草田男の《降る雪や明治は遠くなりにけり》に、類似先行句はあったか?
神保と志ゆき
1 はじめに
角川の『俳句』令和5年8月号に、家登みろく氏の「〈降る雪や〉を巡るデマ、その背景」という記事が掲載された。
《降る雪や明治は遠くなりにけり》 中村草田男
という著名句には、
《獺祭忌明治は遠くなりにけり》 志賀芥子
という先行句があったというのは本当か? という問題に関する記事である。
家登氏は、草田男の主宰誌『萬緑』の後継誌である『森の座』同人の方である。同氏は、『俳句四季』令和2年9月号の「忙中閑談」というコーナーにおいて、この問題に取り組みたいとして、
「まずは芥子の句が実際に存在するのか、リファレンスサービス等を利用した全資料の総当たり戦を展開したい。証言を、年代別にまとめ真偽を確認しようじゃないか。噂話に、終止符を打つのだ。」
と熱い思いを述べていた。筆者は、ひそかにその意気込みに期待していたのであった。
もっとも、『俳句』令和5年8月号に書かれた記事は、問題の志賀芥子の句は『ホトトギス』誌上に掲載されていない、だからデマだという、これまでも言われてきたような情報にとどまるものであった。見開き1ページという紙幅の都合もあったのであろうが、読み手であるこちら側の期待値が高かっただけに、正直、もっと“読ませて”ほしかったという気持ちがあった。
そこで、筆者において、ごく簡易的に自分なりの調査を行ってみた。そうしたところ、芥子の「明治は遠くなりにけり」の句が掲載された文献が見つかった。ところが、その句の上五は「獺祭忌」ではなかった。また、その芥子の句の制作時期は、草田男句に遅れる時期のものであった。以下、それらについて報告する。
2 調査とその結果
草田男句に先行して芥子の「獺祭忌」の句がある、と言い出したのは、嶽墨石という俳人であった。それは、旅と俳句発行所の『旅と俳句』昭和36年9月号に「俳壇管見(三)」として掲載され、その抄録が、『俳句』昭和36年11月号「定点観測」欄に掲載され、さらに、『文藝春秋』昭和37年新春特別号の短歌・俳句欄、東京新聞昭和37年1月7日のコラム「大波小波」といった一般紙誌でも取り上げられ、情報が伝播・拡散していった。
今、筆者の手元にあるのは、「定点観測」の記事であるが、墨石の主張の骨子は、
・岩木躑躅(ホトトギス同人)が神戸の菱舟句会〔*1〕を指導していた昭和7、8年頃、志賀芥子は、この句会に「獺祭忌」の句を出した。その句稿はホトトギス社へ送られ、同句は『ホトトギス』の地方俳句会報欄に「登録されることとなった」。
・草田男の「降る雪や」の句は、それより2、3ヶ月後の『ホトトギス』雑詠欄に載った。墨石は芥子から、草田男句についての『ホトトギス』への類句取消要求の相談を受けたが慰留した。
・芥子は、墨石による『旅と俳句』昭和36年9月号の記事執筆の3年前に亡くなったが、その遺句集を編みたい墨石として、釈然としない思いがあり問題提起する。
というものである。
ところで、草田男句であるが、この句の発表時期は明確である。
昭和6年3月の『ホトトギス』34巻6号(通号415号)に、《降る雪や明治は遠くなりにけり》の掲載がある。掲載は、「東大俳句會」欄及び雑詠欄であった。東大俳句会における出句は、昭和6年1月9日であった旨が「東大俳句會」欄に記載されている〔*2〕。
したがって、この時点で、草田男句の掲載時期という重要な点につき、昭和7、8年頃という大づかみな言い方ですら齟齬があり、墨石の話の信用性自体、疑う必要がある。
何より、今なお、肝心の『ホトトギス』に芥子の句が確認されていない。家登氏や、香西照雄、横澤放川ら『萬緑』『森の座』関係者も発見できず(家登氏の『俳句』の記事による)、村山古郷、川名大の諸氏も調査したが発見できなかった(『俳句研究』昭和59年3月号「新聞コーナー」)。
『日本古書通信』昭和40年5月15日号5ページの、八木福次郎(『日本古書通信』主宰。ミスター神保町と言われた。)による囲み記事にも、注目すべきことが書かれている。曰く、『旅と俳句』の翌月号(昭和36年10月号)にも、墨石による関連した随筆があり、そこには「獺祭忌」の句が出たのと同じ句会で、岩木躑躅が《故人日々遠く鶏頭赤きかな》という句を作ったとある。そこで八木が調べたところ、躑躅句は『ホトトギス』昭和3年12月号に掲載されていたものの、『ホトトギス』に芥子の「獺祭忌」の句は見当たらなかった、という。
八木の言うとおり、確かに、昭和3年12月の『ホトトギス』32巻3号(通号388号)の雑詠欄(65ページ)には、躑躅の「故人日々」の句が確認できる〔*3〕。
しかし、そうすると、この句の掲載時期と、草田男句の掲載時期とでは2年3ヶ月という年単位の隔たりがあり、「2、3ヶ月」後に草田男句が発表されたという点についても、墨石の話には矛盾が生ずる。単純に、昭和7、8年頃を、昭和6年に読み替えれば済むという話では収まらなくなるのである。
なお、「故人日々」の句については、昭和3年に早世した躑躅の弟子・半田鶏肋に対する追悼句との情報もある(尾崎隆吉「西播磨の文学碑巡り(Ⅰ)」)〔*4〕。
鶏頭といえば、斎藤茂吉が《鶏頭の十四五本もありぬべし》を喧伝して以降、子規を象徴する印象を与える。もっとも、「故人日々」の句にいう「故人」が子規ではなかったとすれば、「獺祭忌」(=子規忌)の句が出たのと同じ句会で出されたとの点についても、注意を要すると思われる。
また、草田男句掲載の3号後、昭和6年6月のホトトギス34巻9号(通号418号)の地方俳句会報欄(「各地俳句界」欄)には、芥子や墨石も参加した、神戸ホトトギス俳句會子規忌の幹事報が載る。芥子の句は芙蓉を詠んだ句で、「獺祭忌」の句ではない。この誌面からは、前年昭和5年の子規忌の句稿が『ホトトギス』の「各地俳句界」欄に載ったタイムラグがわかる(昭和5年9月19日頃→昭和6年6月)。「2、3か月」を優に超えるタイムラグの存在も、墨石の話とは整合しないように思われる。
さらに、草田男句の掲載された昭和6年3月を基準に考えると、管見では、昭和5年5月の『ホトトギス』33巻8号(通巻405号)67ページに掲載された昭和4年11月例会の句を最後に、それ以降、「各地俳句界」欄に、菱舟会(菱舟句会)の掲載そのものが確認できず(ただし悉皆調査を行ったわけではなく漏れがあるかもしれない)、この点においても墨石の話は整合しないと思われる。
他方、志賀芥子の句なるものが、もし実際に昭和7、8年頃に作られたものであったならば、それだけで昭和6年の草田男句には遅れ、先行句ではないことになる。草田男自身、
「古い時代の「ホトトギス」誌の一角に「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という作品が存在したと穿鑿する人物も現われたが、私の作品の方がそれより以前に創られたものであり」
と述べていた(中村草田男「「明治は遠くなりにけり」の俳句」『国文学 解釈と鑑賞』34巻1号(通号416号)14ページ)。これは、昭和6年と、昭和7、8年とを比較して言ったものであろう。
一方、芥子の句についてである。まずこの話の情報源となった嶽墨石は、『ホトトギス』のほか、『雲母』にも投句していた神戸の俳人であり、芥子も同様であった。そして、昭和13年、雲母神戸支社が刊行した、飯田蛇笏 編『水門 続』という合同句集に、問題の志賀芥子の句が掲載されているのを発見することができた。その句とは、
《菊花節明治は遠くなりにけり》 芥子〔*5〕
というもので、上五は「獺祭忌」ではなかった。
従前、「獺祭忌」の句については、上五と中七以下がつき過ぎだと言われてきた。例えば、角川源義は、「つき過ぎそのもので、月並というより陳腐というほかはない。」とする(角川源義「降る雪や」『角川源義全集 第4巻』429ページ以下(角川書店、昭和63)。初出は『俳句研究』昭和47年6月号)。上五が明治35年に没した子規の忌日で、中七以下が明治への詠嘆であるから、そう評価されて当然である。
そして、今回見つけた、上五が「菊花節」の句である。「菊花節」は、重陽の節句の異称であるが、それとともに、下記の諸文献に見られるように、「明治節」の異称でもある〔*6〕。
そうすると、「獺祭忌」の場合にも増して、「菊花節」の句はつき過ぎということになろう。
さて、この合同句集の刊行は昭和13年であるが、句自体の俳誌への初出が、草田男句が発表された昭和6年3月よりも早ければ、なお芥子の句は草田男句の先行句となるため、その点を確認しなければならない。
これに関しては、『水門 続』の凡例に、
「本句集は雲母第二十巻第一號(昭和九年一月)より第二十二巻第十二號(昭和十一年十二月)に至る同誌『春夏秋冬』『支社稿』『寒夜句三昧』及『珠玉抄』中の各自の句より蛇笏先生の再選を經たる千百五十二句を採録したものである。」〔*7〕
とあり、昭和9年1月以降の句であることが分かる。
また、凡例には、「各句の下には作者備忘の爲制作年代を附記した。」とあり、「菊花節」の句の下には「九」とあるから、昭和9年制作というところまでの特定ができる。今回はあくまで簡易な調査であるため、昭和9年の『雲母』自体には当たっていないが、これらの記載から分かる芥子の句の制作年代は、草田男句の発表に遅れるといえる。
なお、この凡例には、本句集の作家名一覧も記載されており、芥子のフルネームである「志賀芥子」や、「嶽墨石」の名が見える。
管見では、志賀芥子の名は、昭和3年6月の『ホトトギス』31巻9号(通号382号)の雑詠欄には見られ(なお、これも悉皆調査を行ったわけではない)、芥子は昭和9年当時、少なくとも6年程度の句歴はあったと見られる。
もし、初案が「獺祭忌」で、この「菊花節」は改案であったとすれば、上記のようにそれなりに句歴のある作者が、《明治節明治は遠くなりにけり》というにも等しい、べたづきと言っていい句への改案をするであろうか、という印象が否めない(とはいえ、蛇笏選に入っているが…)。
「獺祭忌」も「菊花節」も秋の行事の季語であること、まさしく「明治は遠くなりにけり」が詠まれている句形、及び、作者が志賀芥子であることからすると、墨石が言わんとしていた句は、《菊花節明治は遠くなりにけり》であって、「獺祭忌」というのは記憶違いだったのではないだろうか。
以下は1つの推論である。草田男句も初出時点から著名句だったわけではなく、『ホトトギス』投句者も他人の句をみな把握しているわけではない。蛇笏が芥子の「菊花節」の句を選に入れた点からすると、蛇笏すら草田男句を把握できていなかったようにも見える。芥子らにおいて初出の草田男句は、読み飛ばした、一読したが忘れた、見ていないなどで把握しておらず、昭和9年より遅れる媒体、例えば、昭和11年刊の句集『長子』搭載の草田男句との比較で、“芥子の句が先行する”と即断した可能性はないだろうか(『長子』の跋まで読めば「昭和四年九月より同十一年四月に至るホトトギス雑詠句を基とし」云々とはあるが)。そう理解すると、墨石の話と異なってくる点はあるが、墨石の話自体矛盾が多くてそのままでは維持できないのであるし、大筋では出来事の説明がつくように思う。蛇笏選というお墨付きがあればこそ、芥子の句が先行するとの思い込みが生じ、かつ、草田男句の取消要求という強気の話になった、と考えれば平仄も合う。
ところで、『水門 続』は、その名の通り、『水門』に続く句集である。『水門』は、昭和9年、雲母神戸支社 編として、小穴忠実(嶽墨石の本名)が発行者となった句集である。念のため、『水門』も一覧したが、「明治は遠くなりにけり」という句は見当たらなかった。
その他、この類句問題に関しては、堀辰雄が、昭和8年頃の改造社の座談会で、草田男句は芥子の句の剽窃ではないかと述べた旨をいう言説も散見される。「堀辰雄」「改造社の座談会」など、いかにも具体性があり、それらしい印象を与える。しかし、この点についても、これまでに調査が行われたが、今に至るも該当する堀の発言の存在そのものが確認されていない。次の図書館レファレンスもその1つである〔*8〕。
ないことの証明は「悪魔の証明」と言われるように、その立証は困難であるから、可能性ということを言えば、なお、芥子の句には上五を「獺祭忌」とした初案があって、それは草田男句に先行したのではないか、との可能性が絶無とはいえない。筆者としても、念のため並行して調査を行っている。
しかし、これまで諸家が『ホトトギス』を調査したが、誰一人として芥子の「獺祭忌」の句を確認できなかったという事実は重い。「幻想の句ではなかったかとさえ思われる」「虚構の事実に基づく迷妄ではなかったか」(東京新聞昭和59年3月31日村山古郷「類句・類想の問題点」)といわれてもやむを得まい。ホトトギス地方俳句会報欄に「登録されることとなった」旨の墨石の表現からすると、句稿を送ったが掲載に至らなかったとも考えられるが、であれば、そのような未搭載句をもって、草田男句の先行句として論ずべきものであろうか。
墨石の話は、感覚的には相応の具体的もあって意識的な虚偽とまでは断じにくい一方、既述のとおり、草田男句の掲載時期をはじめとした客観的事実との齟齬から信用し難い部分が多い。
さらに、家登氏も『俳句』の記事で述べているが、墨石が、草田男句に類句があると言い出したのは、草田男句の発表から約30年という時間を隔てての後である。墨石は、明治25年2月生まれであり(松井利彦『俳句辞典 近代』348ページ(桜楓社、昭和52))、『旅と俳句』昭和36年9月号のころは、69歳であった。
これらによれば、墨石の話は、相当に程度の重い記憶の混乱があると見ざるを得ず、結論としては、やはりその話には信を措き難い。
3 まとめ
“幻想の句”とまで言われるものが存在するかのような言説が、これ以上拡散されるのを防ぐための一番の処方せんは、それがいかに根拠を欠くかについての実証性を伴った論ではないか、と思う。
現在までに、客観性をもって明らかなのは、
・志賀芥子の「明治は遠くなりにけり」の句は実在したが、確認できる句形は《菊花節明治は遠くなりにけり》である。
・確認できる志賀芥子の句の制作・発表は、昭和9年で、それとの比較では、昭和6年3月のホトトギス34巻6号に掲載された草田男の《降る雪や明治は遠くなりにけり》の方が先行句である。
ということである。少なくとも、「菊花節」の句形や、これが昭和9年制作とされることは、これまで言及されることがなかったとみられる事実であり、ここに紹介をする次第である。
本稿は、『俳句』令和5年8月号が発売された同年7月25日に家登氏の記事に接し、熱の冷めないうちにと、同月29日に脱稿したもので、拙速な点もあるが、ご海容賜りたい。
4 余談
以下は余談である。草田男本人の自句自解(『俳句研究』昭和14年3月号)によると、《降る雪や明治は遠くなりにけり》の初案は、
《雪は降り明治は遠くなりにけり》
というものであった〔*9〕。
ところで、明治29年発行の三日月庵春湖 撰『俳諧拾万集 冬の部』77ページ中段には、
《雪降りて世の中遠くなりにけり》〔*10〕
という句が確認できる(作者名の記載なし)。
このような先行句があっても、詩としての草田男句の優位性は揺るがず、「世の中」と「明治」とでは発想において質的に異なることは言うまでもないが、まったく、類句というのは世に尽きないものである。
〔*1〕嶽墨石 編『王石句集』の序によると、墨石はこの句会の主宰であった。「菱舟句会」は、墨石が三菱商事船舶部神戸支部に勤務していたところからの命名と見られる。
(了)
1 comments:
この記事の筆者の神保と志ゆきです。
この記事を掲載した後の調査結果なども踏まえた補遺を、下記URLの筆者の研究ブログに載せました。興味のある方はご覧ください。
https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/973408/ea876c0827392cf25c19b75769af6524?frame_id=1723270
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