2023-05-14

句集を読む  タマシイと句集2冊 『ぜんぶ残して湖へ』(佐藤智子)と『見えない傷』(北大路翼)の一句 上田信治

 句集を読む

タマシイと句集2冊
『ぜんぶ残して湖へ』(佐藤智子)と『見えない傷』(北大路翼)の一句

上田信治

「俳句四季」2022年6月号「忙中閑談」改題


 「自分は、路傍の犬を見て『おお、そこにタマシイがいる』と思うことに、まったく抵抗がない」といった内容のことを、思弁的なエッセイの書き手だった池田晶子が書いていて(雑誌で見たきりの文章で、正確な引用ではないのだけれど)それは要するにどういうことなのだろうと、ずっと考えている。

そして同じように、日々出会う俳句を自分が「いい」と思う、その思いかたについても、ずっと考えている。

俳句は、数限りなく生み出され、ほとんどが記憶されず消えていくものだけれど、自分は、俳句史上に残る名句たちと、日々の句会や新刊句集で出会う句を、まったく同じ資格の「良さ」を持つものとして読んでいる。

それは、今出来(いまでき)の句を「甘め」の基準で見ているというのでは全くなく、ただ、過去の名句と日々出会う句、それぞれを、まったく同じように熱狂的に「いい」と思う。

それは、俳句に限らず、あらゆるジャンルの「現役の」受け手が、経験することだと思うのだけれど、なぜそういうことが可能なのだろう。

つらつら考えていて、それは、私たちがすぐれた表現に接するとき、池田晶子が犬を見るのと同じように「ここにはタマシイがある」というふうに感じるからではないかと思い当たり、つまり、自分は、二つのお気に入りの「問い」を、一つのこととして考えるチャンスを得たわけだ。


 時計屋の時計春の夜どれがほんと 久保田万太郎

この四音の「春の夜」が、この位置に置かれたことのおどろきは、今日でも色褪せることなく、神が人の手をとって書かせたような句だと思う。

定型をなじみきった道具のように使う万太郎が、この不思議な句の作者であることにも、改めておどろくのだけれど、そういえばこの句、現代的だけれど、万太郎らしい俗謡を思わせるような口吻でもある。浜口庫之助っぽいとでも申しますか。

 目を上げてしんじゅく淡い秋の雨 佐藤智子
 
地名+雨は、ムード歌謡の定番でもあるけれど、四音の「しんじゅく」と三音の「淡い」が、前後の文節を含め、ゆるく切れつつつながっていて、とりわけ「しんじゅく淡い」という文語でも口語でもない語が生まれていることに驚く。

このフレーズは、ちょっと前例がないと思う。

しんじゅく」の仮名書きは、無音で「しんじゅく」とつぶやく主体の、砂糖菓子が崩れるような身体感覚の表現だろうか。

句集『ぜんぶ残して湖へ』(二〇二一)より。


 鳥わたるこきこきこきと罐切れば 秋元不死男
 
オノマトペは、この句にあって、時間と運動を表象している。鳥は「こきこきこき」の時間の幅を飛ぶのだし、その引っかかりつつ進む体感は、鳥が翼を駆って飛ぶ動作とパラレルで「」はそのようにして具体物でありつつ、同時に、主人公がその鳥を見ていない(下を向いて罐を開けている)のだから、思いっきり心象的で、つまり、はじめから鳥なんか飛んでいなかったのかもしれない(すごい句だ)。

 弁当は仔猫の重さ秋桜 北大路翼

 「弁当」と「仔猫の重さ」の二重写しが、愛しい命、といったものを浮かび上がらせるわけだけれど、そこに「秋桜」が加わると、死の影のようなものが呼び込まれる。

それは、反復される水平の感覚(コスモスはだいたい同じ高さに咲き、弁当は横置き)と、そこにはいない「仔猫」の体重→死にやすさに連想が働くゆえか。「ただ手の上に水平にある仔猫の重さ」と言い換えてみると、その不穏さ、不吉さが伝わるだろうか。

コスモスが、もともと、秋の明るさと暗さを同時にもつ季語だと再認識する。

弁当
秋桜が、冷えでつながって、そこに仔猫の温(ぬく)さが、重なって消える(仔猫はいないので)。作者の句は、このレベルの構造を獲得していることがあるので、油断ならない。

句集『見えない傷』(二〇二〇)より。


ところで人が、犬や俳句を見て、タマシイを感じるのは、目の前の「それ」に「この自分」の中の「自分」と、同等のものを認めているからだと思う。 

タマシイはきっと等重量なので、私たちは、過去の名句と同時代の俳句を、同じ資格で読むことができるのではないか。


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