【空へゆく階段】№59
春の雪
田中裕明
「青」1985年4号・若手作家特集
さかん春のうたげのをはるころ
枕頭の水無瀬のみづのぬるむころ
春の雪けぶりにしめるものならん
春の雪枝垂桜にしたしかり
春暁の雪掃くことを寺男
春風にからだほどけてゆく紐か
春の山のぼらんとして目で合図
畦火は遠し素足は濡れてしまふ
鉄路まだ同じ辛夷か同じ海か
舟寄るはかくもかなしき日永かな
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風景とはいったい何だろうか。
風景は教育すると言うときに風景は変わった相貌を見せてわたしたちの前にある。もちろん風景は教育すると考えてしまうのもわたしたちの志向であって、それも風景が決して美しいものではないことを知っているがためなのだ。風景が美しいのではなくて言葉が美しいのだとはじめから結論を言ったところでなんだそんなことかということにしかならないからいまはからめてから俳句のはなしにする。
俳句で風景をうたえるはずがない。
俳句に書かれてあるのはあくまで風景の暗喩であってそれゆえに美しかったり醜くかったりする。比喩だからその過程が美しいので美しいか美しくないかが価値判断の基準でなくなるときから美しくあるということはただあるということである。風景の暗喩とは何かべつのものの暗喩として風景が語られることかもしれない。
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