2023-12-10

田中目八【週俳10月の俳句を読む】読むことの前提

【俳句を読む】
読むことの前提

田中目八


まず、読む、読み解くことの前提として読めない、わからない、ということが私にはある。それは人との会話でもそうだ。言い換えれば、それは誤読が前提にあると言っても、言ってしまってもよいだろうか。今回鑑賞した42句についてもそれは変わらず、読むということの困難を存分に味わせて頂いた。

何一つ断言できることは無いし、何かがあるはずだがそれが何かがわからないことの多さに歯ぎしりする。固定観念、勇み足、読めば読むほど増えるいらぬ勘ぐり……読むことは開けた自由なもののはずだが、気づけば自ら作った檻に閉じ込められていて、力の無さをまざまざと感じてしまう。作品と作者に申し訳ない。

しかし、読めない、わからない、からしか始めることができないし、そこによって立つことでしか掬い取ることができないものもあるような気もするのだ。読めた、わかった、と思った瞬間にするりと取りこぼすものがあるように思えてならないから。

さて、言い訳めいた前置きが長くなったが、作品と作者に感謝を。


竹岡一郎 敬虔の穹

うつろより歪な羽化を踊らんか

うつろとは殻の内のことか。歪な羽化とは何か、例えば人間の側から見て羽化というものが歪なものだということかもしれない。或いは羽化登仙。この世の理から抜け出ることは歪と言えないだろうか。もとより身体の内側はうつろだ。そして外側もまたうつろだろう。或いは夢と現。その両方を往き来すること、踊る如し。ならば踊るべし。

花街や伽羅焚いて秋渇く彼奴

伽羅とは香木だが、インドでは仏を供養する荘厳のために焚いたり、するそうだ。花街で人死があったのだろう。季語秋渇くはいわゆる食欲の秋で、食べても満たされない状態。連作の中で読めば餓鬼と捉えてよいだろうか。ここでは食欲だけではなく、性欲や支配欲、更には根源的な人間の欲望の飢えではないだろうか。女を次々と喰い物にしても満たされることはない。

墓洗ふ戒名を火と見紛ふて

戒名の文字を火という字と見紛ったのか、戒名そのものを火と見紛ったのか。遊女は基本無縁仏として穴に埋められるだけだったという。つまり墓石に戒名が彫られているというのはよほどの遊女か訳ありの遊女だろうと思われる。

戒名を得ながら成仏できず業火に燃えているのだろうか。それは水をかけても洗っても消えない火だろう。或いは見紛った人物の中に怨嗟、復讐の火があるのかもしれない。遊廓を出れない遊女が墓参りとは考え難く、この墓を洗っている人物は何者なのだろうか。
火は悲に繋がるか。

水晶のさかえは月の餮ぬらす

さかえは栄え、水晶のさかえとは月の光を受けて輝いている様と読んだ。餮は飲食を貪ること、本来は饕餮と連語で用いられる語であることから餓えていると捉えることができるかもしれない。ぬらすは濡らす、として、ここでは貧しい生活をする、やっと暮らしを立てる、の意味だろう。

遠く離れた地上の水晶の幽かな光で餓えを凌いでいる。その光も月自身からのものなので餓えはますます募る。

下五からまた上五へ循環する。月は円、餮は後の句に出てくる鉄に通じるか。

魂棚の灯の奥に路ある如し

如しとあるが本当に路はあるのだろう。もうひとつの、或いは本当の盆路なのかもしれない。連作を一通り読んだ後だと灯は悲に通じているように思える。また、この路は後の句に出てくる雲廊にも繋がろう。

施餓鬼会に科つくりける新地かな

新地はいわゆる遊里、遊廓だろう。無縁仏として葬られた遊女たちの供養として施餓鬼会が行われている、行われてきた。科とは法などを犯した場合に使われる。施餓鬼会のたびに科をつくってきたのか。その科をつくってきたのは新地という場所だということか。

施餓鬼会では戒名を読み上げるらしく、遊女たちは非常に短命だったと言われるので読み上げる数は多かったのではないだろうか。それは新地という場所が殺したとも言える命の数でもあろう。新地という場所がつくってきた科が浮き上がる、それが施餓鬼会ということなのだろう。

どろどろと盆の土産を嗅ぐ姉ら

ここでのどろどろは、感情や欲望が粘りつくようにもつれ合っているさま、だろう。また姉らも親族ということに限らない、連作を踏まえれば姉女郎たちと捉えることもでき。
しかしただの土産ではなさそうだ。姉らは死者なのかもしれない。

鬼灯や妓の吐く唾が楼を焼く

吉原は火事が多かったという。唾でものは焼けないが、妓の吐く唾ならば、そこに様々な怨嗟や情が累々どろどろと溶け込み、楼を焼くのかもしれない。鬼灯に建物が燃えているイメージがあるが、燃やすのではなく焼くのだから炎は上がっておらず、唾からは酸のようなイメージも連想する。焼けた楼は葉脈だけになった網鬼灯のイメージか、残った果実、朱い玉それはまた妓であろうか。しかし葉脈から透けて見える果実は籬の中の遊女のようにも思える。

兄失せる露地へ稲妻這はんとす

兄は連作中二句目の彼奴かもしれない。露地は裏通り的な、表立って歩けないような輩の居場所を指しているように思える。稲妻はまさに天罰か或いは龍か。前々句のどろどろが稲妻の音に繋がる。失せた兄の消息は次句へ繋がるようだ。

刑場の残暑の腑分け外典誦し

ここでの外典は仏教経典以外の書物のことだろう。となるとキリスト教が浮かぶが、そうではなく、恐らくターヘル・アナトミアのことではないだろうか。つまり解体新書の原書だ。解体新書で腑分けされたのは青茶婆という大罪人らしいが、連作の流れで考えると前句の兄と読んでも構わないだろう。

ししびしほ啄む孔雀露の色

ししびしほは古代中国の極刑、肉醬だろう。本来は生きたまま塩漬けにされるそうだが、前句から腑分けされた後に塩漬けされたものと思われる。孔雀は古代中国では瑞鳥であり、仏教では孔雀明王となる。

露の色とは何か、露には色が無いはずだ。色(いろ)ではなく色(しき)、色即是空の色ではないだろうか。色は宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味する。つまりそれもまた露の中、すべて露の世のできごとだということ、或いは露のひと粒ひと粒に一つの宇宙があるということか。

琥珀の獄とんぼの咎を億年も

琥珀の獄とはそのまま、とんぼが琥珀内に化石として留められたことだと思われる。しかしとんぼの咎とはなんだろう。億年もの間閉じ込められていたのはとんぼではなくとんぼの咎なのだ。それが何かはわからない。例えば肉食であることだろうか。

連作内で読めば琥珀の獄は廓、とんぼは遊女だろうか。とんぼが二頭繋がって飛ぶことと、とんぼも羽化することと関係があるのかもしれない。

しかし連作を読み進めてゆくと、どうやら鉄漿付けをすると思しき句があり、であれば鉄漿付蜻蛉(カネツケトンボ)=鉄漿蜻蛉(オハグロトンボ)だろう。おはぐろとんぼは神様トンボ、極楽トンボとも言われ、神の使いとされる。また先祖の魂がトンボとして帰って来たとも言われるという。

姿見に血の剋し合ふ弟切草

部屋に置かれた姿見はずっと見てきたのだろう、部屋の主の変わるところを。

また彼女たちの病、結核なども想像する。

なるほど、連作内で読めば24句目の蠱毒に繋がるのか。

弟切草の名前は兄が弟を切った伝説からだが、ここでは姉女郎と妹女郎の争いへと転換しているように思える。また弟=遊客の可能性もあるかもしれない。

抜けど折れど焼けど明けには立つ案山子

案山子とくれば当然鳥だが、連作内で読めば明らかに烏だろう。落語、或いは新内の明烏だ。明烏とは男女の交情の夢を破る、つれないものを意味する、とある。つまりその明烏を追い払うための案山子なのだ。

遊女と客は情が通じ、お互い入れ込み過ぎたのかもしれない。手を切らそうと周りがやっきになっているのか。新内の明烏は実際にあった心中、情死事件をもとにしているという。ならば二人は永遠に結ばれ、もはや案山子は壊れることはなく明烏が訪れることはない。

全天が蝗の流砂電波に沿ひ

蝗の流砂は蝗害のことだろう。本来はイナゴではなくトノサマバッタの類らしいが、日本の環境ではトノサマバッタが大量発生しにくいらしく、イナゴやウンカによるものも蝗害と言ったらしい。蝗の流砂ではあるが、天が崩壊してゆくようにも思える。

また流砂といえば底なし沼も連想しよう。蝗と電波に特に関係はないはずだが、電波のない地方から電波のある街、都心部に向かっているということか。バッタは蝗害を起こす前に孤独相から群生相という姿に変化するというが、そのことも何か関係しているのか。流砂(りゅうさ)は龍(りゅう)に掛かるか、ならば電波は稲妻によるものだろう。

汝が背に凭れん霧に逝く虎よ

霧に逝く虎とは何かの喩なのか。霧とは触れ得ぬものとして、そこを逝く虎もまた触れ得ぬものなのかもしれない。その虎の背に凭れようとしても叶わないのではないだろうか。

虎とは遊客、或いは間夫であるかもしれない。霧とは廓の外か。曽我兄弟の兄、十郎の妾が虎御前という遊女であったことも関係があるだろうか。連作中に見られる龍に対する虎とも考えられるか。

熔岩原は鬼形に凹み律の風

律の風の律は琴などの調子であるから、遊女の奏でる琴や三味線を連想する。溶岩原は遊廓或いはお座敷か、いや鬼形に凹むのだから遊客を引き込む褥かもしれない。鬼は遊女か遊客か、或いは両方かもしれない。

鉤と鞭集ひて我と化す身に入む

これは仕置きであろうか。我と化すというのは遊女という鬼から一個の我に返るということか。遊女同士、遊客相手に鬼と化せても所詮は廓の囚われ者、遣り手婆や亡八には到底敵わないということか。鈎は蛇の鎌首を思わせ、鞭は蛇そのもの、また龍を思わせる。
蛇が集まってできた身体であればさぞ身に入むことだろう。

夜学子の声臈たけて正答す

臈たけるは主に女性の美しさの形容として使われるが、経験、年功を積む意味もある。連作内で読むと臈たけた遊女の姿が浮かぶが、夜学子であるから禿かもしれない。正答したその後は新造となるのだろうか。臈(ろう)は後の句の蠟(ろう)に繋がろうか。

葛原を心臓七転び光れ

葛は別名裏見草、裏見は恨みに掛り、葛原は恨みに満ちた場所になる。さらに蔓性で巻き付くことも合わせ、連作を踏まえればやはり遊廓なのだろう。

心臓が七転びするのであれば七日ごとに生まれ変わる、四十九日を指すのか。ならば「光れ」の命令形は願いだろう。

しかし前の句が禿が新造になる句であれば心臓と新造が掛かっているのかもしれない。であれば遊廓という葛原で花魁になれということかもしれない。

不知火に脱皮はじめの鉄を宿す

次句を踏まえれば脱皮とは蛇のそれではないだろうか。
ならば蛇は水の神、鉄は金気で水とは相剋するものだが、不知火が火であるならば鍛冶も思う。
しかし前句、前々句が禿から新造になる句だとしたら、脱皮はじめはやはり禿から新造へ、遊女として一人前の証として鉄漿(かね)を付けることかもしれない。
不知火(しらぬひ)は悲を知らぬということでもあろうか。

蠟涙の螺旋が龍を成す長夜

溶けた蠟が螺旋になることはないが、ないことが起きたがゆえに龍と成るのかもしれない。蠟涙は蠟燭の溶けた蠟を涙に喩えたものだが、この句ではまさに人の流す涙でもあるだろう。蠟涙と血涙、混ざらないものが混ざろうと渦をなし、螺旋を描く。

この長夜とは一日のことだけではなく、数多の蠟涙と血涙を費してきた数多の長き夜でもあるだろう。その長い長い夜が龍だとも言えるかもしれない。

豊年の山のはらわた璧と彫る

はらわたは腹の内にあるので山の中腹辺り、豊年は主に米、穀類の豊作の年であるから棚田のことかもしれない。璧といえば主に翡翠、山のはらわたというのが翡翠の原石のことでそれを璧として彫る、ということなのだろうか。また、はらわたは長いものであるから龍に繋がろう。璧とは円盤状の玉のこと、螺旋、龍に繋がる、或いは曲輪だろうか。

蠱毒最後の鳴く虫ひとつオルガンへ

蠱毒とはそもそも一匹しか残らないので、ここでひとつがあるのは奇妙に思える。さらに一匹ではなくひとつなのも少し変だが、呪いの術、道具であればひとつでよいのかもしれない。鳴く虫をオルガンへ入れたのか、そるともオルガンに変化したと捉えるべきか。
蠱毒では極稀に金蚕というものが生まれるというが、オルガンが生まれたのかもしれない。

オルガンは神を賛美することの持続性から教会で使われるという。蠱毒もまた持続する呪いであるから神を呪うか。或いは蠱毒の壷は廓、虫は遊女たちなのか。また、オルガンには器具、臓器という意味があり、連作中の腑分けの句、前句の山のはらわたの句と繋がる。

フォーマルハウト鹹湖にて擬死冷え尽くす

フォーマルハウトはみなみのうお座の一等星、魚の口を意味する。みずがめ座の水を受ける位置にあり、神話ではその水は不老不死の酒と言われる。鹹湖はその酒で満たされているのだろうか。死海という言葉のイメージも浮かぶ。

擬死をするのは普通動物であるが、たんに人間が死んだふりをしているのかもしれず、その場合死んだと思わせたい事情があると思われる。魚のようにぷかりと鹹湖に浮かぶイメージ、擬死を装って長いのか、身体は冷え切ってしまった。不老不死ならば問題はないだろうが、本当にそうなのか?擬死が冷え尽くすとそれは本当の死ではないのだろうか。鹽湖の鹽(えん)は円(えん)に繋がり、遊廓(曲輪)に繋がる。

良夜の看板「翔ぶ首に耳貸すな」

翔ぶ首といえばまず飛頭蛮を思い出すが、平将門の首も翔んだ伝説がある。しかし連作の中で読めば、遊女がろくろ首になったという説があることに注目するだろう。

良夜の看板、良夜は月の明るい夜のことだが、主に中秋の名月の夜を指すらしいので首が翔ぶのはこの日限りなのかもしれない。袖にされた男か誰かを追いかけるのに、せめて首だけでもと廓の外へ翔ばすのかもしれない。

目無きものらの鎬けづるが不知火

前句から、飛頭蛮には瞳が無いらしい。それはともかく、器官としての目を持っていないという意味ではなく、見る目が無いという意味、いわゆる明盲のことではないだろうか。或いは心を奪われて思慮分別が無い、我を忘れる意味かもしれない。

そういう者たちが目先のことだけに囚われてお互いを出し抜き這い上がろうとしている、そのような様を不知火だと言っているのだろうか。この不知火も悲に繋がるか。

流星を湖の焦がるる蛟かな

蛟はみづち、蛇に似た水に棲む動物、妖怪とも、龍の一種であるとも言われる。この湖は鹽湖だろうか。焦がるるに流星は夜這い星とも言うことを思い、しかしまた流星は死の象徴でもあることを思う。それとも願いごとのために流星を待ち焦がれているのか。流星(りゅうせい)は龍(りゅう)でもあるかもしれない。湖はやはり遊廓(曲輪)か。

血泥より醒めればいつも虫時雨

実際にいつもというほど血みどろになるとは考えにくく、血みどろになるほど苦労、苦闘している様のほうの意味だろうと思う。その苦労から醒めるときがあって、そのたびに虫時雨が聴こえるというのだろうか。しかし季語虫時雨の虫は秋の虫だからいつもというのは少々おかしい気がする。そこで思い出すのはやはり蠱毒の句だろう。

つまり虫時雨とは遊女たちの、恐らく過去から現在までの様々な、いわば血泥の声のことではないだろうか。そしてそれは自分が血泥になっている最中には聴こえず、一時静まったときに聴こえてくる。それは結局常に血泥の状態だということだと言えるのではないか。

谷神にふくらむ木通持ち重り

谷神=玄牝、とは万物を養う神であり万物を生む母、だという。ふくらむ木通とは懐姙のイメージだろう。持ち重りするのはそこに命が宿っていて日々育っていっているからだ。そしてさらに谷神が木通=命を孕んでいるということでもあるだろう。

はららごや粉黛にほふ風しづしづ

はららごからやはり前句が懐姙のイメージであることが確認できるだろう。しかしはららごとは産卵前の卵であり、それを塩漬けにしたものの名前でもある。粉黛は白粉と黛、遊女の匂いを指すのであれば、妓楼の中からは風は吹かないので屋外にいることになる。
はららごとは無数の水子であろうか。

嘴あるは渦巻け威銃咲ふ

嘴あるはすべての鳥で、恐らく前句のはららご=水子の魂を運ぶ存在ではないだろうか。渦巻けは螺旋、龍の姿、それは輪廻転生に繋がる。鳥を追い払うための威銃は、実は鳥を送り出すためにあったのだろう。

縄ほどく秋天よりの宿命の

縄は生き物の自由を奪うものだ。宿命とは仏教において生まれる前から定まっている運命で、変えられない資質のこと、なので宿命という縄に縛られていると言えるだろう。それがほどかれる、いや、ほどくということは宿命を変えようとすることか。しかしほどくものが人ではなく仏である可能性もある。ならばそこに衆生を救う慈悲の縄、羂索が垂らされているのではないか。縄、羂索は龍、蛟、流星に繋がる。

敬虔の穹をうべなふ鴇の影

穹は鴇が出てくることから大空の意味だろうか。敬虔とは神仏に謹しんで仕えるさま、ならば穹は神仏でもあるかもしれない。鴇は渡り鳥だから、日本にやってくることはうべなふことになるのだろう。何故ならそれは霊魂を運ぶために来るということだからだ。

また穹には穴の意味もあることから、生まれ来る、或いは死に帰る場所でもあるかもしれない。鴇ではなくその影なのは来客の前触れを言う、鳥影が射すと同じ意味と思われ、つまり命が生まれるということだろう。

梁満つる湾をわれから赦し鳴く

われからは実際のワレカラではなく、秋の季語であり、和歌に詠まれた藻に棲むという、われからと鳴く虫、破殻のことだろう。梁満つる、つまり殺生のための道具に満ちた湾である。「われから食わぬ上人なし」の諺も思い出す。

伊勢物語 五七段の

恋ひわびぬあまの刈る藻にやどるてふわれから身をもくだきつるかな

を踏まえて読めば、われからが和歌と同じく我からに掛かって、梁を仕掛けた人間がその罪を思い苦しんでいたが、しかしそれは自ら求めて苦しんでいたのだ、とそんな自分を自らを赦そうと泣いた、ということにもなるだろうか。

木犀揺するは深更の巫女もどき

巫女もどきとは遊女だろうか。遊女の起源の一つに歩き巫女があるといい、また同じく巫女を起源とする白拍子も歌舞をする遊女と言われている。深更が更にそう思わせるが、定型に収まる「木犀揺する」ではなく字余りの「木犀揺するは」とした意図を読めず無念だ。

島原は丑寅の鬼門、吉原、新吉原ともに未申の裏鬼門にあったとされいる。風水では鬼門に銀木犀、裏鬼門には金木犀を植えるとよいとされていて、このことと関係しているのかもしれない。或いは金木犀の香りに虫除けの効果もあり、その香りは昼が盛んであることから、深更に揺すって虫を払おうということであれば蠱毒、虫時雨と繋がりはする。

輪回しの韻くよ猿の腰掛闌く

輪回しは法輪、転法輪をイメージさせる。猿の腰掛は半円形だが、幾ら大きくなって闌けても真円にはならない、ならないがここではなるのかもしれない。ここでも輪回し=輪廻のイメージがあるだろう。或いは遊廓(曲輪)もあるか。

珠すさまじ誰も汲まぬ井を浮き沈み

珠とは貝の中にできる丸い玉のこと。恐らく魂(たま)であり、すさまじから荒魂を思う。誰も汲まぬとは誰も掬う=救うものがいないということか。浮き沈みは浮沈、人生の浮き沈みでもあり生死流転でもあり、また、井は字形のごとく遊廓でもあろう。この珠は鬼灯の句、鬼灯の果実とも繋がる。

無念彩らん露のもの壜に溜め

仏教における無念とはあらゆる邪念を捨て去り無我の境地に達すること、それを彩るとはどういうことか。それとも無念とは悔しい思いの意味だろうか。

露のものとは露の身、命だろう。それを溜める壜もまた露の世か、遊女にとっては遊廓(曲輪)がそれであろう。その儚い身を以って、己が身の無念(悔しい思い)を以って無念(無我の境地)を彩ろうというのか。

雲廊を鹿さまよへる諱かな

雲廊とは雲の棚びいているような長い廊下、とのこと。それはそのままに雲上へと続いているように思え、龍が天に登るさまを想起する。

釈迦の前世は鹿の王だという。ならばこの鹿は仏を信じるものかもしれない。諱は死後に呼ばれる名前、鹿の名前がそうなのかもしれない。或いは諱を探してさまよっているか。

白無垢の裡なる紅葉且つ散りぬ

白無垢といえば婚礼、花嫁衣装のイメージが強いと思われるが、葬礼、死に装束、かつては喪服も白無垢で、産着もそうだ。また、吉原では旧暦八月一日、八朔の日に遊女たちが白無垢を着たとのことである。花嫁衣装であれば紅葉は唇の紅を思うが、前句と次句を踏まえれば死に装束、ならば死化粧の紅、または血だろうか。

紅葉を色葉と置きかえれば「色は匂へど 散りぬるを」が白無垢の裡に隠されていようか。

棹は鍵は三角智印を雁めざす

三角智印は一切如来智印とも言い、これはすべての如来の智慧を象徴で大悲を表すと言う、胎蔵曼荼羅に描かれている。胎蔵曼荼羅は大日如来の胎内そのもの。

棹は鍵は、は船では辿り着けない、鍵では開かない、ということだろうか。棹は三途の川を渡るのに、鍵は地獄の門を開けるのに使うものかもしれない。

鳥は魂を運ぶもの、この雁もそうだろう。魂が雁によって大日如来のもとへ運ばれ救われる。遊廓という苦界、遊廓の外もまた苦界だろう、しかしそれを包むのは無限の慈悲を持つ大日如来なのだ。


最後まで読んでいただきありがとうございます。非常に読みにくかったことでしょう。鑑賞文というより誤読の記録と言ったほうが適切かとしれません。ですが、私の誤読がさらなる誤読の踏切板となることができれば嬉しく思います。最後に私の力及ばず中矢温さん、内野義悠さん、古田秀さんの作品について書けなかったことをお詫び申し上げます。



岡一郎 敬虔の穹 42句 ≫読む  第858号 2023年101日

中矢温 木蔭の詩 10  ≫読む  第859号 2023年108日

内野義悠 こゑのある 10 ≫読む  第861号 2023年1022日

古田 秀 ささくれ 10 ≫読む  第862号 2023年1029日

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