【空へゆく階段】№77
特別作品評(第六十二号より)
田中裕明
「晨」第63号(1994年9月)
さう言へば不仲なりけり豆の花 岩城久治
さう言へばとじっくりとためて、不仲なりけりと深く息を吐く。そんな呼吸が句に面白さを作りだしている。散文で言えばこうあっさりとはゆくまい。人と人の関係のどうしようもないことの悲しさ、また一面でのおかしさを絶妙に描く文体である。豆の花という季語もさりげなく内容をうけている。
擂粉木のぶつきら棒を春の暮 岩城久治
俳句でしか表現できないものがある。うたわれているのは擂粉木と春の暮。春の暮に擂粉木を眺めたってどうということはないのだが、擂粉木の存在を感じているうちにぶっきら棒という言葉がうかんだということか。
あまり読者に対して説明せず、あとは響きに耳を傾ける風情。親切な俳句が良いとはかぎらないのだから。
灌仏の胸のぬばたまびかりかな 岩城久治
「ぬばたまびかり」は造語と言えば言えよう。しかし自然に納得できる言葉である。
ぬばたまびかりという把握によって灌仏のありさま、周囲のようすまでが想像が可能となる。
今回の特別作品は、「日々大切」という題にも作者の覚悟があらわれていたように思う。
すかんぽの径潮の香につき当る 奥名春江
海の近くでもあろうか。すかんぽの生えている径を歩いていると不意に潮の香りがした。それを潮の香につき当るととらえたところが手柄である。
「赤ん坊のにぎり拳や五月くる」「朝市の鰯の反りも立夏かな」いずれも季語の用法がたくみで、頭書の作品に共通する驚きがある。
雨樋に家紋のありし柚子の花 奥名春江
家紋のありしが惜しい表現である。単なる報告から詩へ昇華する途中で失速してしまったか。
内容は面白いし、配する季語も的確なのだけれども。
村つなぐ径のひとすぢ朴咲けり 奥名春江
村と村をつなぐこみちが一本きりだというだけで、どんな村なのかは十分に描かれている。それだけでなく二つの村のこれまでの来し方に思いをはせるという働きを、作品はもっていよう。
型に入りて型を出るということを私たちは何度もくりかえさなければならない。奥名氏の詩型にも、その志向を感じる。
≫解題:対中いずみ
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