2024-08-04

成分表93 感謝

成分表93
感謝 

上田信治

 (「里」2023年3月号より改稿転載) 



バイト面接官「あなたの欠点はなんですか?」
志望者「……ありがとうが言えないことですかね」
面接官「それは、相当な欠点だね」

これはセルライトスパというお笑い芸人の人たちのコントの台詞。

いまは感謝は大事と誰もが言うから笑えるやり取りだけれど、感謝がある種の徳目として扱われるようになったのは、わりと最近のことだ。

その風潮に反発してか「感謝はほんらい不自然なものだ」と書いていた人(ちょっと悪ぶった中年男性)がいて、妙に印象に残っている。

たしかに、犬猫が感謝するとはあまり聞かないから、その男性の見解には一理ある。

しかし、幼稚園児にも「ありがとう」は理解できるのだから、園児と犬猫の間に、私たちが越えるべき一線があるのかもしれない。

犬猫も、幼児も「いいこと」をしてもらえば、自然な感情として喜び、うれしがる。違うのは、人間の幼児だけが「ありがとうを言いなさい」と言われることだ。

なぜ人は、その感情を、相手に見せなければならないのだろう。

自分は、コンビニや飲食店では、店員の人に「ありがとう」を言うほうだ。

その「ありがとう」は、何かを一方通行にしないために相手に渡す、トークンかチップのようなものだと思っている。
人間の社会活動は、本能に近い好意や善意に基礎づけられている。

だから、人は挨拶のように「ありがとう」と言い、そこに常にあるミクロの好意や善意に返礼をする。

店の人が言う「ありがとうございます」からして、経済行為としては、なくてもいいのだけれど、私たちの知る多くの場所では、そうなっていない。

では、もっと本格的な、涙を流して「ありがとう」と言うような感謝についてはどうか。

それは挨拶とはちがう、心からわき起こるような感謝である。
お金に困っている時に、誰かが十万円貸してくれたら、人は心から「ありがたい」と思い、相手にそれを伝えると思う。

ではもし、道で十万円を拾ったら。

その人が厳密に合理的であれば「ラッキー」とは思っても「ありがたい」とは思わない。それを感謝できる相手は、神様しかないからだ。

さらに言えば、それが神様のおかげだとしても、神様がルーレットを回した結果(つまり偶然自分を選んで)そのお金をくれたのだとしたら。正しい反応はやはり「ラッキー」であって「ありがとう」ではない。

人が、神様にもらった十万円に涙を流して感謝をするとしたら、その人は、神とか天が自分を好きで選んでそうしてくれた、と信じているのだ。

つまり、感謝は、好意に対する応酬としてなされる。

しかし、注意しなければならないのは、恋愛的な意味での好意、つまり「好きです」に対して「ありがとう」と返すことは、奇妙であり不適当であることだ。

「好きです」に対する可能な正しい返答は「私もです」か「ごめんなさい」の二つしかない。「好きです」に対して「ありがとう」とさわやかに言い放つことの奇妙さは、その人が、相手の好意それ自体を「贈与」として、ありがたくいただいてしまっていることから来る。

つまり、感謝は、贈与に対する返礼でもある。

しかし、当り前のことだけれど、王様が受けとる貢ぎ物とか、広告代理店からもらうお歳暮のような、百%の儀礼的贈与には、感謝という感情が起こりにくい。もし、国民が本当に王様のことが好きで、貢ぎ物をくれたのであれば、王様にも(よい王様であれば)民に対する感謝が生まれるかもしれない。

以上を整理すると、人の感謝の感情は「好意」と「贈与」のセットによって生じる。「好意」と「贈与」どちらが欠けても、感謝が自然にわき起こるということはない。これは定義と言っていいと思う。

定義:「感謝」とは「好意による贈与」に対して起こる感情であり、それを示す儀礼である。

レジの人に「ありがとう」と言うことに拒絶反応を示す人は、そこには「好意」も「贈与」もないではないかと言いたいのだろう。

しかし、パンデミック下においては、多くの人が医療従事者に感謝した。

あるいはアイドルの人に「生まれてくれてありがとう」と思うファンがいる。

人は、そこに世界に対する「贈与」と、そのようなことを可能にする根源的な「好意」(善性と言ってもいい)の存在を認めて、それに対する返礼を感謝という様式で示したのだ。

レジの人に「ありがとう」を言う人は、人がするサービスの全てが、その同じ善性の分かち合いであると、どこかで分かっている。

神への感謝というあらゆる宗教に普遍的な感情は、世界の源が、まさにその善性の発露と贈与からなる、という直感から生じるのだろう。

いっぽう、この世の偉い人がお礼を言われがちであるのは、単に、感謝というものの儀礼的性格がフル活用されているに過ぎない。

また、自然とか文化的伝統のような所与のものに感謝することは、敬虔なようでいて、自分を「その好意を受けとる者」の地位に引き上げるという身ぶりを含むので「しょってる」という印象を与える。

というわけで。自分はだいたい、感謝ということが分かった。

人は、何かしてもらったら、喜んでいることをふさわしい言葉と態度で相手に示す。それは、人間社会への参加料であり、必要なことであり、いいことだ。

感謝の起源には、たぶん、贈与に対する負債の感覚があるけれど、日本語でいうお互い様、おかげ様は(固い言葉で言えば、互酬性と社会的贈与ということになる。両方「様」の字がついていて、ちょっと怖い)それで世の中がよく回っているのだから、やはりいいことに違いない。

と、分かりはしたのだけれど、自分のことを言えば、個人的にむけられた好意と贈与に対して、感謝が少ない傾向にあると思う。

先年、母が死んだのだけれど、自分は母に対して、ついぞ感謝という感情を持てなかった。親が子にくれる愛情は異質すぎて感謝ではバランスがとれない。あの人になにも返せなかったことを、悔やむばかりだ──と、書いてみたけれど、正直、きれいごとにすぎる。

自分は、やはり、平均に比べて感謝がよく分からない、気持ち悪いほうの人間であるらしい。

ふつうに親切で礼儀正しいほうだと思うし、利己主義であるとか感情が死んでいるとかではないのだけれど、よくよく考えると、自然な感情として感謝がわき起こる、ということがあまりない。

人の好意が、分からないのかも知れない。

だいじょうぶだろうか、こんなこと書いてしまって。


洋梨はうまし芯までありがたう 加藤楸邨


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