2024-03-17

 成分表92
おにぎり食べたい 

上田信治

 (「里」2022年5月号より改稿転載) 

 

「おにぎり食べたい」と書いて餓死した人の話を聞いたことはあるだろうか。

生活保護を打ち切られた人が、アパートで亡くなった状態で見つかった。

その人がノートにそう書き残していたのだ。

その人は、どんな気持ちでそれを書いたか。上京した若者がノートに「ビッグになる」と書くことと、それはどう同じで、どう違うか。

その人のノートに残された言葉の多くは、彼の生活保護をむりやり打ち切った行政への怒りだった。

「せっかく頑張ろうと思っていた矢先、切りやがった。生活困窮者は、早よ死ねってことか」

「小倉北のエセ福祉の職員どもこれで満足か。貴様たちは人を信じる事を知っているのか。3月家で聞いた言葉忘れんど」

「午前2時 腹減った。オニギリ腹一杯食いたい」

「おにぎり食べたい」

「おにぎり食べたーい」

自分がこんなにも苦しいこと、そして、たぶん、もうすぐ死んでしまうことは、ものすごく不当なことであるはずだ。

彼はそれをノートに書いて、世間のような誰かにむけて訴えていた。

そんな悲しい言論があるか。

ノートに「ビッグになる」と書く若者は、その日、自分の中で輝きを失いそうになったその言葉を、嘘にしないためにそれを書くのだろう。

彼はその言葉を何も知らない弟に言うように言い、そして、読み返して、誰かの声として聞いた。

ノートに何かを書くことは、自分を、自分から薄く引き剥がす。

人はその言葉を自分に言い、そして、誰かの声として聞く。そこには、自分の代わりにそれを「言う/聞く」誰かが現れる。

「おにぎり食べたい」と書いたとき、その人は、ノートのむこうにいる誰かに、すこし甘えたのだ。

そしてそのとき、やっと自分を「かわいそうだ」と思えたのではないか。


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