2022-05-15

田中裕明【空へゆく階段】№70 涅槃図と菜飯 光茫七句

【空へゆく階段】№70
涅槃図と菜飯 光茫七句


田中裕明

「晨」第55号(1993年5月)

つちくれを拾わむとしき春の暮  永田耕衣

句集『狂機』より。

後記に「感動の全質量を喫水線下に深く持続保全しながらの表現的平面を《平明》と称揚し、更に哲学的平常底を機して《平機》と呼び馴らしてから、丹田的に《平気》を讃頌したい気合いがうごめいて居た。」とある。すなわち狂機イクォール平気ということか。

頭書の句の所作もごく平常のもののようでもあるし、風狂のしぐさであるようにも見える。春の暮という季語がブラックホールのような巨大な質量をもって迫ってくる。つちくれを拾ったのか拾わなかったのか、大きな疑問符が暮れがたの空に浮かんでいる。

以前本誌にも耕衣俳句について壮大なる幻術と書いたが、この句集でも印象は変わらない。


夜空より辛夷の花が落ちてきし  長谷川櫂

句集『天球』より。

どうすれば人は季語に出会えるのだろう。その答えがこの句集には隠されていた。「花びらのひとひらとゐる真鯉かな」「ひとつづつ冷たく重く蚕かな」などかな止めの作品にとくにその気息を感じた。

長谷川櫂の俳句の中には時間は流れない。これは大きな強みだろう。中途半端に時間の経過を描かず、大ぶりな切断面で世界をうつしだしている。

辛夷の花の特殊な一面を表現するというのはなく、いまはじめて辛夷の花の本然に出会う。そういうていのものだ。ことばにたるみがなく、イメージがひろがる。地には白い花びらがあり、夜空はあくまで暗くひろがっている。


閒石とご署名のある余寒かな  黒田杏子

「藍生」三月号より。

一連の作品は「雛の夜」と題されている。表題作は「なにもかもむかしのままの雛の夜」という。時代はうつりかわっているけれども持続しているものはある。都会の雛祭はずいぶん様変わりしたかもしれないが、都市化の波の寄せぬところには昔のままの雛祭と、それを心待ちにする女の子がいる。いや都会の雛祭だって人形を飾り桃の花を生ければ昔のままなのだ。杏子作品はそういうなつかしさに通底している。

頭書の作品は橋閒石氏への悼句。「豆腐菎蒻同門にして囀れる」「寒の松見上げ黙つて出かけたり」という独物の諧の句を示された作者への追慕のこころがにじんでいる。余寒という季語も、淡い上十二とともに故人にふさわしい。


射干を植ゑたき墓と思ふのみ  木田満喜子

句集『秋の宮』より。

これも既に書いたことがあるが、木田満喜子の俳句は思い切りがよい。同じ句集のなかに「大厄を落すに傘のしとど濡れ」「この母の秋の昼寝のながかれと」など、一句にこめられた思いは深いものがある。それでいて、作品はウエットにならずに読者に響く。

頭書の句も描かれてあるのは一基の墓だけだが、作者にとって深いえにしがあることは明らかである。夏のさなかに墓参にきて、故人に語りかけることどもも沢山あった。墓地のあたりの様子、新しい暮石なども作者の心に触れたことだろう。しかし一句はそれら一切を消し去ってぽつんと独語のような表現にとどめられた。作者が自分の心を覗きこんでものした痛恨がうかがえる。


午からの苗いろの潮七五三  友岡子郷

合同句集『青く翻る葉』より。

椰子会の三十五周年を記念して合同句集が編まれた。関西のユニークな同人誌「椰子」も三十五年と聞くと持続することの困難さと大切さをあらためて感じる。

同じ句集に「草いろの市電のむかし雲の峯」「明日ありて虹の半輪蔵ふなり」など明るいパステル画のような色調の作品が多く見られる。作品の思いは回想にかたむくこともあるし、未来へ展けることもあって楽しい。友岡子郷の俳句も三十五年余の歳月を経て、非常に自由な場所へ出現した。

頭書の句も晩秋の、それでも明るい海上を展望した色彩感にあふれる作品。七五三という季語が写真の定着液のように、想像された潮の色を俳句に固定している。


涅槃図しまふ二本のこりし太柱  能村登四郎

「沖」三月号より。

ここ数年のことか、あるいはそれ以前からのことか、俳句つくりの世界では老境の作品が面白い。能村登四郎もその一人で、昨年の句集など滅法たのしい俳句が目白押しだった。

けっきょくモノの面白さなのかとも思う。涅槃の句にしても、涅槃図を描くわけではない。涅槃図を仕舞ったあとの空間に太柱を二本配置している。モノがアルのかナイのか。そこに面白さが生まれる。

作者の俳句はどちらかと言えば地味だし、なかにははっきりネガティヴな指向のものもある。同時発表の「雛の間にのべて衾の貧しかり」「雛寿司に刻めるもののかくこまか」なども負の面白さにあふれている。


泣く女菜飯を食へばこぼしけり  岸本尚毅

「碧」三月号より。

こうして能村登四郎の句の次に岸本尚毅の作品を採り上げると、その同質性にあらためて驚くことになる。モノの面白さ、負の面白さという評言がそのまま尚毅俳句にもあてはまるのである。

ただもし弱点があるとすれば人物の描写にある。あまりにも人をモノ化するためにややステロタイプになってしまう。しかしこれも造りものめいた負の面白さがあって捨てがたいのだ。

頭書の句も「泣く女」とはよくも言ったり。この残酷とも思える視線が一句に強い骨格を与えている。

同時発表の「夫婦とはならぬ男女や白子干」「真黒な顔がわらへば接木翁」も同じ。


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