成分表87
車窓
上田信治
「里」2018年6月号より改稿転載
もう二十年くらい前のこと。
イタリアで、高い脚立に乗って、家の二階の窓枠を、ペンキで塗っている人を見た。「世界の車窓から」というテレビ番組があるけれど、ちょうどあの番組のように、自分はその人を、小さな町を通過していく電車の車窓から見たのだ。
家はむこうふうの漆喰造りで、まわりは新緑の木々で。塗っていたペンキは、水色だったか藤色だったか、ともかくずいぶん可愛らしい色だったという記憶がある。遠くから見たその人は、ジオラマに使うミニチュア人形のようだった。
電車はあっという間に通りすぎて、自分は、ああ、と思った。たぶん「あそこに人生がある」というようなことを思ったのだ。言葉にすると身も蓋もないけれど。
その人のことは、その後、何度となく思い出した。
もし、あの町に生まれて、一生たとえば郵便局員として働くのだとしたら、それはどのような「生きごこち」がするものだろう。
自分には、それが、まったく想い浮かばない(イタリアだから、郵便局員だからということでは、たぶんない)。無理に、その人のことを内側から想像しようとすると、ぺらっぺらの作りごとになってしまう。その想像のできなさは、うっすらと怖く、かなしく、バカバカしい。
他人の「人生」が「ある」というのは、おそらくそういうことだ。
高野素十の句中に素描される「人間」は、だいたいいつも、そんなあり方をしている。
「他人」が当たり前に、ただ存在する。
内面の見えないその人が「いる」ことに対するかすかな違和、そして、その人の「人生」に対する(なんだろう)おそれとか同情のようなもの。
太藺田の方へ曲つて行く男 高野素十
現代美術家の内藤礼は「すべての動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」というタイトルの展覧会をひらいた。
その言葉はバタイユの『宗教の理論』という本に現れるセンテンスで、人間の意識は、動物と違って、世界に内在しない、だから、神のような至高の存在や聖なるものを求めるのだ、という話らしい。
展示されたインスタレーションは、水やリボンや光線のようなささやかなものを、空間に気配のようにひっそりと配置するというもので、作家は「存在すること自体の祝福」という言葉を使って自作を説明する。それはつまり、人の意識が、水の中の水のようにしっくりと世界にあることに、なんらかの希望や救済を見ている、ということかもしれない。人も、ほんとうは動物のようにただ生きて存在できるはずなのに、と。
素十はいつも、季節の只中にあって何も考えてなさそうな人を描く。その句がはしなくも示すものは、無情の人間が無情の天地に、水の中の水のようにしっくりと存在して見える、そのことに対する、感嘆の「ああ」だったのではないか。
田打鍬一人洗ふや一人待ち 高野素十
0 comments:
コメントを投稿