2022-06-05

田中裕明【空へゆく階段】№73 私家集から詞華集へ―現代俳句展望

【空へゆく階段】№73
私家集から詞華集へ―現代俳句展望

「晨」第39号(1990年9月)
田中裕明


『万葉集』の出現以来、日本の詩歌を大きく突き動かしてきたのは、アンソロジーではなかったろうか。もちろん、個々人の作品集、とりわけ画期的な私家集の重要性は決して軽視できないことを承知の上でこう言っている。

夏石番矢は『現代俳句キーワード辞典』の冒頭をこうはじめ、つづいて「作品群を編集する者の世界観が映し出され」た「有意義な詞華集」として、「『古今和歌集』や『新古今和歌集』、俳諧の芭蕉七部集とよばれるもの」をあげている。これらの点については異論はほとんどあるまい。かえって現代では、非常にオーソドックスな考え方だということができる。

丸谷才一は、『日本文学史早わかり』のなかで、「日本は世界一の詞華集の国だった」といい、「ところが明治末年以後、われわれの文学はいきなり詞華集のない文学になってしまった」と看破した。だから夏石が、いまあらためて、「近代以降現代にいたるまでの詩歌、とくに俳句には、残念にもすぐれたアンソロジーが欠けている。」といっても、べつに驚くほどのことはない。明治末年以後の日本文学史にすぐれたアンソロジーが生まれない理由を、丸谷はきれいに分析している。それは日本の社会が宮廷文化と断絶すると同時に、西洋から反伝統的な個人主義の文学、ことに小説が入ってきたので、日本人は詞華集一般を忘れてしまったというのである。ただ丸谷は、「われわれの文明」の「僅かばかりの希望の種」として「カード形式の小詞華集、『小倉百人一首』」と「俳句の歳時記や季寄せ」を上げている。たしかにこれらはある趣味のもとに編集されたアンソロジーで、しかもわれわれに馴染みが深い。

『日本文学史早わかり』の巻末についている年表の、詞華集の欄の、もっとも現在に近いところには、高濱虚子『新歳時記』の名前が上がっている(ちなみに同じ年表の私家集の欄の最後は、久保田万太郎『流寓抄』)。ところが夏石は、歳時記は「疑似アンソロジー」であって、そう呼ぶ理由は「すでに数多くの無季の秀句が生み出されているにもかかわらず、季語を中軸とする編集方針が基本的に疑われていない」ことにあるという。ここでは、俳句における季語の働きや、無季俳句の位置付けなどについては議論しないで、ただ、歳時記が俳句のアンソロジーとなりうるかどうかについて考えてみる。

結論から先に言えば、歳時記は現代においてもりっぱに俳句のアンソロジーということができる。その理由の一つは、歳時記が俳句の作者というだけでなく、ひろく日本人に読まれている読物であること。詞華集の作品は共同体(この場合は日本の社会)に受け入れられることによって初めて、アンソロジーピースとなるのである。百人一首と同じだけの普及率とは言わないけれども、日本で歳時記を備えている家庭はかなりの数になるのではないだろうか。そしてもちろん、これは俳句を作る人口が多いということと関係がある。もう一つの理由は、歳時記がそのなかに収めた俳句作品についていろいろと批評していないことである。これは意外に思う人がいるかもしれないが、詞華集としてみたときには重要な要素なのである。もともと歳時記は俳句を作るときのガイドブックとして使用されることを目的としているので、例句には批評を加えていないものがほとんどである。そしてそこに取り上げられる作品は、どちらかと言えば、おとなしい、伝統的な色合いを濃くもつものになりがちである。それが、歳時記を典型的なアンソロジーとした要因である。丸谷は「詞華集的人間」を定義して(『日本文学史早わかり』)、アンソロジーを編集するに適した人間は、まず自分が所属する共同体との折合いがよくなければならないと言った。鋭い批評眼をもった人間は詞華集の編者には向いていないということかもしれない。

歳時記と批評ということについて、すこし余談をすると、歳時記ほど批評されない本もめずらしい。歳時記も言葉を集めた本で、そういう意味では辞書の一種だから、辞書が批評を受けることが少ないのと同じように、歳時記も批評されない。批評されないジャンルは、やがて滅びるから、間違い捜しではない、歳時記の批評が生まれるのを望むものである。『現代俳句キーワード辞典』も歳時記批評の一つには違いないのだが、やや議論があらい。

定型詩は詞華集に適した形式だろう。どうも自由詩はアンソロジーになじまない。大岡信の『折々のうた』は、おそらく現代においてもっとも広く読まれている日本の詞華集だが、これに収められている作品は、俳句や短歌などの短い定型詩がほとんどである。新聞紙上に掲載されているという紙数の制約もさることながら、詞華集には定型詩が似合うのである。それは俳句や短歌などが、短くて口調がよいから、そらんずることがたやすいという理由もある。アンソロジーピースというのはまず記憶されなければならない。また定型詩というのは、どちらかと言えば伝統的で、「詞華集的人間」の好みに合うのである。のんびりとアンソロジーのページをめくっていて、急に尖鋭な自由詩に出会うのは困る、危険なのだ。それならば自由詩は、詞華集よりは私家集に向いているのだろうか。それはそうだろ、個人の詩集の読者は、その作者の詩についてあるていどの予備知識をもっているから、内容や形式のうえでの冒険に対してめったに驚かない。文学的な意味で危険な作品も、そこでは容認される。

俳句はすべて、典型を目指すものだということから、アンソロジーピースと呼んでもかまわない。それならば、詞華集には似合っても、個人の家集にはふさわしくないということが言える。和歌の時代に公の勅撰集に対して、個人の家集を家の集と呼んだのも、一人の作者の和歌を集めて並べることの、誉められぬことをしているようなかんじを表しているのだろう。作品は選者に選ばれて、編集されて初めて完成する。そうでない自分の作品は家の集として秘匿しなければならない。本来の事情はこうだったのではないだろうか。それが現在では、個人の歌集、句集が主流となっている。俳句が共同体のなかで普遍性を獲得するには、詞華集というかたちが最も適しているかもしれないのに。いま、アンソロジーの復権を叫ばねばならない時期だ。私家集から詞華集へ。そこで私達は作品の再生を見るだろう。


≫解題・対中いずみ

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