【句集を読む】
春が来る、春へ行く
歌代美遥句集『月の梯子』の一句
岡村知昭
番号が付いた部屋まで春が来る
「番号が付いた部屋」となると、まずは病室が思い浮かび、あとはマンションの部屋とか、ビルのテナントといったところになるだろうか。この一句において「春が来る」との感慨にふけっている人物は、普段は「番号の付いていない部屋」に暮らしているのだろう。自分の持ち家、一軒家だと考えられる。そうでなければ、わざわざ番号の有無にこだわりを見せたりはしない。自分の家とは違う「番号の付いた部屋」にたたずみながら、今年もいつものようにやってきた春を感じ、身をゆだねて、全身で受け止めようとする姿は、まっすぐで、心地よくて、微笑ましい。
一句の中で「番号」が出てくる作品はいくつか見たことがあるのだが、それは「自分には名前があるのに番号で呼ばれて、何か違和感があった」との意味合いのものだったように思われる(自分の虚ろな記憶の賜物なのでご容赦)。確かに「~番さん」と呼ばれるのは、いくら当たり前の日常になってすっかり溶け込んでいるとしても、どこかで「自分には名前がある」との気持ちを呼び起こしても来る。部屋に付けられている番号も、一応は「~号室」と覚えてはいるものの、その部屋の住人であったり、組織であったりと、番号ではないところが大事になっていて、番号では案外覚えていなかったりするのである。住所を書かねばならないときに「そういえば何号室だったかな」とはなるのだが、意識するのはそれぐらいだろうか。
だが、この一句では「番号」によって、自分が、誰かが、部屋が取り扱われている現実に対して、「名前があるのに」といった気持ちは一切出ていないように見受けられる。ただひたすらに「春が来る」との喜びだけを描いている。春が来て、私はここにいる。私は確かに、春を迎えようとしているこの場所で生きている。「番号の付いた部屋」がどのようなところなのかを一切書いていないのも、いまここにいる自分にとって、書く必要がないから書かかい、との姿勢で臨んでいる。手あかがついているのは承知のうえで、「自然体」との言葉が最もふさわしく感じられるほどである。
さらにいうと、この一句の書きぶりもまた「自然体」と呼ぶにふさわしい。推敲してしまえば、たとえば「番号の付きたる部屋や春来たる」といったような形にまとめ上げるのは、そうそう難しくはない。句会で提出されたら、取らなかった理由として挙げる出席者もいそうである。だが、この一句においては「付いた部屋」「春が来る」との書きぶりが選ばれた。それは「自然体」という言葉すらはねのけるぐらいの自然さによって書かれた一句にとっては、あまりにも必然で、当然の選択だったのだろう。ここは「番号の付いている部屋」で、春はもうここにも来ている。ただそれだけ、しかしそれだけを書き切って、隙だらけのように見えて、隙がない。そんな一句の力強さは、読み手に春の訪れを十二分に伝えきっているのである。
奈々奈々と奈々を呼び捨て蒸鮑
耳栓をして死の気分桜の芽
ばかに長きフェイク睫毛や花は葉に
番号の一句を味わってからこれらの句に触れるとき、ああ「自然体」だなあ、との思いがますます強くなるのを感じずにはいられない。食事の席で相手を何度も呼び捨てで呼んでみたり、耳栓をして「死ぬってこういうことかしら」なんて気取ってみせたり、フェイク睫毛(付け睫毛でないのだ)の長さに呆れたりしながら、どの句においても、そのままに、その通りに書き切る姿勢に変わりはない。この書きぶり、また月並な言い方であるのを承知の上でいうと「衒いがない」が適切なのかもしれない。
「番号の付いた部屋」で春を体いっぱいに受け止めたこの方は、部屋を出ても、きっと春を体いっぱいに味わい続け、物思いにふけるなんて気取ったことなどせずに、春の街を闊歩していくのだろう。そして、また何かと出会ったら、そのままをその通りに受け止めて、書き留めていくのだろう。
全世界受け止めており炬燵から
炬燵を出て、春へ出よう。その誓い、ただいま実行中。
歌代美遥句集『月の梯子』2022年10月/邑書林
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