「成分表88」の修正について
経緯・謝罪・キャンセルカルチャー・その他
上田信治
先週号に掲載の「成分表88 NG集」について、堀田季何さんから筆者宛のメールで、少数者に対する差別を肯定するものであり著者の人権意識を疑わざるを得ない、という厳しい指摘をいただいた。
それは、あるコメディ映画の、性的マイノリティのキャラクターが登場する一場面について書いた文章に対する指摘だった。
当該記事は「里」2015年10月号掲載のテキストを改稿したものだが、堀田さんは、続いてのメールで、「里」掲載のオリジナルバージョンには、そこまでの問題を感じないとコメントして下さっている。
つまり、先号の「週俳」掲載のかたちに改稿する際に、自分は「筆を滑らせた」わけだ。
「バカ」という言葉と「同性愛者」という言葉を不用意に並列することで「バカ」の「同性愛者」を文中に存在させてしまった。
「バカの同性愛者」は、『俺たちニュースキャスター2』で、デイビッド・ケクナーが演じるキャラクターの属性である。
そのキャラクター(カウボーイハットをかぶった巨漢で禿のスポーツキャスター)の存在だけでも、この映画は「有罪」なのかもしれないが、じつは、そのチャンプと呼ばれる男性は、自分の性的傾向を自覚していないのではないか、という含みがあった(だから問題がないというわけではもちろんない)。
当のコメディ映画にも、その属性を笑いものにすることにとどまらない複雑性があったにもかかわらず、自分はそれを「差別を楽しむように指示された場面」であるかのように単純化したかたちで再現し、それを面白がって見せた。
その不用意さは、堀田さんの指摘の通り、自分の人権意識の低さが露呈したものであったと認めざるを得ない。また、そのテキストは、差別表現自体と同等の加害性を持つものであったと認め、加筆と修正を行った。
マイノリティに対する差別と攻撃が、つねに愚弄と嘲笑という形式で表現されてきたことを忘れた、許しがたい無神経さであったと思う。
改稿前の当該記事が、社会的に不適切であったことを、あらためて謝罪します。
○
では、なぜ、問題のあった記事を取り下げることをせず、部分的な表現の修正にとどめたのか。それには二つの理由がある。
一つには、自分は、俳優・デイビッド・ケクナーに同情していて、彼がその場面で実現したものを語っておきたいと思っていたから。もう一つは、いわゆる「キャンセルカルチャー」について、自分なりに考えるところがあるからだ。
○
(以下の段落は、堀田さんに返信として書いたメールのテキストを元にしているので、口調が変わる)
(…)
問題の映画は、ほとんどの場面において、メタ視点による後退が可能なように作られています。
たとえば、差別をめぐる喜劇的表現として、教養ある黒人家庭の食卓にまねかれた白人男性である主人公が、典型的な人種差別的表現を連発してしまうという場面があります。
ニュースキャスターという仮初めの社会的地位のある男性が、ホストである黒人家族よりも、知性も品性も劣っていてひんしゅくを買うという構造なのですが、まあ、あまり面白くありません。メタ視点が論理的に設定されているので、いちおうやろうとしていることは分かるという水準にとどまる。
しかし、私が引用した場面は、たいへん申し訳なく思いつつ言うのですが、やはり面白かったんですよ。
その俳優が明らかに「やりすぎ」ている、ということを、受け手に判定させる視点が、物語のレベルを突き抜けて、その俳優の存在レベルに発していたと、自分には印象された。
それは、自分にとっては、行為の内容(不適切さ)を無化するだけの、形式となりえていた。
それはごく稀なチャンスで起こりうる奇跡に思えました。
面白いというより、美しかったんです。
そう思うのは勝手だが、それを書くことは許されないと、お思いでしょうか。あるいは、そういうことを誰にも思わなくさせることが、現在戦われている戦いなのだと。
「戦い」うんぬんは、私の感想で、いわゆる「キャンセルカルチャー」というものを、私はそういう文脈で理解しています。そして、その「戦い」は、人間がよりよいものになるために必要な、現在進行中の戦争であると考え、その「戦い」を私は肯定します。
その観点に立てば、当該記事が存在すること自体が、その「戦い」にあっては敵対行為であり、あるべきではない、あるいはあってはならないことだと、お考えかも知れません。
つまりあの文章の「不適切さ」には「政治的に不適切」であることが含まれると。
しかし、書いてしまったことを取り下げることは、また別の政治的意味が発生します。自分にとってそれは、美よりも政治が優先されるという思考法に、賛成の一票を投じるということです。
(…)
○
誤解を受けるかも知れないが、自分は「キャンセルカルチャー」を、おおむね支持している。
社会的に不適切な思想を含むと見なされた表現、あるいは、広範な意味で不適切な行動や発言のあった表現者による作品を「商品棚」から取りのけようというのが「キャンセルカルチャー」だと思う。
それは「差別意識という人間の大敵」に対する、象徴的な「戦争」の一環として行われているのだから、戦いの「筋」は悪くない。
しかし、それと同時に、しょせんは「文化闘争」なのだから、その攻撃性がエスカレートすることは好ましくないと思っている。
当該記事については、差別性を認めて、謝罪をし、書き直した。
しかし、その俳優の演技には差別的内容とは別レイヤーに生じる価値があったということを、むしろ救い出すような形での改稿にとどめた。
世の中的に、差別性を指摘されたら作品は取り下げなければいけないとか、そういう発言をしたら、一定期間、活動を自粛しなければいけないとか、そういう対応を常識にはしないほうがいい──と「政治的」に考えた結果の選択だ。
○
以上が、経緯の説明と謝罪と、その過程で考えたことの内容です。
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