【空へゆく階段】№62
入門の翌年
田中裕明
『現代俳句集成』全一巻(立風書房/1996年)
翌年、大学は京都だったので「青」の京都句会に出席するようになり、はじめて波多野爽波先生に出会った。はじめて会う爽波先生は声のやさしい人だった。そして真直ぐこちらの目を見ておられた。
そのころ京都句会は河原町蛸薬師の電力会社の支店の二階、あまり広くない部屋で行われていた。「青」の句会は十句出句の八句選句。三十人を超えると部屋の空気は濁るし、三百句の中には読めない字が多いし、頭痛のすることもあった。京都句会のあとはよく南座の地下の蕎麦屋へ寄った。爽波先生は蕎麦など食べずに板わさで酒を飲んだ。おかげでこちらも出巻で一杯などおぼえ、たいへんな学生だった。
「青」の新人会を「がきの会」と呼んでいて、吉野で合宿をした。この合宿は爽波先生をはじめ「ホトトギス」の若手が虚子を囲んでいた昭和二十年代のそれに因んで稽古会と称していた。リーダーの島田牙城が「青」の吉野からの投句者だった上田善紀にこの稽古会への参加を呼びかけたのである。この稽古会には爽波先生はもちろん、大峯あきらさんにも出席してもらって、じっくりと俳句をつくり、語りあうことができた。俳句の勉強のうえでためになることは多かったが何よりの収穫は上田善紀と出会ったことだと今にして思う。
「青」の三百号を機に島田、上田、田中の三人で編集をすることになった。編集にはまったく素人の学生にすべて任せてしまうとは無謀なことと今なら思うけれども、そのころはまわりも我々もひとつの流れのなかにいたのだろう。爽波先生から話があったとき、三人とも一も二もなく引き受けた。新編集部のあいさつとして末席の自分が「日本一の雑誌を作る」と書いたことも今読めば恥ずかしい。
しかし三人で雑誌を作るのは楽しかった。夜中まで仕事をした。馬鹿話のあいまに議論がまじった。贅沢な時間だった。
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