2022-04-17

田中裕明【空へゆく階段】№67 家持の一首

【空へゆく階段】№67
家持の一首

田中裕明

「晨」第1号(1984年5月)

春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも

家持以前には誰もこういうことをうたわなかった。そうだろうか。そうかもしれない。しかしながらそんなことを考えるとき、ぼくの前にたちあらわれる家持の目鼻だちを見るとあまりにもモダンすぎてかえっておもしろくない。もちろんぼくにとって興味ぶかいのは、万葉人としての家持ではないのだけれど、また近代人としての家持でもない。文学史的な時代区分には掬うことのできないうら悲しという気分が漂遊する家持という輪郭である。うら悲しという句を(そして、何となく悲しい心持ちがすることだ)と青年折口信夫は翻訳したけれども、たしかにあと一歩でライトヴァースと呼ばれるにしくはないところにこの歌はあって、そういった意味で古風である。ライトヴァースが古風だと言えばまちがいで、日本の言葉がその洗練の極にいたったのが平安朝ではなくこのうら悲しという句においてならばだから古風だと言ってもよい。実際には平安朝を文明と呼んだときにそれを同じものを万葉のひとびともそなえていたとは言えなくて、ひとり家持だけがうら悲しと言った。それならばこの歌は新しいということになるのだろうか。家持が万葉集巻十九の最後の三首をうたったとき、ひとびとは誰も聞いたことがないことを聞いたと思ったにちがいない。そう思ったひとびとのことを考えて、ぼくはもういちどライトヴァースという言葉を思いうかべる。


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