2023-12-03

鈴木茂雄【週俳3月~8月の俳句を読む】森を貫く新しい小道

【週俳3月~8月の俳句を読む】
森を貫く新しい小道

鈴木茂雄


俳句はひとつの文法である。そこで重要なことは、その範疇が十七音の詩的言語で構築された宇宙という、銀河的広域に及ぶのだということを認識することである。ただし、観測可能かどうかはいまは問題にしない。なぜなら定型という安住の惑星は依然として不明だからである。

これはX(旧Twitter)でハッシュタグを付けてポストしている(#俳句断想)わたしの俳句的宇宙観である。一片の紙片に書かれた文字が俳句という十七音の詩形を得たとき、四畳半的私小説から広大な銀河系のとある酒場まで叙事詩的に物語ろうとする。あるいはコトバの異化が言語空間を構築しながら詩的スパークを放つ。小説は一マスごとに文字を埋めて行かなければならないが、俳句はむしろ余白を作ることでその表現領域を拡大しようとする。俳句を書くということは想像力の森を貫く新しい小道を切り開くこと、あるいはいつも通る道に新しい風景を示してやることである。そのおおかたは劇的な切れ目のあとに突然出現する。俳句を読むという行為はその発見を享受することである。


白蝶来門閉ぢられし楽園に 高木小都

愛しあふ魚の唇(くち)にしやぼん玉 同

白蝶来の句。この「白蝶来」の「来」は、「門閉ぢられし楽園」に来て欲しいという願望だろうか。それとも、もうすでにそこに来ていることを明示しているのだろうか、というのが一読しての疑問である。三橋鷹女の「薄紅葉恋人ならば烏帽子で来」の「来(こ)」の場合は前者、高浜虚子の「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ 」の「来(く)」だとしたら後者になるだろう。こうした曖昧さは詩には付きものだが、いずれにしても「門閉ぢられし楽園」とは何を記号しているのだろうという疑問も湧いてくる。「白蝶来/門」の接続部「/(スラッシュ)」に詩的スパークが発生している。「蝶」が詩の言語記号として機能しているからだろう。

愛しあふの句。こういうルビをふった作品を見るたびに思う。もっと読者を信用して欲しい、と。俳句にルビがあるのは美しくない。潔くないとさえ思う。なにもルビを振らなくても読み手はおのずから「くち」と読んでくれるはずだ。たとえ一読目は「くちびる」と読み進んだとしても、すぐにその破調に気がついて「くち」と読み直してくれるはずである。この「魚」は鉢の中の金魚ではなく、池で泳いでいる鯉を描いたものだろう。この句のいい点はその鯉の口を「唇」と漢字表記にしたところ。魚の口先が固く尖ったところを描くのに効果を発揮している。「俳句のような短い詩型では、悪口をいうのはそんなに難しいことじゃない。一番大事なことは、明快に句のいい点を指摘すること。」と、飯田龍太きわめて俳句的な特質を示唆するような読み方を提示している。この句にはもうひとついい点があった。魚が吐く泡を「しゃぼん玉」と見立てたところである。おそらく作者はそこに虹を見つけたのに違いない。


白日傘四角き空の堕ちて来る 小田島渚

ブロッコリーの右も左も敵地かな 同

白日傘の句。この句の眼目は「堕ちて来る」の「堕」の一語にある。ふつう(従来は、と言った方がいいかも知れない)俳句を読み解くキーワードは季語にあるが、この句は「堕ちて来る」がよく一句を物語っている。「四角き空」はビルの合間から見える青空だろう。その空が「堕ちて来る」(「落ちて来る」ではなく)と言っているが、じつは白日傘の持ち主が堕ちていくのを感じているのである。季語の「白日傘」は本編の物語にぴったりの小道具だ。主役さながらの役割を担っている。つづく「いつまでも咎めるごとく夏の月」はまるでその続編のような作品だ。

ブロッコリーの句。ブロッコリーというと、わたしはいつも脳が肥大化した宇宙人の頭を連想するのだが、その花言葉は「小さな幸せ」と、いたってささやかな地球人的なそれに関係しているからだろうか、最近では結婚式でブロッコリートスが行われることがあるそうだ。揚句の「ブロッコリー」はまるでそんな場面に投げ出されて戸惑っているように感じるリアルさがある。「右も左も敵地」とはまさに言い得て妙。読者の想像力はさらにふくらむだろう。


夏蝶の歴史はつねに紀伝体 土井探花

銀紙に包んで虹を捨てたのね 同

夏蝶の句。夏蝶の歴史はつねに紀伝体だという。紀伝体で書くべきだというのだ。おそらく、この「夏蝶」はオオムラサキのような大型の蝶に違いない。しかも歴史に刻まれる威風辺りを払う風貌、たとえば楊貴妃のような蝶なのだ。そうすると当然歴史的な出来事を年代順で記してゆく編年体ではなく、中国の列伝のような紀伝体で書くべきだろう。一句全体に及ぶ説得力は副詞「つねに」に託し、詩は断定であるという好例を示す。

銀紙の句。「銀紙に包んで」というと、つぎにくるのは銀紙に包まれていたガムだろうと思っているところに、これがガムではなくて「虹」という読み手の意表を突く言葉がくる。すると、人はハッとする。この意外性に詩が生まれるのである。この句の「虹」はまるでついさっきまで噛んでいたガムのように表現して、しかも「捨てたのね」と残念そうに言う。このつぶやくような口語句に俳句の未来を明るくする予感がある。なぜなら、詩は作者の意図でできているわけではなく、生きている言葉でできているのだから。


津波来し岩の変色夏岬 広渡敬雄

かく細き松でありしか大南風 同

「三陸海岸」というタイトルを目にしたとき、テレビのニュース映像で見たときの情景が浮かんだ。とくに上掲に引いた二句は、それ以後の三陸海岸を彷彿とさせるものがある。しかし両句を詩的テクストとしてみたとき、常識というロープに縛られた現実世界の外に想像力が支配する世界があるのだという、その存在を提示することこそが詩であり、俳句という詩形式の存在意義もまたそこに見出せるのではなかったか。掲出した作品にかぎっていうと、三陸海岸という重いキーワードがすべてを物語っていて、評者の付け加える余地がひとつもない。句の背後に謎めいたことのひとつでもあれば、詩的とはどういうものであるのかわかるような気がすると思うのだが、どうだろう。


抱かないかたち案山子の両の腕 野名紅里

水澄みて詩集に脱字見つけたる 同

抱かないの句。そう言われてみると確かにカカシはぶっきらぼうに両の腕を横にひろげた格好のままである。だけど、なにを抱いていないというのだろう。抱きたいというこころの表れが作者をして「抱かないかたち」と言わしめたのだろうか。抱かないかたちはまた抱きたくても抱くことができないかたちでもある。それは十字架に張り付けられているように見えなくもない。けれど、見方によっては両の手をひろげてずっと誰かを待っているようにも見える。それもまたそう感じるわたし自身のこころの表れなのだろう。この「案山子」は深層構造と表層構造を結びつける役目をしているのかも知れない。

水澄みての句。水辺のカフェテラスで詩集を読んでいると、ふと脱字があることに気がついた。「見つけたる」に発見のよろこびが満ちあふれている。だが、それだけであったら現実の景でつまらない。澄んだ湖に詩集を落としてしまったほうが面白い。その詩集を水から掬い上げたとき、「脱字」した文字がくっきりと浮かび上がった。そんなふうに想像すると楽しい。詩集もきっと美しい装丁の造りになっているに違いない。


髙木小都 祝福の鐘 10句 ≫読む  第828号 2023年3月5日
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