2022-03-26

田中裕明【空へゆく階段】№64 花照鳥語⑤ 万歩計

【空へゆく階段】№64

花照鳥語⑤ 万歩計

田中裕明
「晨」第71号(1996年1月)

「健康という名の病い」とでもいうべき現象が世界の先進国に共通に広がっている。などと大仰に書き出しましたが、それほどにいわゆる健康ブームは根強い信仰にも似たものになっています。嫌煙権、ジョギング、菜食主義などその症状はいろいろだが、社会のあらゆる層、すべての年代に蔓延している。

そういう状態は人間の精神や社会にとっては不健康であるように思われる。不摂生を罪悪のようにとらえるのがおかしい。もっと生き方の多様性を認めよ、とは言いながら先月万歩計なるものを買ってしまった。

勤め先で「健康マラソン」なる活動がはじまり一日一万歩を歩くことを構成員にすすめているのである。いよいよ企業が個人の健康まで指図する時代となった。

まあそれはともかく、この万歩計なるものはなかなかよくできた玩具です。腰にクリップで止めて歩けば、なかのセンサが振動を感知して歩数を計る仕掛け。マイクロコンピューターも内蔵していて歩数から歩いた距離や消費したエネルギーを計算する。昔の万歩計は振子と回転する表示装置でできていたのが、いまはマイコンのおかげで正確な数字が表示されるようになった。

この万歩計をベルトにつけて朝、家を出る。ときどき蓋をあけて歩数を見る。歩数の少ない日は帰りのバスに乗らずに歩くこともある。小さな万歩計に歩かされているわけです。

すなわち健康の神格化は結果的に大衆化をひきおこしている。「いのち」という言葉が安易に用いられ、それが肉体的な健康だけの意味でしかないような錯覚さえうける。また、お互いの健康状態を確認しあうことが日常的な挨拶の言葉となった。

多様なものが失われている。画一的に健康であることが求められている。健康に良いからという理由で俳句をはじめる人も出てくるだろう。

一方で贅沢なものを排除しようとする動きも、健康を善とする考えから来ているように思われる。清貧の思想とは現代のダイエットと似たようなものではないのか。

昔の日本人には健康よりももっと大切なものがあった。それが失われて、現代では健康信仰がとってかわったように見える。それも他人にまで健康を強制するようなかたちで。

かつての旅は歩くことだった。芭蕉が「古人も多く旅に死せるあり」というときには、西行や杜甫などの生涯を想起している。彼らの旅は万歩計で測ることのできるものではない。他人に健康を強制するような社会では、ひとは旅をすみかとすることはできません。旅というのは本来、画一的なものとはほど遠いものだから。三里に灸をすえるのは健康のためではない。


≫解題:対中いずみ

0 comments: