川村秀憲・大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』を読みながら、秋の休日をすごした。
小津夜景
1.
ワープロというものが出始めたころ、うわ、なんて怖い道具なんだ、と思った。だってそれがあれば、いまだ形にならないもやもやした考えが、いくらでもディスプレイに転写できるんだもの。またその可視化されたもやもやをざっと見渡し、あたりをつけながら自分の考えの核を切り出し、思考として造形してゆく作業も、紙に書いていたときと比較にならないくらいかんたんにできてしまう。
紙にしろ、ワープロにしろ、こうした道具はいわば脳の外付けのハードディスクであり、それが貴重だったり存在しなかったりしたころと比べると、生身の脳にかかる負荷は圧倒的に減った。
逆に言う。考える時、頭の中に形づくられつつあるものをいったん書き出し、それを足掛かりとして何かを導き出そうとするのは編集的発想である。だが考えることそれ自体は編集する/デザインする技術とイコールではない。思考の本領は、思考以前として存在する混沌に身をゆだね、そっと息をひそめて、世界ともいえぬ世界にじっと耳をかたむける曖昧な時間にあるのだ。
2.
とはいうものの、思考以前の混沌を一種の神秘として扱うのはつまらない。そこで川村秀憲、大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』を読んでみた。川村は俳句という切り口から知能とは何かを研究している学者で、研究が進むにつれて「そもそも人間は言語をどのように生成するのか」といったより深い問題につきあたり、混沌たる非線形運動をプログラムによって表現することを試みるようになったという。その欲求を、川村は次のように明快に語る。
川村 人が創作すること、私が『創作をする機械』を創作すること。この両者の関係を考えていくと、もしかしたら、知的な興味、人間だけがもつ『知能』に関わる、きわめて根源的な興味という点で、両者はつながっています。(…)私もそうですが、われわれは何をしているのかを知り、われわれの営みについての解釈をアップデートしたいのだと思います。
われわれは何をしているのかを知る。なんと魅力的な問題設定だろう。ただ「人はなぜ俳句を詠むのか」というタイトルは少し厄介かも。ほかの文芸ジャンルと違って、創作欲以外の動機から俳句をやっている人が少なくないことは、その尋常でない広がり方を見れば一目瞭然なのだから。自然と触れ合え、歳時記や土地の歴史を学べ、仲間ができ、足腰が強くもなれば頭の体操にもなり、さらには日々の歩みを一冊の本として上梓することもできる結構尽くめの趣味。文化活動としての俳句とはこうしたものだ。
そこで俳人・大塚凱の出番となる。大塚は川本のテーマに見合うよう、季語とは効率的に情報を折り畳むためのtips(こつ)であり貨幣のように流通するとか、俳人にはエンコードとデコードの手捌きを楽しむ気質があるとか、知を共有・調整する歳時記の役割とか、言語と創作の面にかかわる俳句の基本設計および俳人的資質をさまざまな言い方で整理し、その上で「俳句とは、その異常な短さという形式と闘い、形式を往なし、形式を味方につけようとした人間たちの『わざ』の蓄積です」とまとめる。
とりわけ興味深かったのは、AI同様、人間にとっても俳句を詠むこと自体には意味がない、それは意味ではなく挨拶、つまり存在を問う営みであるといった大塚の発言だ。もちろん、この考え方自体は俳人にとって周知のものだろう。ところがAIが俳句を読むことの意味とそれを照らし合わせたとき、周知の概念は新たな相貌をもつのである。
大塚 AIで俳句を詠むことに意味があるのか。その問いには、「ない」とも答えられます。なぜかというと、人間が俳句を詠むこと自体に「意味がない」と思っているからです。人間が俳句をつくるのも、AIで俳句を生成するのも、同程度に無意味であるという把握です。しかしながら、これは無駄に虚無的なように聞こえるでしょうし、少々微妙な言い方なので、すこし方向を変えて、私は俳句と関わることにすこしでも意味があるとしたら、なんだろうと考えているうち、「存問」ということに思いが至りました。これ、「あいさつ」という意味で、高浜虚子は「俳句は存問である」といっています。俳句とはつまり、あいさつである、と。
俳句をつくることには、AIと同じく意味がない。しかしその奥にはAIとは違う欲求がある。それは過去を、未来を、そしてここにいる自分をも含めた「世界という存在」への声かけへと近づいてゆく。あなたはそこにいた。わたしはここにいる。いつかここにくる誰かよ。俳句の異常ともいえる短さが、ただ存在を問うという営みをさらに加速させる。書けば書くほど、自分は存在の徴(しるし)を確かめつづけているのだと気づく。だがそれはなぜだろう。存在の確認が、幸福への願いと重なるのだろうか?
3.
この本の面白さは、人工知能や俳句の枠を超えて「つまりものをつくるとはどういうことなのか?」をめぐる対話が、それぞれの現場の実感をもってして繰り返し交わされているところにある。多くの場合、その語り口は逡巡的かつ仮説的であり、あくまでも正解を手探りする奥ゆかしさがある。その反面、倫理的な領域にふみこむ箇所は腑に落ちないものがあった。
例えば「AI俳句」と聞くと、おそらく多くの人は「俳句を詠むAI」を想像すると思う。が、川村氏の思い描く「調和系」の未来はもっと彩り豊かで、人が俳句をつくるのを添削したり、推敲を手伝ったりとアシストするようなAIをひとつの理想のモデルとして語る。
川村 AIが将来、どんな存在になっていくのか。人間がAIに取って代わられるとか、人間と対立するとか、SFが描くディストピアによく出てくるのですが、それはやはり絵空事で、現実には、人工知能と人間が、お互いに不可分な一つのシステムとして存在していくと思います。そのほうが望ましいかたちでしょう。「生きる」意味は、人間側にしかないので、それが人間から人工知能に移っていくことはあり得ません。私の研究室には「調和系工学研究室」という名前が付いています。その「調和」は、人と機械、人間と人工知能の調和です。お互いに必要な存在として調和することで、これまで得られなかったような幸せが生まれると考えています。それは、例えば工場で何かを製造する過程での調和かもしれないし、俳句のような娯楽をともにたのしむことかもしれない。大きな枠組みでいえば、人間の精神的安定や生活の質的向上に、人工知能が寄与するといっていいでしょう。(…)
個人的な実感では、人間をアシストするものとしてのAIが、生きるために必要ではない些事にまでことごとく介入し、社会と溶け合っている時代はすでに隆盛をきわめ、人間は自力でものを考え抜くポテンシャルを深刻なまでに失っている。しかも川村氏が想定するのは今より格段に進んだモデル、さながら子と話す母や、夫と長年連れ添う妻が、子や夫が自分たちでうまく言語化できないことを本人に成り代わってサジェスチョンしてあげるように、AI先生が俳句を書きたい人の「胸の中の思い」を介助する世界だ。膨大な型・例句・句評を記憶し、指導のノウハウを搭載したAI先生が、利用者からのフィードバックを日々分析し、SNSやネットショッピングの履歴から各自のこだわりのテーマやフィーリングを識別し、洞察をまとめて相手の嗜好に合った、おすすめの添削サーヴィスを提供するわけである。
こうした「人とAIが一体となったシステム観」は、それによって人間を確実にマインドコントロールへと追い込むことが可能なそれと寸分たがわない。政治・宗教・教育・商業、何につけ、人間の心は刷り込みに弱い。有形無形の暴力によって、かんたんに知性を破壊され、「生きる」意味を奪われ、自滅していく。
私は「人工知能と人間が、お互いに不可分な一つのシステムとして存在すること」や「人間と人工知能とがお互いに必要な存在として調和すること」を悪だとは全く思っていない。けれども仮にそのシステムが成立するとして、その是非にかんする考察を一切すっとばして、その状態を「幸せ」と表現したり、人間の知性の壊れやすさに無頓着でいられたりする態度は知的じゃないと思う。来るべきサーヴィスは、おおよそ無私でも公共でもないのだから。
4.
おまけ。この本に触発されて、私も自分自身のために、言葉というものが世界に対してどのような位置にあるのかを、ぼんやりと考えてみた。
言語とは、果てしなく広がる非言語領域から、なけなしの一部分を編集的に切り出した粗略な体系にすぎない。さながら音楽が、耳が潜在的に体験している万象にくらべて粗略でしかないように。そしてこの意味で、混沌の領域は確実に存在する。記号は可能性を生み出すとともに、不可能性も生み出すのだ。これからも人は記号の向こう側を想像してやまないだろう。
世界は豊かな原生林であり、私はつつましい庭師である。私は世界を自分好みに剪定できるわけではない。それでも、なんとかして、記号の向こう側にある徴(しるし)を、記号の端にからめとって持ち帰ろうとする。原生林に身をゆだね、そっと息をひそめて、コントロールのきかない空間で17音の連なりができあがるように仕向け、一句が育つのを待つ。できあがった一句を覗き込むと、そこに書かれているのはいつも同じ。「この世界は存在するか?」という問いだ。
川村秀憲・大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』2022年3月/dZERO
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