2022-02-20

田中裕明【空へゆく階段】№60 やれと食らへば ちくま文学全集「内田百閒」

【空へゆく階段】№60
やれと食らへば ちくま文学全集「内田百閒」

田中裕明

「晨」第44号(1991年7月)「読書室」

内田百閒のものをあまりまとめて読んだことがなかった。それでも『阿房列車』や『御馳走帖』を読んでいっぷう変わった面白みのようなものを感じた覚えがある。

去年岩波文庫で「幻想&ファンタジー」という企画で何十冊かの本が出たときに内田百閒の『冥途・呂順入城式』という一冊があって、このひとは幻想文学も書いていたのかと以前の印象を改めた。(このシリーズで、幸田露伴の『幻談・観画談』という本も出ていて、これまたたいへんに面白いですよ。)

ただ戦後の随筆家としての内田百閒と、戦前の小説家としての内田百閒はまるで別人のごとくで、同じ一人の作家として結ぶ糸を見つけることができなかった。別にこの糸が見つからなくても、読者として困ることはないので、随筆は随筆として、また幻想文学は幻想文学として楽しめばよいのだろう。とはいっても何となく居心地の悪いような気がしていた。それが今度新しい「ちくま日本文学全集」で内田百閒の巻が出て、その糸が見つかったように思った。

このちくま日本文学全集は全五〇巻。文庫本と同じ判型で一冊五〇〇たらず、一人の作家の作品をコンパクトにまとめた便利なものだ。あまりにコンパクトすぎるような気もしないではないが、山本夏彦さんも一人の作家は一冊の本で尽きている、その人を知るにはそれで十分だという意味のことを、この全集の推薦文で言っていた。たしかにこの『内田百閒』は大正十年の「花火」という小説から昭和二十六年の「特別阿房列車」まで収録されていて内田百閒という作家、あるいは人間のようすがよく分かる。収録されている作品には戦前のもののほうが多いのは編集者の好みが反映しているのだろうが、それも納得される。

たとえば大正六年の「冥途」という小説は次のようにはじまっている。
 高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。その土手の下に、小屋掛けの一ぜんめし屋が一軒あった。カンテラの光りが土手の黒い腹にうるんだ様な暈を浮かしている。私は、一ぜんめし屋の白ら白らした腰掛に、腰を掛けていた。何も食ってはいなかった。ただ何となく、人のなつかしさが身に沁むような心持でいた。
このはじめの数行で読者は内田百閒独特の不気味な世界に引入れられているのだ。「冥途」という題名が暗示するようにここは冥途で「私」はなくなった父に出会う。父はその一ぜんめし屋で四、五人の連れとめしを食っていて、話し声が「私」に聞こえてくる。そのうちに何だか見覚えのある様な懐かしさが心の底から湧き出して、じっと見ている内に涙がにじむ。父が連れに子供の話をするのを聞くうちに「私」は耐えきれなくなって「お父様」と泣きながら叫んだ。だがその声は通じず、みんなは静かに立ち上がって外に出ていった。
 私は涙のこぼれ落ちる目を伏せた。黒い土手の腹に、私の姿がカンテラの光りの影になって大きく映っている。私はその影を眺めながら、長い間泣いていた。それから土手を後にして、暗い畑の道へ帰って来た。
作品のおしまいも素気無くて、こんなふうに突然終わってしまうのだが、ある種のカタルシスがある。五ページほどのごく短い小説なのだが「私」の父恋いの感情が急速に高まってきて最後に一気に解放されるので印象が深い。残るものがある。

またこの「私」にしても内田百閒の幻想だということもできない。「蜻蛉玉」という昭和四年の小説は「私と云うのは、文章上の私です。筆者自身のことではありません」という書出しではじまっている。ずいぶん人を食ったような一文だが当時の自然主義小説の対極にある文学だと作者も認識していたのだろう。幸田露伴の「怪談」という文章に「人というものは常態の事の円満なのを望みながら、常態の事でない驚くべく怪しむべく畏るべく危ぶむべきことをも見たり聞いたりしたがるものである」とある。こういう気持ちの動きが世間に怪異談のはやる原因だというわけである。内田百閒の小説にしてもおなじことで「驚くべく畏るべき」事柄の報告者として浅薄なリアリズムを忌避する姿勢が見て取れる。作品のなかにとくにこれといってモチーフがないのも内田百閒の小説の特徴である。

振り返ってみると、山口瞳のものを読むようになってから、高橋義孝のもの、内田百閒という具合にちょうど師系をさかのぼるように読んできた。内田百閒-高橋義孝-山口瞳を師系とよぶのは奇異に思われるかもしれない。しかし、高橋義孝は内田百閒を、山口瞳は高橋義孝をそれぞれ先生と呼んでいる。文学の師系というよりも、人生の師といったようなところがある。ただ三人の名前を並べてみ気づくのは、ともに世の中の体制的なものとは反対の側に立っていることだ。年譜によると三十六歳で陸軍教授を辞してから作家生活に入っている。その書くものには世間を斜に眺めたようなところがある。またそれが魅力にもなっている。

昭和十九年の作品(さあこれを何とよべばいいのだろう)に「餓鬼道肴蔬目録」がある。「記憶ノ中カラウマイ物食ベタイ物ノ名前」を探しだして並べたもので、説明はまったくない。

  こいノ洗い
  あわび水貝
  小鯛焼物
  塩ぶり
  ……

などと七ページも続く。まったくの閑文学には違いないのだが、作者が彷彿とする。苦虫を噛みつぶしたような顔で書いたのではないかしら。百鬼園という号で俳句も作った。渋柿をやれと食らへばというような句があったかと思うのだが、この全集には収められていない。

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