした言葉にささえられている。
この句は「湯呑」の巻頭の句である。

この時代には

秋草の中や見事に甕割れて

帆のかげに立つ秋風の人見ゆる

一片言蕣に拾ひ家に入る

というような句が並んでいる。いずれも、三年前に立風書房の現代俳句全集ではじめて読んだときに、印象のなかに深く沈んだ句である。

主宰の作品については近代性であるとか、モダニズムなどの標語が以前はあてられたが、どうもそれは的はずれの評言であったようだ。もちろん近代というものにまったく背をむけての作り方ではないが、そんなものとはすこし位相のずれたところで爽波作品は作られていたし、これからも作られるのではないかと思う。

主宰の冒険宣言以降の最近の作品が「湯呑」の句と変わってきているのか、わたしはまだその端緒を見つけられないでいる。


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