【空へゆく階段】№55
『秀句三五〇選18・数』解説
田中裕明
ピタゴラスは、音楽的な調和が小さな数の比で表されることを発見し、この世のすべてのものは数と考えた。確かに数というものは世界の基本にあって、私達の生活の中でも数えることなしに、暮らしてゆくことは不可能である。しかしながら、この数と、俳句との関係を思うとき、数がなければ俳句にならないかというと、必ずしもそうではない。
数が詠まれた名句は、古来あるけれども、名句の名句たるゆえんは、数が詠まれていることにあるのではなさそうである。数をテーマにした俳句のアンソロジーにおもしろみがあるとしたら、数というものが私達の生活の中で演じている役割そのものがおもしろいということだろう。
ものを数えるという行為は、数える主体と数えられる客体があって初めて成立する。それでも数そのものはどちらかと言えば、無味無臭で性格のないものである。そこで初めは数えられている中身にはかかわらず、ゼロから順番に大きい数字になるように配列してみようかと考えた。たとえばいま手元にある『数の事典』(D・ウェルズ著)を開けてみると負の数および虚数から始まって、グラハム数とよばれる大きい数の世界チャンピオンまで並んでいる(ちなみにこのグラハム数はギネスブックに載っている最も大きい数字である)。しかし、実際の俳句にあたってみると、数字としてみたときの種類が乏しい。小さい数が多く、二十以上の数が詠まれている俳句は、それこそ数えるほどしかない。結局、数えられているものによって分類することにした。
数の単位にはいろいろあって、俳句には自然数の中の小さいもののごく一部しか登場することがないにしても、億・兆・京など大きい数を表す言葉がある。編者が仕事をしている電子工学の分野では、物理量を表す単位にその数字の桁数を表す文字がついていることがある。周波数の単位で、一ギガヘルツと言えば、一秒間に十億回振動することを表すし、一ピコファラッドと言えば、一ファラッドの一兆分の一の容量である。これら英語のギガ(十億倍)やピコ(一兆分の一)よりも大きい数あるいは微少な数を表す言葉が日本語にはある。
無量大数は10の68乗の意味だし、清浄というのは10のマイナス21乗を表していて、これに相当する西洋の言葉はない。たぶん私達の祖先は仏教的な想像力を多く持っていたのだろう。これら極端に大きな、あるいは小さな数というものは、物が本来持っていた意味を失って数だけが残っているような気がする。
そうして考えてみると、俳句で数えられているものの内容は、実に多彩であることに気づいた。それはすなわち俳句に詠まれているものの内容である。
しかも、数を数えることによって、俳句に広がりや深みが生まれる場合があることにも気づいた。名句であるゆえんは数が詠まれていることにあるのではないと言ったが、数が詠まれていることがその作品の命になっているものもあるだろう。
本文のなかでは取り上げなかったが、
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
という俳句など、典型的なものではないか。
山本健吉はこの俳句を、鶏頭を十四五本ととらえたところを評価したし、高浜虚子は終生この俳句を認めなかったという。いずれにしても、この作品の要は、十四五本という数の把握にある。これが「鶏頭の七八本もありぬべし」では、佳句としてどこか欠けるところがある。
さてそれでは、数が詠まれている俳句を内容で分類するときに、どのような項目に分ければよいだろうか。本書では、人間・生物・事物・時間という分類を採用した。これは、編者の興味にずいぶん片寄った嫌いがある。歳時記のように、春夏秋冬で分類するのは、この場合適当でないにしても、生活・行事・植物・動物という分類も、当然考えられる。しかしながら本書では、とりわけ人間と時間に関する興味を重視した。
たとえば高浜虚子の『俳句はかく解しかく味う』には次の句と文章が収められている。
三つ葉散りて跡はかれ木や桐の苗 凡兆
桐の苗木を描いたもので、その苗木には三枚だけ葉が附いていたが、その三枚の葉が散ってしまった跡はもう枯木になってしまった、というのである。俳句の方では落葉した木を枯木という。で落葉した冬木の別名と見てもいいのである。実際枯れてしまった朽木の意味はないのである。これは極めて簡単に桐の苗木そのものの特質を描いたところがかえって力ある句になっている。桐の葉は人も知る如く大きな粗い葉でそれが桐の幹に疎らについておるのであるが、その葉の落ちるときはぽくぽくともろく落ちやすい。その僅か三枚の葉が落ちてしまったあとは真直ぐに突立っている幹ばかりになってしまって、おやおやもう枯木になってしまった、と驚かれるのである。
この俳句も本文には収めていない。もし収めたとすれば、生物の章に分類されただろう
が、この俳句のテーマは時間である。それを虚子の文章はあますところなく書いている。
いま本書を俳句のアンソロジーとして眺めてみると、かなり幅広い位相で俳句という詩
を鳥瞰できたように思う。その意味で数というテーマは興味深いものだったし、詞華集を編むという作業はたいへん楽しいものだった。
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