2023-11-26

岡村知昭 一人は、ここにいる 第60回現代俳句全国大会入選作を読む

一人は、ここにいる
第60回現代俳句全国大会入選作を読む

岡村知昭


【現代俳句全国大会賞】

みんないて一人がいない終戦日  浅野浩利

「終戦日」であり「敗戦日」である8月15日。戦争が終わったあの日、辛うじて「みんな」が生き延びたにもかかわらず、あの「一人」だけはいなくなってしまい、もう姿を見ることも、声を聴くことはない。その現実を突きつけられての、哀しみなのか、憤りなのか、どうにも掴みどころのない感情に襲われてしまった8月15日。時は流れて、「みんな」から戦争の記憶がだんだん遠のいてゆく(自ら消そうとする雰囲気まである!)、そんな中にあっても、この日が来るたびに、古傷が疼くように、あの「一人」の不在を思わずにはいられない。この人物にとっては、いなくなった「一人」の姿が、いまだいる「みんな」よりも鮮やかになってしまっているのだ。戦争をモチーフにした句、日本における8月15日の句としては、毎年詠まれている内容かもしれない。だが致し方ないだろう。戦争とはすなわち、陳腐で、凡庸で、紋切型なのだから。かつての大戦もそう、今現在、世界各地で起こってしまっている戦火もそう。

暗がりを遠き夜汽車のやうに蛇  伊藤孝一

夜汽車が蛇のよう、ではない。「夜汽車のやうに蛇」である。この一句の中でうごめいているのは、まぎれもなく一匹の蛇である。餌を探しているのか、自らのねぐらへ戻ろうとしているのか、とにかくうごめいている、生きている。安易な感傷や抒情を、かき消してしまうかのように、この一匹の蛇は生きている。一方、この蛇に「夜汽車」を感じた人物がいる。この人物は、暗がりで蛇のうごめきを感じた瞬間に、「遠き夜汽車」の灯りが脳裏にひらめいたのである。蛇に対する恐怖心よりも、封じ込めていたはずの感傷と抒情が、蛇をきっかけに、一気にこみあげてきてやまないのである。この人物が、家に戻ろうとしているのか、どこかへ旅立とうとしているのか、それはわからない。だが、「夜汽車のやうに蛇」と蛇の姿を見据えた瞬間に、この人物は自らの手に感情を取り戻して、ひとりのヒトとして生きている自分を再認識したのだ。暗がりでの蛇とヒトとの出会いが「夜汽車」を通じてもたらしてくれたのは、生命のきらめきの再発見だったのかもしれない。


【現代俳句協会会長賞】

包帯は夕日のにほひ八月来  押見げばげば

八月がやってきて、暑さが極まる。体のどこかに巻かれている包帯は、とめどなくあふれ出る汗が沁み込んで、なんとも言えない匂いを醸し出す。「夕日のにほひ」なのは自分の包帯なのか、それとも誰かが巻いている包帯のことなのか、どちらなのかはこの一句には書かれていないので、わからない。しかし、汗が沁み込んでしまった包帯からの「夕日のにほひ」の発見によって、この一句は読み手に、包帯を巻かれている人物を思い起こさせる力を手に入れた。それは、自分自身の姿としても、ほかの誰かの様子としても、うっすらとではあるが、包帯を巻かれている人物の哀しみが、「夕日のにほひ」を通じて、確かに現れてくるからなのだ。登場させる人物は、少年でも少女でもいいし、家族でも親戚でもいい。そんな、さまざまに想像を広げられる楽しみを持ち合わせていながら、その軸となる「夕日のにほひ」にブレはない。さて、八月来たる。汗の沁み込んだ包帯を取り換えるのは、そろそろかもしれない。

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